2021年7月19日月曜日

「日本人は変わった」への補足

昨晩は、いわきの勿来で暮らす弟と1時間余り電話で、というよりスマホの電話で話し込んでしまった。

話しは、コロナワクチンから五輪へ、それから中国へと飛んで行ったのだが、弟にとっての最大の疑問はパンデミック下の五輪開催を組織的に整然と実行するなどは、何をやればよいのか分かっている課題なので、日本人は最も得意として来たはずだ、それが何故これほどノロくて、しかも多くの凡ミスを繰り返しているのだろうか? そんな疑問があって、どうしても分からん、と言うのだ。


この辺りは、この20年に限ってみても教育現場で若い人を身近で見て来たし、新しく高齢層に仲間入りした人たちを街中で目にすることもあり、以前の時代と比べた激しい変わりぶりを小生もみてきたので、大体は理解しているつもりだ。

少し前に投稿もしていて、そのサワリの部分を引用すると

とにかくも日本人は変わりつつある、30年前の日本人と今の日本人は考え方や感性がまったく別の人間集団になった。まして2世代も前の60年前の日本人と今の日本人とでは、今日の日本人とイギリス人と同程度の違いが、感性、気質、行動において認められるに違いない。そんな変化が、言葉の変化にも表れている。そういうことだろう。

これとはアンチテーゼになるかもしれないが、こんなことも数年前に投稿している。

しかし、幼稚化しているのは若年世代だけではない。これまた事実だと思う。大体、TVのワイドショーに出てくる各界の中高年。何と若いことよと画面を通していながらもわかる。オジサン、オバサン達が同世代の仲間達とはしゃぎ回る姿は、小生の亡くなった両親と同国人であるとはとても思われないのだな。自動車の運転ぶりを見てみたまえ。アッと驚くとんでもない暴走や追い越しをしかけているのは、しばしばシルバーグレーの往年の名ドライバーと思われる御仁である。やはり戦争を知らない世代は幼稚化するのかねと。そう思ったりもすることは多い。

要するに、上に書いてもいるが現代の日本人はほとんど全て《戦争をしらない大人たち》になってしまった。これが本質的であると思う。小生も含めたこの人間集団もかつては《戦争を知らない子供たち》であった。

〽 戦争が終わって 僕等は生れた

 戦争を知らずに 僕等は育った

 おとなになって 歩き始める

 平和の歌を くちずさみながら

 僕等の名前を 覚えてほしい

 戦争を知らない 子供たちさ

考えてみれば(考えなくとも分かり切ったことだが)、1964年に開催された東京五輪を招致し、見事に開催したのは、(小生からみると)40代であった父親の世代、60代であったはずの祖父たちの世代である。

当時の東京都知事・東龍太郎は明治26年(1893年)生まれで、敗戦時には 52歳であった。小生の亡くなった父は一介のエンジニアであったが、育ったのは戦前期の日本であり、正課の中に「軍事教練」があった。というより、全ての日本人男児に兵役の義務が課されていたことが、現代日本との最大の違いであったはずだ。ズバリいえば、すべての日本人男性は、《いざとなれば》命の危険が高い公的業務に就くことが義務付けられていた、というわけで、そのため全ての日本人男性は銃の操作、格闘技、相手が刃物をもって襲ってきたときの基本的身ごなし等々、全ての武技を徹底的に叩き込まれていたばかりではなく、指揮官の簡潔な命令一下、整然として集団行動を展開するための感覚や意識も統一されていたわけである。これらが《義務》であったという点が《昔と今と》の違いの核心である(と小生は思っている)。

この違いが、家庭の雰囲気にも強く映し出されてくるのは、「理の当然」であったと思う。男児が誕生すれば、万が一のときには兵に召集される可能性を覚悟しなければならず、できれば「一兵士」ではなく、有用の人材となって研究開発に携わる能力を付けさせたいという親の願いにもなったとしても、その感覚はリアルタイムでそんな世界を体験できなかった小生にもよく分かる気がするのだな。

1964年の東京五輪は、そうした世代にとってのリベンジの機会でもあったわけで、開催地に決定してからは、身に着いた能力をそのまま発揮すればよかった。そんな理屈なのであったろう。

 ★

現代日本はまったく違う。

そもそも現代の日本人は、「日本国」に対していかなる義務を負担しているだろう。

兵役の義務はなくなった。そのため基本的な身体訓練はいっさい受けることがない。統一的な感覚や意識はもっていない。

納税の義務は確かにある。確かにあるが、しかし、国家の歳出の半分も租税としては納めていない。税率が低すぎるのである。もしも「税ではない」社会保険料が厚労省の裁量で引き上げられていなければ、今頃は日本の年金制度、医療制度はとっくに崩壊して、社会は大混乱に陥っているだろう。租税でさえなければ、案外すなおに負担増を受け入れる日本人の傾向に助けられているにすぎない。

教育の義務もまた最近は怪しくなってきた。小中学校の現場がその学習内容や学習意欲の形成という面で迷走状態に陥ってからすでに久しいが、いまでは子女の教育費を節約して娯楽費にあてる両親ばかりではなく、あろうことか「児童虐待」すら増加しつつあるのが現代日本の世相である。

