ずいぶん以前の記事になるが2013年当時、日経にはこんな報道があった:
2020年東京五輪招致委員会の竹田恒和理事長は5日、国際オリンピック委員会(IOC)による独自調査で東京の支持率が70%になったと発表した。データは7月に公表される評価報告書に盛り込まれる。東京はこれまで低い支持率が課題だったが、目標の数字に到達した。
調査結果はIOC評価委員会との2日目のプレゼンテーションの中で東京側に伝えられた。東京で70%、全国で67%だった。調査時期や方法は説明されなかった。
昨年5月の1次選考時の支持率は47%で、イスタンブール(73%)とマドリード(78%)に比べて著しく低く、IOCから「強力なコミュニケーションプランが必要」と指摘された。1月末の招致委の独自調査では73%まで上昇していた。
竹田理事長は「招致委立ち上げのときから目標にしてきた数字。昨夏のロンドン五輪での日本選手の活躍が支持率上昇につながった。全国の自治体などの支援もあり、日本で開催する意義が伝えられた」と分析した。猪瀬直樹都知事は12年大会招致に成功したロンドンの支持率が68%だったことを引き合いに、「最低限のラインはクリアした」とコメントを出した。
4年前の16年招致の際は55.5%で、立候補4都市中最下位だった。国内機運の盛り上がりは再挑戦で最大の懸案の一つとされてきた。
出所:日本経済新聞、2013年3月5日
2013年にやっと70パーセントであったが、その前年2012年には47パーセントで、東京五輪に対する地元の支持率は半数にも満たなかった、ということだ。
それが本年1月になると
世界のメディアが東京五輪・パラリンピックの今夏開催に関する世論調査の結果を大きく報じた。共同通信社が9、10日に全国電話調査した結果では、「中止すべきだ」の35・3%と「再延期すべきだ」の44・8%を併せると、反対意見は80・1%。昨年12月の前回調査の同61・2%から激増した。
出所:東京中日スポーツ、2021年1月11日
この後に、さらに記事は続き
カナダ放送局CBC(電子版)は「熱狂の1964年の五輪とは対照的な支持の減退。57年前の東京五輪は、第二次世界大戦の灰の中からの再生を象徴していた。今年7月に延期された五輪とはあまりに違い、皮肉なコントラストとなっている」と報道。『菊とバット』などの著書で知られる東京在住のロバート・ホワイティング氏は「コロナ、制約、不況下の経済減退。さまざまな理由で、ほとんどの人が五輪開催に反対している。コロナさえなければ、大半が賛成していただろう」と現状を語った。
という風に、海外から日本を観る側の結構適切な批評が紹介されている。
ここでは『 コロナさえなければ、大半が賛成していただろう』と書かれているが、小生はそうは思わない。そもそも五輪招致推進側のテコ入れがなければ、地元の開催支持率は半数にも満たない状況からスタートしたのである。これが、マア、今回の東京五輪をめぐる(グレアム・グリーンの言葉を借りれば)『事件の核心』であると思うし、《ことの真相》は歴史を振り返ると、自ずから明らかだろうと、今更ながらそう思われるのだ、な。
崩れるべきものが、ついに予想外の暴風に耐えられずして、崩れた。そういうことだろう。
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東京五輪開催が決まったとき、カミさんは
なぜオリンピックなの?東北や福島県の被災者はまだ元の家に戻れないのに、そっちの方にお金を使わないといけないんじゃない?
その頃、小生は
災害から復興するためにも日本経済を上向かせなければ、お先真っ暗なんだよ!
そう答えていたものだ。
東京五輪開催への地元支持率が半数にも達しなかった2012年当時、日本は民主党政権の迷走と、通貨安定へ力点を置き過ぎた金融政策により、1$=80円を割り込むという、《超円高不況》に入りつつあった。無為無策の民主党政権のあと、日本をどうすればよいのか、という問題を解決することが求められていた。
国際観光ツーリズムを戦略の一つとする選択が、それ自体、間違いであったというと
ならば、お前ならどうした?
