2021年8月15日日曜日

断想: イヌとトリと、人間には二つのタイプがある

恩師から聞いた話を前にも投稿したことがあるのだが、ブログ内検索をかけてもすぐに出てこない。日記帳媒体でも簡単にはみつからないだろうが、ブログでもGREPで検索という具合にはいかない。

話しと言うのは、

研究するときもネ、二つのタイプがあって、一つは犬の目で一点、一点を嗅ぎまわるタイプ、もう一つは鳥の目で高い所からみるタイプ。この二つに分類できるのですヨ。

こういうことだった。

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小生は(統計分析が専門のくせに)細かい計算や検算が嫌いであったから、鶏の目かなあ、いやもとい、鳥の目かなあ、と思いながら聴いていたことを思い出す。

例えば、マクロ経済学を創始したケインズは鳥の目の持ち主。他方、貧民窟や工場の現場を視て回りながら、新古典派のミクロ経済学を完成させたマーシャルは、犬の目をもっていた。そんなプロファイリングになるだろうか。

研究畑だけではなく、経営でも、政治でも、人はトリ型か、イヌ型かの二つに分類できるような気はしている。

常に、個別の具体的な点にこだわって、クンクンと嗅ぎまわり、その集積で結果をあげていくタイプの人がいる。かと思えば、誰にも反対しにくい理念を旗印に高々と掲げて、そこから為すべき事を現場に落とし込んでいく手法を好む人がいる。

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恩師直伝のこの二分類法は、昔は流行した血液型性格分類よりは、よほど信用できると思ったりしているのだ。

実は、イヌかトリか、A型かO型かという話以前に重要なのは、《分類》は、全ての科学、全ての学問の第一歩という点である。

分類とは、《違いに気づく》ということと同じであるから、ビジネス現場の鉄則にも通じる、メイン・プロブレムである理屈だ。

違いに気づく意識から、《測定》する感覚を身につけ、《定量的》に物事を考える方法の有効性を認識し、そして《法則の発見》に至る道筋は、まさに近代以降に人類がたどってきた道であって、これこそが《科学の本質》をなすものである。

違いに気づく。違いを活用する。違いに対応する。

ここに(大げさに聞こえるかもしれないが)人間の知性の働きを見てとれると小生は考えている。

違いを云々すること自体を否定するべきではない。人間の知性とはこういうものなのだ。違いについて考えなければ、いまも人類は原始人と同じレベルにあったに違いない。ここはしっかりと押さえておきたいのだ、な。

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ところが、何事にも《副作用》はある。

違いに関心をもって、違いに注目する意識から、分類から区別へと、区別から差別へと行動変容を招くとすれば、やはり生きづらい社会をつくってしまうことになる。

これは丁度、モノを裁断して生活を便利にするために創られた刃物が、人を傷つける目的にも使われてしまうのと同じ理屈である。

確かに、差別は解決するべき社会問題である。しかし、差別の根底にある、区別や違いの認識までを含めて、根底的に人間社会の一切の違いを議論せず、考察しないという決定が正しいなどと考えれば、結果としては穏やかではあるが、知性が衰え、不活発な社会が現れてくるのは間違いない。

人間のやることは全て、表と裏がある。過ぎたるは及ばざるが如し。薬と毒とは紙一重。無条件に善いこと、無条件に正しい事はなにもなく、善いか悪いかは良い結果が得られるかどうかで判断するしかない。そんな立場に立つよりほかに、どんな立場がありうるだろうと、最近は思っている。

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日本社会の上層部を形成する一つである政治家も、イヌ型とトリ型に分類できるようである。

個別の問題を解決するのが得意なヒトもいれば、最上段から理念や理論を語るのが好きな御仁もいる。

しかし、経験主義者が多いイギリスから包括的な力学体系を構築したニュートンが出た。電磁気学を体系化したマクスウェルが出た。中世スコラ哲学が盛んであった大陸欧州からは、実験派の大物ガリレオが現れた。

イヌ型の政治家も、個別の問題解決を包括する基本的な理念を持つ必要がある。逆に、高い理想を語るトリ型の政治家も、個別の具体的な問題解決に理想を落とし込んでいけなければ、単なる「口舌の徒」になる。

結論としては、トリなら上から下へ、イヌなら下から上へ、全体を把握しなければダメだということになるが、そんな大人物が常に現れると限ったものではない、というのが大きな問題だ。

思うのだが、イヌ型の政治家の器が仮に小さいとしても、具体的な問題はマアマア、解決されるのである。しかし、トリ型の政治家が無能であれば、語るばかりであって、それこそ何の結果も残せないわけだ。

器の小さい人物ばかりの世であれば、トリよりはイヌの方が、ずっと世の中の役にたつ。小生は、こう思っている。


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