2022年5月11日水曜日

断想: いわゆる「良心的兵役忌避」について

 韓国の尹大統領の就任式があった。早速の政治的課題として、韓国の人気グループ<BTS>に属するメンバー<ジン>を特例として兵役免除するかどうかがクローズアップされるだろう、と。

なぜこんなに悩むかネエと思ったりもするわけで、要するに国民の一人として軍務を果たすなら、例えば(特例として)「チャリティ・コンサート」を何度か開催して、その収入は韓国軍に全額寄付するという方法でも、<社会奉仕活動>とみなすことができ、十分、国家には貢献できる理屈だ。それでも「多額納税者は軍務を免れるのか」と不公平を非難する韓国民はいるだろうが、あまりに硬直的な制度を死守していると、かえって社会的損失を招く一例になっている気がする。

それはさておき・・・

今朝のことだが、韓国の男性に課されている兵役の義務を日本のワイドショーで話題にするかネエ、とこれまた(毎度のことで)大変滑稽に感じたものである。

その中で、某コメンテーターが、隣国の兵役の義務について語る立場ではないがと断りつつ

私個人は兵役の義務、というか徴兵制には反対です。徴兵に応ずるというのは敵を殺せと命令されるわけです。それは良心に反する・・・

とまあ、こんな趣旨のコメントをした。

ずっと昔、ベトナム戦争真っ盛りの頃、その当時まだあったアメリカの徴兵制の下でボクシングのヘビー級チャンピオンであったキャシアス・クレイに召集令状が届いたところ、クレイは「良心に反する」と言って徴兵を拒否したことがある。そのため、クレイは徴兵忌避を理由にボクシング界を追放されることになった。その当時、《良心的兵役忌避》はまだ国民の権利としては容認されてなかったのだ。

なるほど、その《良心的兵役忌避》という奴ですか?

そう思いつつ視ていたわけであるが、この《良心》というのは中々微妙なものである。

先日も、本ブログに『戦争で死ぬのは愚かだと考えるのが合理的なのか?』というタイトルの投稿をしている。だから、今日の標題、小生の関心あるテーマの一つなのだ。


兵役を拒否する理由として、

敵兵を殺害するのは良心に反する

 という理由がよく言われるが、これと多少ニュアンスを異にするが、

戦場で死ぬのは《非合理的》である、というより戦争自体が非合理的である、戦争というそのこと自体に私は反対する、故に私は国家が命じる徴兵には応じない

こんな思考もある。兵役の義務を拒否する理由には色々な理屈があるのだ。

先日の投稿では、森嶋通夫氏の合理的立場に対して、三島由紀夫というより『葉隠』流の反合理主義を引用しておいた。例えば

合理主義とヒューマニズムが何を隠蔽し、何を欺くかということを「葉隠」は一言をもってあばき立て、合理的に考えれば死は損であり、生は得であるから、誰も喜んで死へおもむくものはいない。合理主義的な観念の上に打ち立てられたヒューマニズムは、それが一つの思想の鎧となることによって、あたかも普遍性を獲得したような錯覚におちいり、その内面の主体の弱みと主観の脆弱さを隠してしまう。常朝がたえず非難しているのは、主体と思想との間の乖離である。これは「葉隠」を一貫する考え方で、もし思想が勘定の上に成り立ち、死は損であり、生は得であると勘定することによって、たんなる才知弁舌によって、自分の内心の臆病と欲望を押しかくすなら、それは自分のつくった思想をもって自らを欺き、またみずから欺かれる人間のあさましい姿を露呈することにほかならない。

という合理主義批判は、少なくとも小生にとっては、思わず耳を傾けてしまう説得力を持っている。

国の危機を救うために徴兵に応じる行為と自分の命を守るために自分を襲ってくる悪漢に刃を向ける行為はまったく同じではない。とはいえ、国を救う行為は、結局のところ、自分を守り、家族を守ることと同じであると考えれば、両者は大して違わない。とすれば、徴兵に応じるかどうかは、結局のところ、こういう話になるかもしれない。

隣人が刃物(=武器)を持って家に押し入ってきた。家族に刃を向けようとしている。そんな時、自分も刃物(=武器)を持って戦うべきか?相手が自分や家族を殺害しようと攻撃する場合は、自分も相手を殺害する意志をもって応ずるとしても、やむを得ないか?

