2021年7月7日水曜日

使われなくなった言葉「特異体質」、「不可抗力」、「卑屈」についておもう

前稿では『濹東綺譚』の中から、「今では使えないのじゃないか」と思われる文章表現を引用してみた。これに限らず、ずっと前に公表された小説作品には(詩や俳句も?)、今なら使用を自粛するだろうと思われるような単語が頻出しているものだ。

おそらく、使う側に悪意などはなく、ただそれによって不愉快になる人たちが何人かいるという問題が、時間の経過と人権意識の高まりの中で、今のような「タブー集」になってきたものと推測される ― 実際に、そんなタブー集があれば見てみたいものであるし、それがどのような手続きでオーソライズされているかは、憲法上の表現の自由を侵害していないのか否かで、重要な点になると(個人的には)思うのだが、今は「使う側|する側|言う側」の権利より、「使われる側|される側|言われる側」の権利に相対的なウェイトが移ってきている、そんな時代の感性というものが背景にあるのだろう。

その時々の時代の感性が移り変わるとともに、クローズアップされる問題もあれば、フェードアウトする問題もある。

20年も経てば現役世代の過半は交代する。人が変われば理念や価値観、感性、発想は変わる。早稲田大学の校歌で謳うような

〽集り散じて 人は変れど

〽仰ぐは同じき 理想の光

などというのは、何事によらず創業者・思想家が陥る幻影である。ちょうどカール・マルクスが

 私はマルクス主義者ではない

発言したのもほぼ同様な成り行きを指して言ったことだろう。

***

そういえば、この10何年かで以前と比べるとメッキリ使われなくなった言葉がある。思いつくままに挙げてみると


★ 特異体質

 ワクチンで副反応が出て、(最悪の場合は)死に至ったりする。以前にもそんな出来事は何回かニュースで聞いたことがある。小生の幼少期にはまだ集団接種というものがあって、種痘、ツベルクリン、BCGは生徒全員が接種され、更に希望する者には日本脳炎、百日咳などの予防注射(=ワクチン)もあった。その頃、小生は田舎に暮らしていたので、日本脳炎の予防注射だけは受けた記憶がある。というのは、日本脳炎の予防注射はそれはそれは痛い注射で、その痛さが児童たちの間では伝説になっていたくらいなのだ。

それでも、稀には厳しい副反応に苦しむ児童がいたのだと思う。そんなとき、ニュースでは「特異体質」という言葉を使っていたような記憶がある。いまでは「アレルギー体質」、あるいはもっと穏やかな別の言葉で報道されているようだが、何百万分の1の確率で発生する副反応例を「アレルギー体質」というごく一般的な名詞で表現するのが適切なのかどうか、小生は疑問に感じている。花粉症やアレルギー性結膜炎も「アレルギー体質」に由来する症状だ。文字通りの「特異例」、「特異体質」という表現が正確であると思う。

多分、差別を避けるための人権上の配慮だと思われるが、言葉の正確性を犠牲にした「ひいきの引き倒し」ではないだろうか。


★ 不可抗力

例えば、先日熱海市で発生した土石流は「不可抗力」であったのかどうかが問題になっている。盛り土を行った企業に責任はないのかどうかが検証されるようである。

「不可抗力」という言葉だが、現在は「想定外」という言葉に半ば代替されている。というより、「想定外だったとお考えですか?」、「はい、そう思っております」、「本当に想定外でしょうか?想定しておくべきだったという指摘もありますが。現実に発生したことをどうお考えですか?」、「想定しなかった点について社内で検証しているところでございます」・・・と、マア、こんな極めて現代的なヤリトリが背景となって、「不可抗力」という言葉が使いにくくなってきたのだろうというのは直ちに分かる。

まあ、こんな追求をすれば、あらゆる交通事故に対して「想定外のことが起きたとお考えですか?」、「はい、そう思ってました」、「でも実際には事故は起きたわけですから、(少なくともネ)過失であったと、そうなりますよね?」・・・(実質的には意味がないのだが)こういう種類の形式論理学に普通のヒトが対抗するのは難しいものだ。

ずっと以前は、専門家の見解として

これは不可抗力ですね

こんな見解が報道されれば、専門家でも対応できない事故であったのか、と。そんな《諦め》の心理が広く国民の間には浸透し、被害者には同情と憐みが集まる。そんな情景であったと思う。

運・不運という要素に人生は大きく左右されるものだ。

「不可抗力」という言葉には、文字通り、抗いがたい力がこの世にはある。そんな認識なり、大前提がある。 

発生した現象に対して、「不可抗力」とは考えず、まずは「責任」を追及するという法律家的思考が社会に普及してきたのは、ワイドショーのレギュラー・コメンテーターに弁護士などの法律専門家が多数選ばれてきたという時代の流行と、どこか通底しているかもしれない。並行して進んできた両方に影響している共通のファクターがあるように思われる。地球温暖化を太陽系スケールの天文現象と考えず、二酸化炭素排出という人間の行為に主たる原因と責任を求めるのも、法律的発想に相通じるものがあると思ってみている。

