今日はちょっと思いついたことあり、覚え書きまで。
感染対策にしても、経済対策にしても、とにかく《エビデンス重視》、《科学的手法》という要求が、特に最近は非常に高まっている。これに《ロジック》を加えて
エビデンス、サイエンス、ロジック
というのが、現代のエリートが身に着けようと願う三種の神器になりかかっているらしい。戦前期・日本のエリート・旧制高校生が求めていた<真善美>に比べると、上の三つはどれもカタカナで外来語、本質よりはツール的な臭みがあるのは頂けないが、それでも一つ一つは非常に重要なものである。
ただ、何事も行き過ぎるのは問題で、まさか「民主主義社会」が「権威主義社会」より優れているという認識にも科学的根拠がある、と。まさかそう言いたいのではないヨネ、と。
優れているから選ぶんでしょ?
マ、言いたいことは分かる。こんな疑問も思い浮かんでしまう最近の世相である。
しかし、科学は人間の知性の全てではない。科学的探究の範囲外というものはあると思っている。
特に西欧起源の科学的思考が浸透する以前に発展した宗教的議論や儒教的道徳の全部が非科学的であるとして、初めから否定してかかる思考は愚者の典型だと思っている。科学の対象外である事柄を考えるとき、その議論が非科学的であるのは当たり前である。それでも人間はそうした学問に価値を認めてきた。その歴史にはそれなりの意味があると考えるべきだろう。
現代でも無意識に科学的議論と非科学的議論を世間は使い分けている。その<無意識に使う>という所が多くの問題の背景にもなっている。
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まず確実に言えることは
科学は物理的な実在に対してのみ有効である
これはもう若い頃から当たり前すぎる前提として確信している。
科学の根底には物理学がある。明治の文明開化時代、福沢諭吉が強調していた「窮理学」ほどの昔に遡らなくとも、スーパー・コンピューターを開発している今の現場であっても、思いは同じだろう。物理的認識が基礎にない現象を科学的に説明することは想像できない。
逆に言うと、科学的な説明を要求するなら、必要分野が化学であれ、生物学であれ、医学であれ、根底には物理的現象としての認識があるはずだ。
まさかそのうち「宗教科学」が登場するとは予想していないが、飛んでるペテン師がそんなタイトルの本を出さないとも限らないので、「表現の自由」が保障された現代世界は要注意だ。
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ナース『What is Life?』でも、シュレーディンガー『生命とは何か‐物理的にみた生細胞』でも、「生命」は化学プロセスであって、従って物理現象としてとらえている。まったく同感だ。一方で、生命をもったヒトを特徴づける《自由意志》や《価値観》が、いかなる化学的状態において脳内に存在しているのか、(小生の勉強不足もあるかもしれないが)まだ解明されてはいないはずである。
自由や価値観の生成や変化について科学的手法を適用するのは、(今のところ)不可能だ。多分、永遠に不可能だろう。
故に、何についてであれ、どちらを支持するかに関する《世論調査》の結果を分析する作業も科学ではない。単なる統計学である。
統計学は科学的分析のためのツールであって、科学そのものではない。この点、森鴎外に賛成する。
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例えば「民主主義が善である」、同じことだが「非民主主義は不善である」という問題に直接回答するための科学的アプローチはない。是非善悪が人間の意識に物理的に埋め込まれた特質であると想定して、その特質を物理的実在として発見・同定できると考えるのは空想だと思う ― そもそも「意識」の物理的基礎が得られているのかどうかもまだ勉強してはいないが。
つまり、善悪の区別は、科学ではなく、現世代の人々が受け入れるかどうかで決まる、簡単に言えば《世間》が決めることである。「国家」や「戦争」に関する思想もほとんど同じ。現世代が死に絶えて別の世代が登場すれば、まったく別の見方や言葉、話し方が支配的になる。ちょうど衣装や髪型、装飾品などの風俗とそれほど違った次元にあるものではない。
大体、科学的知識は<合意>や<共有>をそもそも必要とはしない。科学的真理は人間とは関係なく、人間という存在を前提することなく、それ自体が真理である。こういう特質があるからこそ、科学は中世キリスト教世界で共有されていた世界観を否定しながら浸透し、結果として中世という時代は終わり、啓蒙時代を経て近代という世界が生まれたわけだ。科学は文字通りの<異端>であったし、いつでも時代の異端になりうることを意識しているだろうか。共有されることを求める<価値観>や<モラル>とは正反対であるのが科学である。
実際に、科学的研究の現場では
- 著名な論文の間違いを見つけろ
- 発表された論文の間違いをみつけろ
- 学会報告の間違いを見つけろ
これが鉄則だ。衆に逆らい、異を立てるのが、有能な研究者であるための要件である。<科学>と<共有>とは最初から縁はない。仮に「いま共有されている価値観」なるものに「科学的根拠」と思えるのがあったとしても、その仮説に異を唱える反対仮説はいつでも登場しうるし、その異説に熱中するのが科学者である。
つまり、いま共有されている価値観や世界観、常識を掘り崩すかもしれないのは科学なのである。
故に、いま共有されている価値観、世界観に基づいて、サイエンス、エビデンス、ロジックを身につけていこうという努力は、矛盾している話しである。
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しかし・・・と敢えて反復すると、科学は人間の知的活動の全てではない。科学とは無縁の知的活動で、それでも重要である学問分野。
価値観や理念は一種の《流行現象》、《群化現象》である。共有されれば一層それが当てはまる。
こう考えると、少し科学的アプローチが可能な問題に近くなる。
庭に蟻の穴が複数ある。どちらがより民主的で、どちらが独裁的であるか、人間には想像もつかないだろう。とはいえ、行動パターンの違いを比較することで、一方に<民主的>、他方に<独裁的>という名目的ラベルを付与するのは、十分、科学的である。
ラベル自体に意味はない。民主的を<D>、独裁的を<A>と万国共通のアルファベットで記号化して呼ぶ方が簡潔で良い。どのタイプが環境により適応しているか、それは自然淘汰を通した結果から事後的に検証されるべきもので、違い自体は人間社会の特徴に着目した<分類指標>である。人間社会のタイプに順序的な価値を認める姿勢は非科学的だ。
科学的には優劣をつけられない差異に対して優劣をつけるとすれば、それは人間の側の趣味や嗜好によるもので、そこに科学的根拠はない。「価値観」と言ったりするが、実態としては「流行現象」に似ている。そう思われるのだ、な。
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何だか、書いていることがゴチャゴチャしてきた。所詮は、マックス・ウェーバーが言った"Wertfreiheit"(価値自由)のことなのだ。実証的研究"Positive Research"と規範的研究"Normative Research"の二つがあると書いておけば、付け足すべきことはないわけだ。
ただ「科学的方法」を採っているから、その研究は「科学」になるわけでもないだろうと感じるので、本日、メモっておいた次第。
こう書くと、『じゃあ、社会科学ってものをどう考えるの?』と問われそうだ。が、これは「また改めて」にしたい。
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