と聞かれそうである — マ、今になって、それ以外にやるべきことはあったでしょ、とばかりに色々なサボリのツケが表面化しているわけだが、それをその当時、一体だれが指摘していただろう。現代日本の集合知のレベルはこの位なのだと理解するべきだろう。
2012年当時の訪日外国人観光客数は僅かに836万人。2019年の3188万人に比べれば、雲泥の違いである(資料はこれ)。安倍政権が選んだ観光ツーリズム戦略の結果がここに表れている。東京五輪は、(ぶっちゃけて言えば)この経済戦略を支える柱の一つであったことは、紛れもない事実だろうと小生はみている。
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新型コロナが日本に上陸してからの推移は周知のとおり。その果てに、東京五輪が2021年に1年延期され、ついにはそれも無観客開催へと追い込まれたわけなのだが、その根本的背景の一つに、東京五輪を願う地元の(そして日本全体の)熱意がそもそも大したものではなかったことがある。
いわゆる《五輪反対派》がその根本的弱点を上手に利用して攻勢に転じた。
五輪開催をめぐって相次いで発生した不祥事をフレームアップして《五輪懐疑派》を形成した。海外由来の好機があれば、国内で団結するのではなく、逆にその機会に乗じてキーパーソンを役職から引き下ろした。そして五輪開催サイドの人材のレベルを引き下げ、問題への対応力を低下させた。メディアにも浸透し、コロナ禍を決定的好機として五輪中止への世論の流れを形成し、ついには無観客開催というギリギリの選択に主催者側を追い込み、それすらも世論との乖離があると今もなお攻撃しつつある。
小生は、徹底したへそ曲がりだから、こんな時は一歩下がって達観するのが習慣だが、上のように時間的推移を整理すると何だか《東京五輪をめぐる陰謀史観》もハナッから否定できるわけじゃあござんせんぜ。そう言いたい気持ちにもなる―チケットは持っていないが、やっぱり観客を入れたオリンピックの熱戦は観たいからだ。
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振り返ると、1920年代にも日本をとりまく国際政治環境は猫の目のように激しく変化して、旧来の常識にこだわる日本政府(及び日本人)を翻弄した。
リーマン危機に続く東日本大震災は、第一次世界大戦によるバブル崩壊の後の関東大震災にも似て、甚だ運の悪い災害であった。アメリカの急速な台頭と近年の急速な中国の台頭も、何だか似ている。それに原子力発電から再生エネルギーへの急速な転換も日本のエネルギー計画における課題である。カーボン・ニュートラルが叫ばれる世界の潮流にも日本は翻弄されつつある。
自然災害と国際政治環境の激変に翻弄されつつある日本の中で、政府が選ぶ戦略が常に最善である確率は決して100パーセントではない。変化し続ける環境の中でオペレーションの一部が事後的に失敗する可能性は常にある。そんな成功と失敗が織り交ざりながら進むのが現実である。その現実に翻弄される日本人はそれでも現実に対応しなければならない。「一寸先は闇」の中で現状を理解しながら乗り越えていくには《政権交代》が不可欠の政治的メカニズムになる。
戦前期の日本では、政友会と民政党による「二大政党制」がすでに根付いていたとよく言われるが、それは過大な評価というものだ。当時の日本の政党の発祥と支持基盤は、ずっと制限選挙制の下で選挙権を有してきた「多額納税者」であって、大半は旧士族、地主、経営者などの《指導層・有産階層》である。「二大政党」のいずれも多数を占める中下位所得層の利益を代表する政党ではなかった。確かに二つの政党は対立していたが、それは党設立以来の人の縁によるものであるし、違いをしいてあげれば官僚出身者が多いか(民政党)少ないか(政友会)くらいであったろう。庶民と議員は生きる世界が違い、どちらの党でも同じであったろう。だから、大正14年に普通選挙制が実現したあと、それまで選挙権のなかった日本人は既存政党の基本的な考え方やあり方に激しく失望したのである。だから不安定化した。共産主義者が弾圧される中で、その疑似的代替組織として失望を埋めたのが陸軍だ。
現在の日本の政党は、当時とは違っている。しかしながら、政権与党の柱である自民党は、その前身の政友会、民政党と、政党としてのあり方がほとんど何も変わっていない。自民党が、その根本的構造を変革できる可能性はほぼないと思われる。支持基盤が変わらない限り、その政党で構成される政府は基本的には同じ方向の政策を選ぶ。政党主流派が交代しなければ一層のこと政策選択は硬直化する。
今回の東京五輪開催をめぐって、日本政府は暴風の中で翻弄されるかのような体を示したが、政権を支える政党のあり方が変わらなければ、今後もずっと翻弄され続けることが予想される。ついに力がつきて新しい政権が誕生する時は、日本に何も残らず、かつ何も新しい力が生まれていない。そんな惨状すらありうることである。そんな心配をするにつけ、幕末から明治への道を自らの意思によって開いた最後の将軍・徳川慶喜の判断は、改めて高く評価してもいい。そんな感想だ。
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