2021年8月22日日曜日

断想: ウィズ・コロナ下でアフター・コロナを構想するしか道はないだろう

《ゼロ・コロナ》、《ウィズ・コロナ》、《アフター・コロナ》などなど、少しネットを調べてみると、この日本ではまだ戦略的な目的選択のステージが終わっていないのではないか、まだ迷っていて、何が正しいのか分からない、そんな日本国内の社会心理学的状況がダイレクトに伝わってきて、本当に情けない気持ちになってしまう。

目的が定まらなければ戦略も決まらず、行動方針も決まらず、為すべき事も決まらないのである。その時は、毎日公表される現状をみて、悪ければ落胆する、良ければ浮かれる、そんな漂流状態になって社会全体に虚無感が広がるのである。これが最悪の展開である。

目的が決まらないのは、多分、日本が単言語的な島国という環境に置かれているからだろう。

比較対象が身近にいない。多国間コミュニケーションが草の根で形成されていない。

ただ、世界的には

ウィズ・コロナで社会を安定させるしかない

この目的でまとまりつつあるようだと、小生は観るようになった。この潮流について、日本国内のマスメディアが何かを語ることはまだない。


一部のブログではもうハッキリと意見が出されつつあるようだ(例えば、これ)。

ノーベル生理学・医学賞受賞者で京都大学の本庶佑特別教授も以前より「感染はゼロにはならない。(出口戦略は)感染はあるが死人は一定の数に抑えられる、感染防御は続けるが外に出て経済活動をやろう、という形。死ななければ感染症は怖くない」と仰っている。これからは“ウィズコロナ”としてバランス感覚を持って対応していくべきだろう。

Source: 上記リンク先 

日本人の中に「ゼロ・コロナ論者」がいなくなる状況はやって来ないだろう。しかし、日本社会として為すべき政策を選択するためには、目的を明確化することが必要である。そろそろ、日本政府もハッキリと《ウィズコロナ下で医療上の安定を目指す》と断言するべき時だろう。ワクチンを拒否する人の中には、感染をして、落命する人も出るだろうと覚悟しなければなるまい。それは「犠牲」として受忍する。そんな覚悟も必要だろう。

もはや「感染しない/感染させない」を第一目標にするのではなく、「医療システムの限界内で社会を安定させる、それでいい」、こんな目標に舵を切るべき段階になった。そう観ている。

ここから明確にいえることは、医療システムをこれまでよりは日常的に「縦深型」というか、ぶ厚い体制をしいておく。 おそらく、国立病院機構、公立病院、自衛隊の医療衛生部門の量的配置が見直されるはずだ。小生がいま暮らしている町に移住してきた時は、まだ結核患者向けに整備されていた「国立療養所」が郊外にあった。いまそれが残っていれば、現在の新型コロナ感染者の療養に転用できていただろう。そう言えば、小生は小学4年から6年までの3年間弱を伊豆の三島市で過ごしたのだが、そこには旧・陸軍病院を継承した施設であったのだろうか国立三島病院があった。頻繁にお世話になったものだ。が、ここもずっと前に隣町の国立沼津病院と統合されて、今は静岡医療センターになっている。

《戦略的余剰能力》をもっておくことは、寡占企業のビジネスだけではなく、公共サービスを提供する政府部門にとっても有意義な戦略なのである。

新薬開発の研究基盤もそう。ちょうどアメリカがアフガニスタンに投入していたリソースを他用途に転用する余裕をもったのと同じ意味で、日本においても資源のリアロケーションが今後進むに違いない。

予想できるのは、「東京2020」を見込んで拡大投資を重ねてきた観光関連ビジネスはスリム化の道をたどらざるをえない、ということだ。

製造業で進むはずの対中デカップリング、グリーン・イノベーション等々も考えると、この10余年の日本の基本戦略であった「観光ツーリズム戦略」は全面的見直しになる。これだけは、ほぼ確実であると思われる。「観光庁」が今後これまでほど必要であり続けるのか、小生は極めて疑問だ。もっと必要な公的機関があるに違いない。

現在のコロナ禍で委縮した生産活動をどこまで下支えするかという量的選択でも、この辺の将来構想は必ず反映されるものだと思っている。

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