先の五輪に次いでIPCが主催する東京パラリンピック開会の挨拶にバッハIOC会長が再来日したというので、何と国会審議でも批判されたよし。
時代は変わったものである。
もしも亡くなった父や母の時代であれば、アメリカ、イギリス、EUほどの感染状況ではなく、加えてイギリスやEUでは行動規制解除に向かいつつあるという状況であるにもかかわらず、日本で医療逼迫を起こしてしまえば、それこそ『日本の恥である』との批判が世間に噴出し、政府は直ちに《医療関係者総動員体制》をしき、関係者一同は一致団結して、不眠不休で感染者急増に対処していたに違いない。なにしろ父の世代は『国家総動員体制』の下で育ち、教育されていたのである。「総動員体制」を受け入れる精神的準備は身に染みついたものになっていた。この点は、普段の発想、話しぶりから明らかであったのだ。
ところが現代日本では、医療逼迫が「国の恥」であるどころか、「日本の医療危機」の最中に開会の挨拶に来日したバッハ・IOC会長のほうが非常識であるということで、日本国民の憤激をかっている。
この違いから小生は過ぎ去った過去、歴史となった昭和時代というものを感じる。
その背景として
日本は先進国であるに決まっている
そんな自信(過信?)が、この半世紀で国民共有の感覚になってきた、ということを挙げてもよい気がする。自信が日本人の国際感覚を変えてしまったのである。1人当たりGDPでもはや韓国にも抜き去られたいま(参考資料)、そんな自信があるのは滑稽というものなのだが、一度形成された自信は自尊心ともなり、市場メカニズムによる新陳代謝を活用せずには社会のあり方は変わりようがない。
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そんな中、
菅総理大臣がお疲れのようである。こんな記事もある。
現在72歳の菅首相。8月は全国的な感染拡大が止まらない新型コロナウイルスの対応や、西日本での大雨対応、そして今回のパラリンピックと、めまぐるしく変わるテーマに対処している。衆院選を秋に控える中で、お膝元・横浜市長選での自民系候補の敗北もあった。23日には産経新聞が、安倍晋三前首相を超える「148日連続勤務」となったことを伝えている。
URL:https://news.infoseek.co.jp/article/20210825jcast20212418934/?tpgnr=poli-soci
Source:Rakuten Infoseek News、2021年8月25日 17時28分
いまはそんなことはあるまいと願っているが、小生が過ごしてきたオフィス内の雰囲気を思い出しながら、皮肉を述べてみたい。
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総理、閣僚などとは、その責任の重さが比べ物にならないが、小生も学科長やら教務委員長を「やらされた」ことがある。「やらされた」というのは、大学の役職というのは、まず貧乏籤であって、雑用などを自らかって引き受けるような御仁は、まずはいるはずがないからである。
教務委員長であれば教務委員会だけに出席すればよいので、まだマシであるが、学科長となると自動的に委員に含まれる委員会が結構多数あるのだ。なので、学科長在職中は、とても研究教育モードの毎日などではなく、時間をとられる雑用モードが延々と続くわけだ。3年もそんな仕事をすれば、まず頭脳が雑用向きに再構成されてしまって、研究者としては落ちこぼれになる・・・これが大学という世界でメシを食っている人であれば共有されている感覚だと思う。
もしも学科長ではなく、「総長」、「学長」になればどうか。ほとんど全ての重要会議に出席しなければならないはずである。研究室に短時間でも移動することは時間的に難しく、毎日のほとんどの時間を事務局の奥にある「学長室」で過ごすことになろう。会議の合間には、面談を求めて、人が出入りする。おのずと分刻みのスケジュールになり、したがって秘書が不可欠になるわけだ。
美しく言えば「大学行政」などという言葉が使われているが、これは「気休め」、「憐憫」の域を出ない残酷な言葉であると小生はひそかに思っている。ある期間、同僚で大学を去る人が複数人発生してしまい、悪くすれば次の専攻内運営をやらされるかもしれないという可能性を意識してしまう状況になったことがある。小生は、それは勘弁してくれと内々で根回しをしたものである。この辺の感覚は、いわゆる「世間」とは180度正反対なのではないかと想像する。