《法律的思考》は、端的に言えば、黒白を明確化するためのロジック、である。つまり、法律的には、常に結論が明快に導かれるわけである。その結論が、真の意味で正しいか正しくないかは、経験的実証を経なければならないのだが、明文化された法的規定を前提として法理を貫徹させれば、社会で発生するあらゆる問題に対して、法律関係を措定し、《正解》を必ず出せる。というか、結論が出るように条文が書かれている。何ごとによらず《正解》を出すための工夫に対して社会的な需要がある。だから(実質的に正しい対応か否かは不明なのだが)形式上、法律を定める。そうすれば責任の所在を確定でき不可抗力による諦めをなくすことができる。

犠牲者を出さない。犠牲が出れば社会の中で責任を求める。

本来は不可抗力という力の作用は《リスク》であり、リスクに対しては《保険》というビジネスで対応するのが合理的である。ビジネスを成長させて合理的に対応するべきリスクという問題に、《法律》という思考でアプローチしている。法律は、古代ギリシア、というより古代メソポタミアの「ハムラビ法典」にまで遡ることができる社会的ツールであるが、本当に「法律」によってリスクを処理することが善いのかどうか。小生は「法律的思考」とは無縁の門外漢だからよく分からないが、リスクの根源には常に複数の可能性を考慮する不確実性がある以上、明確な結論を導くツールである法律とリスク・マネジメントとは水と油ではないか、と。個人的にはそう思っている。


★ 卑屈

この「卑屈」という言葉もあまり聞かなくなった。

これをどう観るかは結構微妙で難しい。ここではいま思いつくことをメモしたい。

石田禮助という三井物産社長や国鉄総裁を歴任した大物財界人がいたのだが、城山三郎がこの人物を主人公として『粗にして野だが卑ではない』という作品を書いている。

卑屈を英語でいえば"mean"や"nasty"、"dirty"あたりになるが、決して "rough" や "rude" と同じではない。言葉使いは無礼で乱暴でも、その心根は清潔かつ剛直で、誰に対しても媚びない人物がいる。媚びないというのは、最近のマスコミ業界では忖度をしないという表現になるが、これは語法の間違いであって、正しくは阿らない、おべっかやお世辞を言わないということである。英語で言えば、卑しい(mean)の反対は"noble"だが、この"noble"を日本語になおすとき、簡単に貴族的と言うべきではないと感じる。むしろ日本の歴史に則すと、noble=samuraiという関係になると思う。『私も武士のはしくれでござる』という言葉が、「あの人はノーブルである」という、そんな感覚になるのだろうと感じる。

こう考えると、「卑屈」という形容詞は、「あの者は武士ではない」という感覚に極めて近く、つまりは「言葉を変える」、「上司におもねる」、「うそをつく」、「腹を切るべきときに腹を切らない、責任を全うしない」、「生死のかかるリスクを避ける、保身第一」等々、要するに「身を屈して生存を願う」という姿勢を「卑屈の表れであって恥ずかしい」と感じる、ここに"nobility"(=nobleの名詞形)の核心があるわけで、それがこれまでの日本人の中に濃厚に残ってきた行動倫理と一体になっている。

そういうことで日本人は卑屈な人間を嫌う ― というか、嫌ってきた。卑屈な人間が嫌いであるという人間観は、同じく武断的な騎士社会を経た欧州社会の人間観にも通じる面があった。つまり最後には「命をかけて責任をとる覚悟があるか」という《生死を超えた覚悟》にモラルの源泉を認める、それこそ生きた人間に宿るモラルの本質である、と。何か裏から考えているようだが、《卑屈》とは、いま述べたことの真逆の心性。そういうことであると思うのだ、な。

その「卑屈」だという言葉が、最近はメッキリ聞かれなくなった。この変化と並行して「上から目線」という表現が頻繁に使われるようになった。前者は下を見て侮蔑する言葉である。後者は上をみて怒りを示す言葉である。この二つの変化には何か関連性があるような気もするが、実は正直ハッキリとは分からない。

よく分からないのだが、感覚的には分かるような気もする。「そんな卑屈なことはできん」という言い方は、「卑屈な行動をしている奴がいるが、そいつらと俺は違う」と、そういう意味であって、聞いている側は「自分と人とは違う。自分を人より上だと考えている、何という高慢なヒトだ」と。そういうことなのかもしれないが、しかし、この反応は永井荷風が懐かしむように正しく江戸町人が武士に対してもっていた共有された感覚なのだと思う。

