日本国内の高等教育機関では、例外なく(と思っているのだが)「文系」、「理系」という区分で学部編成やカリキュラム、専攻分野、進路を考える習慣がある・・・ということ自体が、実は非常に「日本的」なのではないかと考えるようになった。しかし、それは置いておいて、とりあえず日本国内の状況を前提した投稿である。
経済学や経営学が社会のメカニズムを理解するための学問分野だとすれば、文学部はその社会の中で生きている個々の人間を深く理解するためにある。こんな風に発想すると、法学部法学科は社会を適切に管理するための法的技術や学理を修得するために存在する。そして法学部政治学科は、法的技術を駆使して社会を管理運営するという行為、つまり政治について学ぶ場である。
いわゆる《文系》と総称される学問分野をこのように区分すると、その編成順は「人間を理解する文学部が1類、社会の機能を理解する社会科学系が2類、そして社会を法的、政治的に管理、運営する知識が3類」ということになるのが理屈だ、と。小生はそんな風に整理している。
近年は、《理系》の工学部の中に「金融工学」を学ぶ学科が新設されたり、医学部の保健学科の中に公衆衛生の一環である「医療社会学」があったりする。
古代ギリシアのアリストテレス級の総合的大賢人は望むべくもないが、そろそろ高等教育分野を見通しよく体系化し、無駄のないような大学組織に再編成した方がよいのではないかと感じる時はある。盆栽に例えて言えば、小枝の上にまた小枝が伸びてきて、全体として無駄枝ばかりが錯綜し、互いが重なり、縺れ合っているような状況だと感じる。
いわゆる「文系」だけではない。「理系」もそうだ。文学部の心理学科と医学部の精神医学は互いに無縁ではない。理系の中の生命科学とモノを相手に考える数物系科学も無縁ではありえない。
そういえば、数日前に月参りで宅に来た住職が置いていった月報にこんな文章がのっていた:
新聞にウイルス学の権威の先生のコメントが紹介されていました。『地球は46億年前に誕生した。ウイルスが生まれたのは30憶念前。人類はまだ20万年の歴史しかない。もし地球全史を1年に圧縮すると、ウイルスは5月生まれ、人類は大晦日の夜11時37分に生まれたばかりとなる』・・・
なかなか鋭い点をついているなあと思った。宗教畑の人たちがこんな事に知的関心をもっていること自体に感心と共感を覚えたわけだ。
生物学の啓蒙書なら例外なく説明されていると思うが、
細胞は細胞のみから生まれる
というのが基本認識になっている。しかし、地球はそもそも非生命惑星であったのが事実だ。ということは、
生命は非生命のモノから誕生した。細胞は非細胞のタンパク質から生まれた。そもそもモノの世界の中に生命が生まれ、進化をうながすメカニズムが潜在している。現代物理学ではまだ、化学分野ですら、こうしたレベルの理解までは進んでいない。
ロジックとしてはこう認識するしかないと思っている。
確かに「生きとし生ける存在」は死ねば物体に戻る。しかし、生命が誕生した母体は生命なきモノであった。死は生命の源に回帰する現象であるともみられる。
生命と非生命に明確な一線を引くことはできない。この点についても、現在の学問体系は我々が直面する問題とそぐわなくなってきているのではないだろうか?
意識するにせよ、しないにせよ、思考が何かの制約に縛られていれば、それだけ思考が不経済になり、内容が乏しくなる。ひいては日本人の思考レベルそのものが、自由に考える海外と比べて相対的に劣化する背景にもなる。こんな心配が最近は増している。
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