2022年5月15日日曜日

コロナ対策を冷静に振り返れる時期がやってきたのかネエ

かなり以前になるが『ネット・サーフィン』という言葉が世間、というより小生の周りでは盛んに使われていた時代があった。

当時利用されていたブラウザは、まだモザイク(Mozaic)やその後に普及したネットスケープ(Netscape)であった。マイクロソフトのInternet Explorerが普及したのはその後である。

その頃は、一人一人の個人が情報を発信したり収集したりする情報基盤として、インターネットはマスコミ大手企業や出版社を上回って効率的に機能していた、と感じたものだ。最近になると、SNSユーザー自らが、集まる情報を好みに合わせてか、考えてなのかは色々あるだろうが、自分でフィルタリングして、自らの意志で自らを情報弱者へ落とし込んでいる兆候があるのだが、少なくともインターネット黎明期にはマスコミによる情報フィルタリングと同じ意味のフィルタリングはインターネットにはなかったような記憶がある。

さて、そんな

あらゆる情報には誰かによる、何かの立場に立った、目に見えないフィルタリングがかけられている

今はこういう時代であるが、コロナ・ウイルス感染と政府の対策について、こんな記事が出てくるのは、それだけの時間が経過して、客観的な議論が出来るようになった証拠かもしれない。

でも、まあ、ニュースサイトに転載される記事など、一定時間が経てば消えていくのだろうナア・・・とも予想されるわけで、何だか最近のネット情報は《情報バブル》を体現しているような感じもするわけで、だから、さわりの部分を抜粋・引用して覚書きにしておこう:

私は、ウイルス学の知見に基づいて正しい政策決定をしてもらうために、「目玉焼きモデル」というものをつくりました。

今回のウイルスの感染状況を見ていますと、感染しやすい場所で感染し、感染しにくい場所ではあまり感染しないことがわかってきました。感染する行為で感染しますが、感染する行為をしなければ、ほとんど感染は起こっていません。当たり前といえば、当たり前です。感染しやすい場所というのは、ライブハウスやカラオケ、一部の飲食店、職場の休憩室などです。

(中略)

政府が採用したモデルは、実効再生産数を一律に考えるものでした。国全体を平均した実効再生産数が1を大きく超えていたとすると、それが1未満に下がるまでは、国民全員に一律に自粛を求める対策です。

これに対して「目玉焼きモデル」は、実効再生産数を一律に考えないことが最大の特徴です。繁華街など実効再生産数が高い場所、実効再生産数が1くらいまでの場所、巣ごもりなど実効再生産数がゼロに近い場所などに分けて、ターゲットに合った対策をとっていくものです。

(中略)

全国どの地域でも、繁華街などの感染拡大箇所で重点的に対処し、一般の人にはある程度の自粛をお願いすれば、感染を抑えられることが示唆されていました。緊急事態宣言によって、全員一律の強い自粛要請を行なう必要はなかったのです。

感染症モデルによる「人と人の接触機会」の削減は、数字に基づく計算であって、ウイルス学を無視したものでした。「人と人の接触機会」を減らすことは、あらゆる手を尽くした後の最後の最後の手段です。何をやってもうまくいかないから、最終的に「人と人の接触機会」を減らすというのであれば理解できますが、最初から「人と人の接触機会」を減らすのは、間違っています。

(中略)

その姿勢が色濃く出たのが初期の緊急事態宣言だったと思います。感染率はイギリスの26分の1、死亡率はイギリスの131分の1でしたが、イギリスと同じような対策をとろうとしました。イギリスの場合は、ロックダウンをしなければ感染者数は急激に下がらなかったのですが、イギリスでロックダウンをして下がってきたくらいの自然減(自然に感染が収まる)状態であった日本が、緊急事態宣言を出しました。前述したように、日本は、ある程度の自粛を求めるだけで、減少トレンドに入っていましたが、その点は考慮されませんでした。

(中略)

世の中に新しい流れをつくっていくには、欧米の価値観に縛られるよりも、むしろ、欧米人が考えないことを研究したほうがいいと私は思っています。昔のガラパゴス携帯電話のようなものですが、研究というのは、そういうものです。

けれども、学術界においては、「欧米でやっていること以外はダメだ」という風潮が染みついてしまっています。日本の特徴といえるのかもしれませんが、欧米で出ている論文のデータを素直に信じる傾向があります。新型コロナウイルスに関しても、「欧米では、多くの若者が感染して、若者に後遺症が出ている」という情報を持ってきて、日本での若者の感染率や後遺症のデータについてはほとんど考慮しない状態でした。

日本の若者が感染して重症化した例は少なく、結果的に、後遺症になった人の割合も欧米ほど多くありません。それにもかかわらず、「若い人も後遺症が出る。若い人もワクチンを打たなければいけない」と言ってワクチン接種を若者にも促進しました。

URL:https://news.infoseek.co.jp/article/president_57359/?tpgnr=poli-soci

Original:プレジデントオンライン / 2022年5月14日 13時15分

Author: 宮沢 孝幸、京都大学医生物学研究所准教授

小生は公衆衛生は素人であるが、感染たけなわの頃、こんな投稿をしたことがある:

もちろんススキノや歌舞伎町はシンボリックな地名である。本当に「心配な店」もあれば、「心配な客」もいる。「心配な人たち」、「心配なイベント」、「心配な旅行者」、「心配な病院」、「心配な高齢者施設」、「心配な会社」など、いろいろある。衛生管理の不備についての「内部通報」を奨励してもよい。これらはまだ面的に広がっている状況には至らず、点として存在し、かなりの部分は最前線の担当者は気がついている(はずの)ものである。もう点ではなく、一部地域では面であるとする認識もあると思うが、であれば猶更のこと「衛生指導」、「衛生検査」の法制化、組織化は感染抑止に大いに貢献するであろう — お上の権限を強化する一種の「焼け太り」ではあろうが、そうせずして効果的な方策があるなら、そちらを選べばよい。

単なる<常識論>のレベルを超えないものだ(と思う)。 

ただ思うのだが、中央官庁の官僚は、犯罪者の摘発を例外として、政策一般は平等でなければならないと、(多分)この一般原則に固執していたのかもしれない。故に、<危ない店>、<危ない人間集団>を特定して、予防的かつ差別的にアクションをとるなどは、強権的な政策であって、民主主義国・日本では実行不可能である、と。こう考えていたのかもしれない。そして、仮に選挙とは無縁の官僚集団が上のような「適切な?」提案をしても、選挙と支持率を怖れる政治家が、こんな「乱暴な差別的な?」対策を選ぶはずはなかった。そうも思われるのだ、な。

であるとすれば、日本のコロナ感染の歴史をどう観るかは、かなり運命論的というか

こうなるべくして、こうなったンだよね

そんな目線でカミさんとは話をしている。

あくまでも一般論だが

国民が主権者である民主主義国において、民主的に選ばれた政治家が能動的に社会を変えるなど、そもそも不可能だ。変わるものは政治家とは関係なく変わるし、変わらないものは政治家にも変えられないのだ。

結局、こういうことではないかと達観している。

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