2021年7月10日土曜日

断想: 「進歩」と「変化」について思う

日記の代わりに書き続けているのがこのブログで、その意味では文字通りのWebLog、つまりWEB上の航海日誌なので、よく以前に書いたことを自分で検索することがある。

キーワードを「作品 アップ」としてブログ内検索をかけて返ってきた中に、まだ常勤現役時代の投稿があり、そこには拙い自作の作品をアップしているのが分かった。『こんなものもアップしていたのか・・・』と、改めてうなるような気分になる。

うなる気分というのは、「進歩」なり、「上達」というのは、結局のところ、あるように見えて、結局その人には起こりえないものなのか、と。そんな風に思わせてしまうからだ。

これもメモ代わりにアップしておこう。


ごく最近これを描いた。勤務していた研究棟の裏庭である。少し美化しているが、まあ、意識下ではこんな風に記憶しているということでもある。

上に引用した8年前にアップした絵と比較すると、描き方は変わったものの、レベルが上がったわけではなく、ただ変わった、どうもそれだけのようである。それだけではなく、前の作品にはアク、というか(時に押しつけがましい)自己表現(?)を自分でもみてとれるのだが、いまアップした上の作品は、よく見かける類似作品もあったりして、「ま、うまくかいたね」でスルーされて終わりそうである。

つまりは、この10年弱の間、趣味とはいえ小生に起こったことは《進歩》ではない。《変化》である。

こんな感覚は、(思い切って話を大きくすると)社会全体にも敷衍できるところがあるのではないだろうか?

確かに《科学知識》は時とともに単調に増大している。だから、化学繊維の登場は「進歩」であったし、インターネットの拡大は通信技術の「飛躍的進歩」であると、(ほぼ)全ての人は考えている(と思う)。

しかしながら、人が着用する衣服が木綿や絹から今ではナイロンやアクリル、テトロンに変わったからと言って、それは進歩なのだろうか?谷崎潤一郎が『細雪』の中で「いまではこんな着物は手に入りません」(確か?)と語らせているが、同じことは色々な美術工芸品にも言えるわけである。あるいは、人と人とが意見を交換し、集団としての合意なり、結論を出し、そのあとの行動につなげようとするとき、現代の人はインターネットがなかった昔の人たちに比較して、より上手に、速やかに、正しく、意思決定をしているだろうか?昔には出来ていたことが、今では出来なくなっていることはないだろうか?(もちろん反語的疑問文である)

もちろん、幼児死亡率が低下し平均寿命が長くなったことは、これは確かに「進歩」なのである。私たちは、以前よりも進歩した社会で暮らしていることは事実だ。しかし、進歩と同時に失われたものも多い。全てを合計すると、100年前と今の日本は別の社会であるとは言えるが、それは「進歩」というよりは「変化」と言うべきである。こんな見方もありうると思うようになった。

私たち人間には興味もないが、蟻や蜂にもその社会技術において、長期的には「進歩」があるかもしれない。専門家はもう探究しつつあるのかもしれない。しかし、人間にとって「蜂の進歩」、「蟻の進歩」は、「変化」としか目には映らないだろう。

過去を美化する儒学思想は近代科学による啓蒙と進歩に駆逐されたはずであるが、何が進歩し、何が変化に過ぎないのか。この点は結構重要な問題ではないかと思う。理念や価値観、主義、思想には進歩はなく、風化と変化のみがある。こんな見方も確かにありうるような気はする。だからこそ、《動かぬ原点》を過去に置いたのが儒学などの東洋哲学であるのかもしれない。

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