勿論こんな修羅場にならないよう普段から隣人とは良い関係を築いておくべきなのだ。しかし、何かの理由で利害が対立して、互いに憎みあう関係になってしまうこともある。凶悪な犯罪の背景には、得てして利害の対立があるものである。

全て命ある生物は「大人しく殺される」ことはしないものである。緊急時にあっては自己自身を防衛しようとする意志をもっているものだ。つまり

《正当防衛》という権利がある。必要な場合はその正当防衛の権利を自ら行使する意志をもつ。

この覚悟がないのであれば、カネを払ってセコム(SECOM)かアルソック(ALSOK)と契約して、自分の代わりに命を守ってもらうという代替措置を講じる必要がある。でなければ、自分や自分の親しい人たちの安全が保障されないわけである。

 

この問題は結構基本的で親鸞の『歎異抄』にも有名な下りがある。現代語訳がネットにあったので引用しておこう:

・・・人間が心にまかせて善でも悪でもできるならば、往生のために千人殺せと私が言ったら、おまえは直ちに千人殺すことができるはずである。しかし、おまえが一人すら殺すことができないのは、おまえの中に、殺すべき因縁が備わっていないからである。自分の心が良くて殺さないのではない。また、殺すまいと思っても、百人も千人も殺すことさえあるであろうとおっしゃいましたのは、われわれの心が、良いのを良いと思い、悪いのを悪いと思って、善悪の判断に捉われて、本願の不思議さにたすけたまわるということを知らないことを仰せられたのであります。

良心に基づき、たとえ正当防衛であっても人の命を奪うのは拒否する、という決断をするのであれば、選択肢としてはガンジー流の《無抵抗主義》、国家としては《無抵抗平和主義》を採るしか道はないのではないかと思う。

つまり、自らの人格を高め、全ての人から尊敬を得れば、他人から命を狙われる危険に陥ることもないわけである。この道しかないのではないか。もしも国家であるなら、そんな<聖人>にも匹敵するような<品格ある国>であらねばならない。こんな話になるのではないか。「貿易立国」だの、「経済大国」だの、そんな金儲けに憂き身をやつすような日本国では、利害対立の渦に巻き込まれこともある、他国から嫉妬やヤッカミ、時には敵意を持たれることもある、攻撃されることもありうる。そんな時、どうするつもりか?話はこんな風に進んでいきそうだ・・・


このように、《良心》が命ずる道は、実のところ、ヒトが想像するより遥かに厳しいのだ。そもそも真に良心を貫くなら、物質的に豊かな生活を送りたいなどと俗な願いをもつべきではないと、小生は思っている。ズバリ言えば、

良心と俗物根性は両立するはずがない。

だから、もし以下のように考えるなら、単に卑怯な臆病者であって、三島由紀夫なら唾棄すべき精神だと非難するはずだ。

私は良心があるので人の命は奪わないが、依頼した警備会社の職員が私の命を守ろうと凶悪犯の命を奪ってくれるなら、それは私の良心に反しない。

国家も人間の集合だから、最後には一人一人の精神に問題は帰着する話だ。

上で言う<私>を<日本人>、<警備会社の職員>を<米軍>、<凶悪犯>を今の<敵兵>と置き換えると、現在の日本の話しになりうるし、韓国での話にするなら「依頼した警備会社の職員」を「他の兵士」に、「凶悪犯」を「敵兵」と読み替えれば、堕落した良心的兵役忌避の一例になる。

《良心》と《卑怯》とが(特定の一時点においては、観察する限りにおいては)識別不能である場合がある、ということだ。


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