2022年5月27日金曜日

断想: 大きな出来事は過去の記憶を切る作用をもつようだ

国会の数ある委員会の中で予算委員会だけはずっとTV中継されている。今日あたりは、外国人観光客訪日を受け入れるというコロナ後新方針をめぐって質疑があったようで、そのやりとりがテレビでも紹介されていた。

マア、確かに

  • 戸外でのマスク装着は(多くの場合)不必要。
  • 外国人観光客にもマスク装着についてルールを守ってもらう。

この二つの方針が、日本国内の同じ観光地にいる日本人・外国人観光客の間で自然に調和するのかどうか、怪しいナア、という疑問はある。日本人の過半数が「水際対策」を緩めないでほしいと願っている、という(小生には意外な)調査結果もある。

であれば、政府の考え方を正面から具体的にグイグイと確認すればよいものを、放送で切り取られる野党と政府のやりとりは非常に幼稚で、これは頂けないと思うばかりだ。これじゃあ最近の高校生の学級会のほうがもっとレベルが高いですゼ、と言いたくなるのが哀しい。

なぜ日本の国会はこれほど低レベルなのであろうか?

TV電波に乗ると、誰もが愚者になってしまうンですよ

と、そんなことを言う人がいる。それはTVの前にいるどんな視聴者、いかなる視聴者であっても、番組内容が理解可能なレベルで出演者が語るよう番組編成側が出演者に要請しているからである、と。マ、もっともらしい説明を前に誰かから聴いたことがある。

・・・そんなところかもしれない。そもそもテレビ経由で<切れる見解>など伝えられるはずはない。真剣な、互いを切るような論争など、TV画面で流すのは、それ自体が<不穏>であるに違いない。だから、テレビ画面に映る議員たちは、巡業先の力士のような応対をしているのだ。そう割り切る見方もあるだろう。

しかし、余りに放送される予算委員会審議が低レベルなので、

これほど国会議員のレベルが低いなら、落選して失業するのが何よりも怖いのは、無理もないことだ。これでは民間にロクな仕事がないだろう。

落選しても生活にはまったく困らない人たちが議員を志すべきだが、そうなっていない点が問題の核心だ。生活がかかっていれば、ただただ次の選挙に落ちないための言動ばかりをする。これでは国益は二の次になる。思考は、こんな風に進んでいくわけだ。

それにしても余りに非現実的な程の低レベルだと思い、<国会 中継>をキーワードにして、ブログ内検索をかけてみた。前にも疑問に感じたことはなかったのか、ということだ。

そうすると、完全に忘れていたが、こんな投稿が出てきた。

来年2月に開催される情報処理学会では人工知能(AI)や機械学習で最近よく名前を目にする人たちが講演するので、これはぜひ行かねばと思ったのだが、ネットから開催案内を読むと「ニコ生」でも中継するとある。

ニコ生? それは当然知っている。しかし全く利用していない。その意義をネグってきた。「そうか、こんなものも中継しているのか」と今更ながら見直して登録した次第。

中継中の生放送をみると本日現在で衆議院・外務委員会や厚生労働委員会、国土交通委員会、あるいは第53回原子力規制委員会などがライブ中継されている。

ここまで社会に浸透しているとはまったく知らなんだ。

時代に遅れていることを自覚しなかったというのは恐いねえ・・・猛省。

4年以上前にも同じような疑問を抱いていたようで、それは単にテレビ・メディアに視野を限定して感じていただけであった。同じ疑問は氷解していたわけである。これを忘れていた。コロナ禍3年の騒動の間に、以前のことを忘れていたんだナア、と。そう感じた次第。

以前のことを忘れるから、新しい時代が始まるような気持ちになる。

パンデミックや戦争は、前の記憶を遠ざけ、記憶を切る作用がある。そうして一つの時代が終わり、新しい時代が始まる。要するに、こういうことかもしれない。 

それでもなお、東アジアで旧・日本軍が75年以上の昔に働いた色々な侵略行為は、いま現在もウクライナでロシアが行っている蛮行や、中国ウイグル自治区で行われている蛮行と、ほぼ同じ新鮮さをもって、今後も非難の対象にされるのだろう。こればかりは、どんな新たな悲惨が重なっても、常に現在性をもって語られるのだろう。

そうしようとする意図がある限り、過去の事柄はずっと現在の事柄であり続ける、ということだ。

今年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』はもう800年以上も昔の話しである。それを面白いと感じるのは、現在の人間が現在の目で振り返りながら、語られているからだ。いま人が語っていることは過去がリアルであったときのリアリティそのものではない。

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