2022年5月25日水曜日

一言メモ: 知床遊覧船事故と検査体制充実に関連して

TVメディアでは、知床遊覧船事故と山口県阿武町の誤送金のことが実況中継よろしく毎日報道・解説されているのだが、冷淡なようではあるが、どちらの「事件」も小生やカミさんが送っている「平均的日常性」にはホボ、ホボ関係なく、いわば無縁の話題である。どちらかといえば、遠い外国の事ではあるが、ロシア=ウクライナ戦争の方が関係がある。

なぜなら、戦争の継続によって、農産物やエネルギー資源の価格動向が影響されるし、これが更に株価の激変やインフレ加速につながってくるとなると、毎月の収入、資金繰りにも影響が及んでくるからである。だから、ウクライナ戦争の進展には無関心でいられるはずはない。こんな実状はほとんど全ての日本人に当てはまっているような気がするが、これも株式投資と同じ理屈であって、かつて経済学者・ケインズが言ったように、投資で成功しようとすれば必ずしも優良な企業の株式を購入するべきではなく、上がるだろうと多くの投資家が予想している銘柄を買うべきなのである。同様に、ニュース情報の客観的有用性に応じてマスコミ各社は報道するべきではなく、視聴者・読者が関心を向けていると予想される事を話題にするべきなのだ。特にニュース報道が企業経営の事業の一つである場合は。

マ、最近はメディア企業の合理的方針によって、そんなニュース状態なのだが、特に遊覧船事故についてブログ内検索をかけると、投稿は1回のみである。

そこでも検査のあり方について書いてはいるのだが、ニュース解説の話しぶりを聴いていると、当初の運航会社の劣悪さを非難する論調から、最近ではそんな劣悪な会社が検査をすり抜けて、あのようなボロボロ(?)の小型船舶がよくもマア使われていたものだ、と。検査は厳格に行われていたのか、と。風向きは次第に変わっているようだ。

そもそも船舶検査に従事する職員数に比較して、日本全国で検査対象になるべき船舶は大小合計して膨大に過ぎるという現実がある。

まさかTV画面で、

検査の現場が人員不足であるのが、問題の核心ですから、やはり無理をしてでも予算を増やして職員数を増やすべきですネ。やはり事故は防ぐべきなンです。そんな努力が求められている。そういうことだと思います。

極々平凡な常識に基づき、そんな「出来もしないベキ論」でお茶を濁すのかと予想して視ていると、流石に報道現場、スタジオ現場でも日本が置かれている現状が分かってきているのか、無理難題を言って終わり、という風ではなくなってきた。

と同時に、詰まるところが

どうしたらいいんでしょうか? 

いい方法はないんでしょうか?

結局、疑問文で締めたいわけですか、と。

常識では良案がない、となると「分からない」になるわけで、結局はこうなる理屈か、と。何だか情けないネエと思うことも増えてきた。

大体、傾向として日本は世界の中で比較的、というより極端と言えるほどに《ミニ政府モデル》を採っている国家である。例えば、(引用元を明示しているので信頼できると思われるが)このデータが参考になる。日本には、国防軍らしい国防軍がない、というのが理由ではない。そもそも中央政府の行政官僚のマンパワーが格段に小さいわけである。アメリカの地方公務員数が中央政府の職員より部厚に配置されているのは、州の権限が強い「連邦制」を採っているためである。

日本は公的部門がミニサイズで、基本的には民間中心で運営されている国家である。確かに社会保障費を含めた国民負担率では高水準になっているとはいえ、社会保障はAさんからBさんへカネが移動する話しであって、もっと基本的に公的企業経営、その他企業への資本参加を通して労働や資本の配分に国が直接関与したり、あるいは経済活動一般に公共の職員が直接参加する度合いは、日本は非常に低いということだ。かつては<行政指導>や<窓口指導>という名目で公務員が口を出せば民間が従い、これが官僚という職業の重要性を担保していたものだが、これも最近では御法度になってしまった。

小生もずっと昔、小役人をやっていた時分だが、たまに自分と同分野の職務を担当する諸外国の相当セクションの職員数を聞くことがあった。そのとき、人数の桁が一つ違うことに驚いた経験は1度や2度に止まらない。船舶の安全検査だけではない。マンパワーの量的制約が日本の公共サービスを全般に制約している事実がメディアに広く注目されることが一体何度これまでにあるだろうか?