かつて天谷直弘という独創的な通産官僚が1989年に《町人国家・日本》を唱えたのだが、出版から30年余を経た現在から振り返ると、より深い意味でも日本人からサムライは消え失せつつあるのであって、みな普通の町人、どの人も卑しいわけでもノーブルであるわけでもなく、ウソと誠を織り交ぜた才覚で富をなせばそれが成功した人生だ、と。そういうことかなあ、と思っているところなのだ。

とにかくも日本人は変わりつつある、30年前の日本人と今の日本人は考え方や感性がまったく別の人間集団になった。まして2世代も前の60年前の日本人と今の日本人とでは、今日の日本人とイギリス人と同程度の違いが、感性、気質、行動において認められるに違いない。そんな変化が、言葉の変化にも表れている。そういうことだろう。

***

そういえば、ワクチン接種が拡大しつつあるコロナ禍終盤においてイギリスと日本とで正反対の政策を選んでいる。イギリスは行動規制を撤廃して賭けに出る一方、日本はそのイギリスより社会状況はマシであるのに、五輪は無観客でとより慎重になっている。一人ずつをみると、客員研究員として滞在中のイギリス人研究者と日本人とで、それほどの違いがあるわけではない。美味いものは美味いというし、会議中に所長と重鎮教授が激しい口論をすれば、同じように顔をしかめるものだ。しかし、長く付き合っていると日本人同士でも価値観や感性が大きく違うことに驚くことがある。何千万人という国民全体となると、日本人とイギリス人の平均的な感性の違いが合計されて、正反対の行き方を選ぶとしても、なにもおかしくはないわけだ。とにかくイギリス人は他国はしないことをやって大英帝国を築いたが、日本は危ないと考えて鎖国を選んだ国である。国民性の違いというのは、行動の変化を通して観察可能であるということだろう。なるほどイギリスは戦争をすれば勝つ側におり、日本は負けた側にある、というのもこのつながりかと妙に納得したりする。

2 件のコメント:

さんのコメント...

いつぞやは突然失礼いたしました。さっそくご対応くださってありがとうございます。

さて、今日は記事について、少し。

特異体質ですが、若干ニュアンスが異なると思います。

昔こう言っていたのは、多分ですが、極低頻度ながら原因不明の重篤な病態を来す人(体質)を指してのことで、この場合の特異は、なんだか訳が分からない(けど、大変なことになる)というニュアンスを表現していたと思います。

現在は、稀な病態であっても世界のどこかで解析がおこなわれ、報告され、一部原因不明なものもありますが、大部分は例えばアナフィラキシーショックなど、原因も病態も判明していると考えられます。すなわち、何だか訳が分からない、というようなことはもはや無く、どのような現象でも必ず原因があって、~症候群とか~様病態と表現されるべきもので、特異体質という用語が使われることもないと考えられます。

百万分の一ぐらい発生するアレルギーの人を特異体質とか特異例と言うのは間違いで、もし原因がアレルギーならばアレルギーと言う方が正しいでしょう。
まあ、たとえばあるときに「あなたは特異な体質ですね」、と言えば、間違っていないかもしれませんが、実際にはそのような表現はしないと思われます。

* * *
 
ところで、宣伝めいて恐縮ですが、たまにはうちのサイトも覗いていただければと思います。

https://reisei2.blogspot.com/
(新型コロナウイルスを冷静に考えるブログ)

それでは。

Shilgeshamani さんのコメント...

コメントをありがとうございます。

おっしゃるとおり、「アレルギー体質」、「特異体質」は意味が異なり、使用される対象が違うのだと思います。

ただ、現在でも「インフルエンザ」、「日本脳炎」などの病名と「ワクチン」をキーワードにして検索をかけると、個別の医療機関では「特異体質」という用語が使われていて、それも正しい意味で使っているのかなあと思われる例があります。一方で、マスメディアでは「特異体質」のほうが最近ほとんど使われていないので、メモにしておきました。

ちなみに私の幼少期には「アレルギー」という言葉もまだほとんど使われておらず、例えば兄弟が卵アレルギーで症状が出て医院の診察を請うた時、『生卵にあたったのかもしれませんね、過敏な体質だと思いますから、生卵には気を付けてください」といった注意をうけていた記憶があります。卵くらいでは「特異体質」ではなかったようです。遠い記憶ですが・・・。

それから、どのような現象にも「原因」があるという点ですが、これは私の立場とは異なります。「因果関係」は人が思考するときの枠組みで、自然の存在自体とはまた別ですので、「すべてのことは因果関係という面から考えることができます」というのが私の立場です ― ブログの中で逆のようなことも書いていることがあると思いますが。