勤労の義務も憲法に規定されているところだ。これは「義務」というよりは、義務であると規定する以上、政府の側に十分な就業機会を提供する義務があるという意味にもなるので、経済政策目標としての完全雇用を定めたものとして解釈することも可能だ(と個人的には考えている)。・・・ただ、どうなのだろう? 近年、国内は人手不足だった。就業機会は十分だった。そんな中で「勤労は義務なのだ」という「義務の自覚」がどれほど日本人に共有されているかと言えば、やはり疑わしい。ひょっとするとどこかのTVのワイドショーで誰かが「働かない自由もありますから」とか、「働かなくてすむ人生こそ最高じゃないですか」などと主張するかもしれないと、(ひそかに)心配しているくらいだ。

日本人が引き受けるべき「義務」はこの他には(基本的に)ない。

だから、前にも書いたことがあるが、戦前期の日本人に比べると、現代の日本人は(基本的に)楽で自由であるという理屈である。要するに、「国民共通のトレーニング」が有意義なことではなくなり、結果として規格化された均質の人材集団ではなくなってきた。良い意味でも、悪い意味でも、そんな風な変化が日本人には進んできた。と。どうもそんな印象なのだな。

小生: いま小学校や中学校でサ、運動会をするとき、どれくらい行進の練習をしてるだろうね? 北海道では、入場門や退場門もなくってネ、だから出場種目の順番が来ると、そのまま座っている場所からグランドにわらわらと出てくるんだよ。

弟: へえ~、そうなの。福島にはまだ入場門、退場門あるヨ。ま、行進練習はしないんだろうね、足はそろってないけどね、一応列をつくって入って来るヨ。

小生: 北海道でも昔はあったらしいんだよ。でも、誰なんだろうね『まるで軍隊みたいじゃないか』ってクレームが出てきたそうでサ、それで「もうこういうことは止めよう」ってことになったのサ。

弟: 確かに、足をそろえて行進して、特に左とか右に曲がるときはさ、内側の人が足踏みをして、外側にいくほど歩幅を大きくして曲がるじゃない。あれ、ぜんぜん面白くなかったけど、練習しないと絶対できんもんね。

小生: 運動会ひとつとっても、周りと合わせて動くためのトレーニングなんて、もうやらんわけよ。いま、役所で課長補佐やっているのは30代だよ。現場でヒトを動かす課長は40代だよ。下に指示を出しても、テキパキ動いてくれるなんて、もう期待できんだろ。どっちかって言うと、個人個人が熱意をもってやれる目的を決めてさ、「よし俺たちはこれでいこう」ってんなら、突破力は出てくるだろうけど、ま、せいぜい10人くらいで出来ることならいいけど、大集団が協力して、完璧に行動して、組織力を発揮するなんて、もう日本人にはできないんだよ。

弟: そうかあ~~。まあ、会社の中をみても、何だか納得って気はするけどネ・・・

小生: 組織的になにかをするなら、適した人は自然には出てこないから、あらかじめ基礎訓練をした人間集団を確保しておかないとダメだって事さ。アメリカやヨーロッパなら「軍」とか、「公務員」ってことになるけど、日本の自衛隊は災害救助や中国対応や、とにかく忙しいだろうし・・・公務員もだいぶん整理されたし、・・・大体、今度のコロナでも医療機関はすぐに音をあげただろ?もし無理にさせていれば、医療でも凡ミス連発だったろうね。

ま、こんな話をしてから、あとは中国の話しになっていったのだが、要するに政権上層部や与党幹部がいくら力んでみても— 力むことしか出来ないのが、「日本は上がダメ」ということでもあるのだが ―、上の意図通りに実行組織が機能しない。ある意味、現場もまた現場を把握しきれておらず、統率されておらず、混乱している。現場の混乱をまた上層部が解決できない。上も下も弱くなっている。

端的にいうと、

都市文明が発達した成熟国の弱さが表面化していて、蛮族に侵略されれば、やられてしまうのじゃないか。

と、こういう素朴な心配だ。

つまり、何か本質的なところが変わりつつある、ということであって、このことは中国もアメリカもヨーロッパもどこも、同じであって例外などはない(とみている)。

よく「国民国家(Nation State)」と言われるが、"Nation State"という概念は18世紀末以降にヨーロッパで発展した国家モデルであると、小生は勝手に思っている。明治日本は、その"Nation State"の国家モデルを天皇主権の「民本国家」として模倣しようとしたが、直輸入であったために後になってからマネージメントもリフォームもできず、結局のところ軍部独裁を許して破綻した、というのが戦前日本が歩んだ歴史だ。

現代の日本にも「国民国家」というモデルが適用されるとは、もう思えないのだ。大前提となる「国民」が本当に育ち行動しているか? 疑問であり、むしろ「国民」というより「大衆」と呼ぶべきではないかと思う今日この頃である。

国ごとに、歩んだ歴史も国民性も違うので、一般的なことは言えない。

言えないが、義務と責任がともなう反面で民主的であった共和政から、権力が集中するがパンとサーカスを庶民が楽しめた帝政へと脱皮することで、かえって不安定から安定へと移行でき、強固な国家組織として繁栄に至った古代ローマ帝国の例は、研究テーマとして今もなお有効ではないかナア、と思っている。なにも「大国の衰亡」の前例としてしか学べないわけではない。

 

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