さて、もしも総理大臣であればどうだろう?小生には、その残酷なる毎日を想像することすらできない。
しかし、今になって小生思うのだが、学長なり総長として重要会議に出席するといっても、自ら司会をするわけではなく、会議の運営をするのは大体において副学長であったりする。そして副学長は分野ごとに複数人いるので全分野に向き合うわけではない。学長は、自ら議論をリードするわけでもなく、多くの場合、ただ聴いているだけのことが多いのだ―まあ、小生の勤務した大学は小規模の大学であったから、学長自らが短兵急に意見を述べる場面も多かったが、それは全国では例外的であると確信している。
大学を問わず、日本国内の官公庁、企業、その他機関もご同様だと思うが、トップがやるべき仕事は、会議に出て色々な意見を聴いて、多くの人に会って話す。時間的にはこういう仕事が大半を占めているはずだ。
ずっと前に「頑張る現場とダメな上」という問題意識で投稿したことがある。そこで、こんなことを書いている。
小生は何度か記したことがあるが投下労働量で価値が決まるという労働価値説に共感しているものだ。もしも上が下に比べてダメであるのが本当なら、それは上は下ほど<実質的な>仕事をしないからである、と。この極度にシンプルな観察は、意外に当てはまっているのではないかと自信があったりするのだ。
何しろ日本では太平洋戦争の勝敗の行方が混とんとしている真っ最中、英米では総司令官が参謀と寝食をともにして24時間頑張っている時に、東京の大本営に勤務する高級参謀は補給に苦しむ最前線をヨソに定時退庁していたと伝えられている、そんなお国柄である。集団主義とはいうものの真の意味で組織が一枚岩になれないところが日本にはある。それは何故なのだろうという問いかけである。
それぞれの担当参謀は案外定時退庁したりしたのだろうが、おそらく参謀総長は全ての会議につきあって、「忙しい」毎日を送っていたに違いない、と想像しているのだ。
しかしネエ、
仕事をしている = 忙しい = 拘束される
本当にこの三味一体の等式は成り立つのだろうか?ただ、席にいて出席者の意見を聴いておくことが本当に「付加価値」にむすびつく、生産的な行動なのだろうか?むしろ、トップがそこに臨席していること自体に意味がある。トップがそこに臨席しているからこそ、組織として意思決定してもよいのだ。こんなことを考えているのじゃないか。もしもトップが、トップ自身の考え方を会議の席上で語り始めれば、他の出席者は甚だしく困惑するのではないか?
小生は会議が大嫌いであったが、当時もそんな風に思っていたし、その感覚ばかりは今も変わらないのだ、な。
上に引用した部分にある
もしも上が下に比べてダメであるのが本当なら、それは上は下ほど<実質的な>仕事をしないからである
というのは、そういう意味である。
・・・以上書いたことが「皮肉」であり、「時代錯誤」であれば幸いだ。とはいうものの・・・
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・・・もしも近年の日本のスローガンであった《政治主導》が機能しているのであれば、
上は優秀だが、現場は平凡
そうなっていて然るべきではないか?
しかし、マスコミの報道、ネットの情報を見る限り、どうみてもそうではない。日本は依然として
頑張る現場と、ダメな上
そんな情景に変わりがない。
もし現場の声を聴くだけでよいなら、現場の声に従って多数決を通せばよいという理屈で、「政治家」や「上層部」は一切不要である。
しかし、現場の声だけに従っていれば、戦えば敗戦必至であることは、何も『三国志』や『項羽と劉邦』を読むまでもなく、誰にでも分かるわけだ。
だからトップの役割が決定的であるのだが、現在までのところ、リーダーシップが機能していない。この理由が小生には分からない。機能しない原因が、ヒトにあるのか、システムにあるのか、ハードウェアにあるのか、原因がよく分からない。
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