版画家の山下清は、何かといえば『兵隊の位でいうと・・・』という表現が好きだったそうだ ― ご本人の声を直接聴く機会には恵まれなかったが。
この伝でいうと、小生の亡くなった父も山下画伯と同じ物差しを共有していたに違いないので、
会社の何とか部長を兵隊の位で言うと、そうだなあ、連隊長といったところかな、だから大佐になるんじゃないかなあ・・・要するに、前線の指揮官だ。司令部じゃない。
いま生きていればこんな話をするのではないかと想像する。
であるとすると、父は呼称が「△△部長」という部長職についたことはなく、つける職階にあっただけなので「大佐」ではなく、その前の「中佐」だったことになる。
そういえば、「家族団らん」(というのも古色蒼然とした表現になったが)のとき、
まあ、大佐、中佐は犬のクソって言ってね
などと冗談半分に話していたのを覚えているから、数多くの戦争アニメが人気の的になっていた当時のTV番組事情も併せて考えると、「軍」と「生活」とは互いに溶け合っていた感覚であったに違いないのだ。戦後も20年がたった頃であっても、そんな感覚が濃厚に残っていたということだ。
ま、いずれにしても、古い、前の世代でのみ通用する語り口である。
つまり、小生は戦前世代の話しぶりと感覚を直接に聴き、戦前の感性に触れながら育った世代である。
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兵役の義務が全ての日本人男性に課されていた中では、軍体験というのは、全ての日本人男性の骨身に浸み込んだ共通経験となり、共通の言葉がそこで生まれ、例えば「カレーライス」のように味覚も料理も共通化され、良い思い出(であるはずもないが)としても、悪い思い出としても、軍務は忘れることができない国民共通の記憶になっていたはずだ。実際に従軍する男性にとっても、待つ側の女性にとっても、そうであった。この点が現代から過去を語る時の話しの核心だと思う。
よい、悪いではない。「そうであったのだ」という歴史的事実の指摘である。
この辺を押さえておかないと、《納税者感覚》という非常に共和政的な原理原則が甘々のモラル感覚で使われるという状況になる。この点は既に投稿したことがある。
実際、三島由紀夫という作家の作品を小生は最も好むというわけではないが、父と誕生年が1年しか違わないせいか、氏が遺した文章から伝わってくる思想なり、感覚なり、理念は父とほとんど重なっている。同じ言葉を使って書いている。あの世代の全員にとって、『あれ、覚えてるだろ、お前、その頃どこにいたんだよ?』と、そんな話題が生涯にわたって全ての日本人(男性)に共有される社会では、少なくとも「孤独なる宇宙」を感覚する人は稀なのではないか。
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国家モデルとして《民主主義》が強力で、《共和政》の国家の方が強靭である理由は、軍務や社会奉仕を含め、国民が共通に負担する義務の枠組みを国民自らが法制化できるからである。君主の無事ではなく、自分たちの安全のために行動する時でなければ、国民は自らの意志で団結できないのだという常識がここにある。このロジックは、正に古代ギリシア世界の世界大戦であったペロポネソス戦争を叙述したツキディデスの『戦史』でも展開されているところである。
民主主義は道徳的に善いから採用されるのではなく、国家として強いから選ばれるのだ、という理屈が日本ではまったく問題意識にすら上らないのは、ずっと不思議に思っている ― それでもなおペロポネソス戦争で降伏をしたのは民主主義国であるアテネの方であった点をどう考えるか?これまた興味深い演習問題であろう。
日本国内の「世論」は、(いつでも、何についても?)どこか的外れで、建前を守り、ゆえに本質を外し、幼稚な話しになっている。そんな感想がずっとあるのだ、な。「それを言っちゃあ、おしまいだよ」ではなく、「それを言わなきゃ、話しにならんだろ」という問題は、重要な問題に多いのだ。
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そういえば、いまは倒産して名前も会社存在としても変わってしまっている某銀行に勤めていた叔父が『私ももう執行役員になったからネ・・・』と話していたのだが、あれはいつの頃だったのだろう。いずれ、バブル景気盛んな1980年代後半の頃であったのだろう。
小生が父の世代であれば
執行役員って、兵隊の位で言えば、どのくらいなんだ?
と質問したに違いない。
そうだなあ、経営中枢のすぐ下だから、少将のすぐ下の准将というところかな
まあ、日本の陸海軍には准将という位階はなかったが、ディーテイルだ。
少将になったら前線でも後方の司令部だ。会社なら取締役会だろ?はやくホントの取締役になれよ・・・
まさにタテ社会における立身出世が物語られているに違いない。
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ところで、こんな位階・職階から成るタテ社会は、結局、どうだったのだろう? 日本の「強い組織力」の基盤であったのだろうか?