ヒトも組織も抑えられている前提で、国防、治安や公衆衛生、安全管理を確保していく方法を決めていく。そんな日本的立て付けを前提として考えることが、知床海難事故(だけではなく、あらゆる分野の施策にも言えると思うのだが)を繰り返さないための方策を議論する際の第一歩となる。そう思われるのだ、な。

とはいえ、公共部門のマンパワーが不足しているなら、というか組織の規模を抑えておきたいなら、そのときはそのときで有効な方法があることはある。

それは民間関係者に「相互評価」、「相互監視」を義務付け、不備があれば公的機関への通報を義務付け、仮に過失によって事故が発生すれば、「連帯責任」を課す、という方法である。

大学ではとっくにこれをやっている。大学で提供する全授業について、学生による授業評価を実施していると同時に、供給側の教員による

自己評価、他教員による授業参観と評価・勧告、外部専門家による外部評価

を毎年実施している ― 外部評価は規模が大きいので何年かの定期実施であるが。そして低評価が続く授業がある場合は、教員個人が対応するのは勿論だが、学科ベース、学部ベースで新科目開設、共同担当への移行などのアクションをとっている(はずだ)。民間船舶運航事業者についても安全性など提供するサービスの質を保証する上では同じロジックが適用できるだろう。

具体的に知床地区にこれを当てはめれば、遊覧船運航事業を行う会社で組合を結成し(既に結成されている)、運航事業について

自社評価、他社による審査・評価を義務化し、過失に因る事故が発生した際には組合員全員の連帯責任とする。

鍵は《連帯責任》にある。

余りに多忙である公務員が厳格であるべき検査で「手を抜く」場合があるとして、それは<多忙>であるから手を抜くという因果関係なのだが、基本的には<結果に対して無責任>であるからこそ多忙のときはザックリと検査する。そういうロジックの方がもっと本質的であろう。つまり、<安全管理>と<過失責任>とは表裏一体でなければならない、ということだ。当事者の能力が不十分なとき、誰がその能力不足を指摘できるかが、検査の本質だろう。仲間内で相互管理する義務を負わせ、一社の過失を全員の連帯責任とするのが《特効薬》となろう。

マ、かなりの劇薬となる。 

* 

《連帯責任》というと、何だか戦前期・日本の「隣組」。もっと遡れば、江戸時代・寛永期に確立された「五人組」を思い起こしてしまう。

が、日本という国は、「お上」という公的権力が直接的に庶民を統制するよりは、現場に従事する庶民自らが共同で相互監視する方式を伝統的に採ってきた、寧ろそんなやり方の方を好んできた所がある。大体が、この3年間弱のコロナ禍。中央の厚生労働省がどんな行政命令を国民に対して発したか?ほぼ何もやっていないと言ってもよいのではないか?実効性ある行動変容は、主として国民自らの相互監視(例えば、マスクをしていない人を疎外する空気を醸し出す)によってもたらされたのではないだろうか。ワクチン、PCR検査の公費負担は概ね世界で共通しているが、肝心の行動変容という面で日本が採った方法は、スウェーデンの自由放任、英仏独、中国の厳格なロックダウンのどちらとも異なる、自発的な相互監視、相互規制が主となる独特なものだった。

この21世紀の現在でも一事が万事。この日本では「そういうものなのだ」という側面が確かにあり、行政システムを決定する時には、こうした日本的伝統(?)を考慮するべきである。小生はそう考えてしまうのだ、な。


マ、島国でずっとやってきたためだと思うが、肝心要の点で日本社会は独特である。その独特である傾向は、データからも歴然と認められる。故に、それを前提として行政の在り方を議論するべきだと思うわけで、海外の事情は参考になるが、アメリカ方式、欧州方式、中国方式と実に多様であって、合わせる方が効率的な箇所は国際的にシステム統一するにしても、大半の部分では、結局、日本は日本のやり方でやっていくしか実効性が上がらないし、またそれが最善だ。そう思われるのだ、な。

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