構想や戦略や政策、プラン等々を決める前に論争を繰り広げるのは善いことである。
しかし、論争をするためには議論をするためのスキルを集団として身につけておくことが不可欠である。使われるボキャブラリー、反論の仕方、禁じ手など、論争も一種の知的ゲームであるから、将棋や碁と同じでルールが要るし、参加者がルールを理解していなければ有益な論争を展開することは無理である。
論争することが無理な社会になれば、非知性的な派閥抗争が進む。敵対する派閥に対する感情的な嫌悪感が形成されると、一方が他方を抹殺するまで状況は悪化する。もはや「問答無用」というわけで、戦前期の日本でも海軍青年将校が使ったことがある。
故に、論争技術を習得しておくのは、ソーシャル・インフラの一つである。
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今日もまたコロナと五輪をめぐって、TVでは批判とも非難とも応援ともつかない、分かり難い演出でワイドショーが放映されているが、例えばThe New York Timesには、以下のような記事がある:
The Japanese news media have resorted to gotcha journalism, trying to catch foreigners who have breached quarantine protocols, traveling on public transport or lingering at restaurants when they are supposed to be eating at their hotels. On Monday, the broadcaster NHK denounced the lack of social distancing on crowded Olympic buses. Although those of us here for the Games have gone through many rounds of Covid testing, there were no requirements that we be vaccinated to enter the country.
URL: https://www.nytimes.com/2021/08/03/world/asia/tokyo-olympics-host-city.html
Source:The New York Times, 2021-08-03, "Outside the Olympic Cocoon, a Tokyo Abuzz Only With Cicadas"
"Yellow Journalism"はアメリカの大衆迎合的なマスコミを揶揄した言葉であるのはよく知られている。どうも今の日本のマスメディアは"Yellow Journalism Japanesque"には見えないらしい。そうではなくて、"Gotcha Journalism"だと・・・
"Gotcha"とはGoogle辞書によれば
I have got you (used to express satisfaction at having captured or defeated someone or uncovered their faults).
という意味である。日本語でズバリ言うと《荒さがし》という意味になろう。
五輪報道を担当している当該記者には日本のマスコミは《荒さがしジャーナリズム》に映るようだ。"Yellow Journalism"が大衆迎合的な煽りやゴシップ記事を主とするのに対して、"Gotcha Journalism"の攻撃対象は、荒さがしのしがいのある政治家、大企業、著名人ということになるだろうか。
いずれにしても健康な報道活動には思えないのだ、な。小生にも・・・
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日本人には気持ちの上で伝わる異論や反論が、外国人には単なる《荒さがし》 に映ってしまうとすれば、それが知性でなく感情から発しており、意見というよりは《怒り》を直にぶつけられている感覚があるからだろう。知性から出てくる発言や意見は、万国共通でグローバルに通じるが、感情や感覚はあくまでもローカル、かつ頭ごなしであって、感性を共有していない外国人にはなかなかストンと理解してもらえないものである。
なぜ知的な意見や論争が日本人は苦手なのか?
原因はある程度明らかだと小生は思っている。
ディベートのトレーニングを学校教育でまったく行っていないのが主因であろう。ブレスト(=ブレイン・ストーミング, Brain Storming)は、日本国内の企業現場にも浸透していると思うのだが、小生がいたビジネススクールで担当した科目に限るにせよ、そこで行ったグループ討論では、「揚げ足はとらない」、「否定はしない」、「KJ法や特性要因図で議論を視える化する」くらいの基本ルールは徹底されていたものの、創造的で自由活発な意見の嵐(=Brain Storm)が形成されるという理想には程遠いものがあった。これでは一定の課題について賛成、反対の立場に分かれて、意見を知的に戦わすディベートは難しいに違いない。こんな傾向は、たとえば日本国内の学会で開催されるパネル・ディカッション、報告後の質疑応答でも似たようなものではないだろうか。
このようにディスカッションが苦手であるという日本人の傾向は、幼少年期以降の学校教育にその遠因があると、小生は確信しているのだが、それでは日本の学校教育のどこがまずいのかと言えば、一方向的な授業、いわば《正解伝達主義》とでもいえる授業スタイルにあるのは、もはや確かなことであると思う。
そもそも《正解》がある問題は、問題として重要なものではない。ちょっと調べれば正解はすぐに分かるからである。分からなければ、正解を知っている人は必ずいるわけだ。あえて教育するべきことは
ヒトはいかにして正解と思われる結論を得るのか
つまり獲物は何かが重要なのではなく、獲物をとらえる方法が重要なのである。
議論を展開する時、自分が考える所を主張するのは勿論だが、それは柔道でいえば技をかける行為に相当するわけであって、相手が自分を上回る可能性は常にある、議論で負けることはどういうことなのかをよく理解しておく。これは何であれ論争をするときの最低限の常識である。
ここがよく理解されていないと、集合知が形成されず、その結果としてチグハグした組織行動につながるものだ。五輪をめぐる色々な問題、マスコミ報道の品質管理を目にするにつけ、こんなことを考えた。
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