江戸時代まで日本社会は身分・家柄・石高で決まるタテ社会であった。明治になって兵役の義務が導入された。軍の階級が全国共通の物差しになった。いわば「タテ社会の国内統一化」といったところだ ― もちろん、元の軍曹が元の少佐の部下に自動的になるというわけではなかったろう。
兵役の義務があるという意味では日本人(男性)は平等であった反面、ガチガチのタテ社会であった日本は、どの程度まで強靭な国家であったのだろう? どの程度まで暮らしやすい社会だったのだろう?
この辺のリアルな肌感覚は、小生の世代はもうそれを実感として思い出すことが出来ない。体感、実感として感じとれなければ、その頃に通用していた価値観の是非を議論してみても、所詮は現代のジャズ奏者がモーツアルトのセレナーデを評論するようなもので、その場限りの泡の如き主観にしかならず、何かの知識が増えるものではない。
今朝の朝ドラで上司からスマホに連絡があった現場の責任者が『アッ、部長から呼ばれた、これってホントにストレスフル!じゃあね~』と声をかけながら歩き去っていくシーンがあった。現代日本社会の企業内組織と、そもそも企業組織が確立した時代の組織内とでは、同じ組織でも、そこにいる人たちは同じ日本人とは思えないほどの、異国的(?)かつ異文化的な落差があるに違いない。それだけは分かるのだ、な。
これだけ違う以上は、呼称は会社であっても自由に組織内をリニューアルすればよいわけだが、違う空間に生きている日本人が出会ったとき、『あのときは大変でしたね、どこにいたんですか?」と、こんな共通の話題を何ひとつ持たなくなるというのも、これがご時勢と言うなら仕方がないが、小生は淋しいネエと感じてしまう。
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新型コロナ禍への対応で「ミソ」をつけている政府の対応振りだが、国民への自粛を求めるという一方で、政策面ではホボゝ無策の状態だ。
カミさんとも話しているのだが、2020年春のCOVID19感染拡大以降、
- 希望する時に、近くの場所で、望む回数だけ、無料でPCR検査を受ける体制を整える。
- 感染者の広域搬送システムを整えて広域医療体制を整備する。
- ワクチンの特例承認に向けて早期に準備を整える。
海外では当たり前のように推進した施策であるにも拘わらず、これら《検査・医療・ワクチン》という感染対策3大分野で日本の医療当局はほぼ無策をつらぬいた。専門家集団も(何故だか理由はよく分からないが)機能しなかったと結論付けてもうよいのではないだろうか。加えて、経済対策の実施面でもIT分野の弱点が露呈して、意図したようには政策効果が浸透せずという状況だ。行動自粛も抜け駆け放題のザル状態で規律付けがまったくできなかった。
感染者数、死亡者数というデータには表面化していないが、仮に欧米と同程度の感染拡大に襲われていれば、日本社会は完全に崩壊していた可能性があるくらいだ。中国というアジア発(?)の新型ウイルスであったことから日本人も何かの抵抗力を持っていたなど、幸運な面があったのだろう。「不幸中の幸い」を実力と思っては将来酷い目にあうだろう。
小生、ずっと昔に小役人を勤めた経験もあり、辞めてから20余年後の官庁内の雰囲気を想像すると、何だかこうなるような気はしていた、というか、この1年余の成り行きは妙に腑に落ちたりするわけだ。
ずっと昔に《三無主義》やら《五無主義》などと揶揄されていたからどうだということはない。しかし、『三つ子の魂、百まで』とも言うではないか。若い時分の感覚、趣味、志向はその後の職業経験をいくら重ねても、本質的には変わらないものである。だから、現時点の現役世代と両親が現役であった頃の組織を比べるとすると、同じ日本の組織であるとしても全然別モノになっているだろう。いま官公庁組織、企業組織内部で実働部隊となっている若手は、そもそも学校時代に様々の《学級崩壊》を経験してきた世代ではないだろうか。集団行動と規律付けという面で、ずっと昔よりは、格段に弱体化していることは容易に想像できる。その半面で、今回の五輪をみても見てとれるのだが、《個の強さ》を育成するという方向は実を結びつつあるのではないか。
要するに、日本社会全体が、《つくる教育》から《のばす教育》へとシフトしてきている。天賦の才能ある人物がノビノビと成長する反面、平均未満の人材を平均並みに引き上げる努力は諦めつつある。均一的な人間集団で、誰でも配置すれば並みのパフォーマンスを示すことが出来る、そんな社会ではなくなってきているわけで、使う側も使われる側も《抜擢する》、《抜擢された人に従う》、というか《そんな人を中心にまとまる》という感性がますます重要になってきている。
そんな方向で、日本社会は変わりつつある。どうもそのように見てとれるのだ、な。
昔は出来たことが、今は出来ない。この種のことは人間一人の高齢化から生じるだけではない。一つの国にも生じうることである。壊してリセットするのは愚かだが、日本社会の評価方式や組織原理を変えなければどうにもならなくなっているのは確かだとみる。
以上、この段落は思いついたままの書き足し。
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