前に<能力分布>について投稿したが、その中にこんな下りがある:
つまりどんな主題に関するレポートでも
10人のうち3流が6人、2流は3人、1流は1人のみ。
大体こんな経験則になっていると小生はずっと思ってきた。
面白いことに、この分布法則はどれほど細かく専門的分野に分け入っても、どれほどレベルの高いとされる機関の中に視野を限定しても、やはりその中で能力分布があることを観察できる。超トップクラスであるオリンピックにおいても選手の運動能力には大きな違いが視られるのを目の当たりにするが、これも一つの例である。
つまり、視野をどう定めるとしても、その範囲の中で1流の人は極めて少数である。問題によっては、その本質をとらえて正しく推論できる人は、100人に1人という出現率にしかならない。そしてまた、2流グループより、3流グループの方がずっと厚みがある。人数的に多いのだ、な。全体の能力分布は、中位に山がある左右対称型ではなく、平均未満の低位に山があり、ピークから高位の方へ長く右側に裾を引く歪みの大きい分布型をしているのが能力分布の特徴だ。こんな風に思っている。
民主主義的方法で重要事項の意思決定を図るとき、上のような分布が致命的に働くのではないかと思うようになった。
例えば国会議員に支給されるいいわゆる「文書通信費 」であったかな — まあ語句はどうでもよい。語句の正確性など拘るほどの重要性はない理屈だ。「ああ、あれネ」と分かれば十分だ。その使途を公開しようと検討してきたところ、この国会では結論が出ず、先送りになった。
もちろん真剣かつ有能で、仕事の出来る議員もいるわけで、そんな人たちは前向きかつ未来志向で適切な意思決定をしようと考えている(のだと信じている)。しかし、国会議員のレベルも(おそらく)玉石混交なのだろう。有能なヒトは少数で、平均未満の議員が過半数を占めているのだと推測する。低レベルの議員は落選すれば、民間で良い職業機会もなく、現職を続けることのみを希望するのだろう。現職にあって享受できる利益は将来もそのまま受け続けられることを望むだろう。どれほど一流の議員が改革を欲しても、平均未満の階層が反対に回れば、物事は決まらず、結果は《現状維持》になるのである。
デモクラシーとは多数者の支配という意味である。人数で物事を決める民主的決定を覆すには、「勅令」など君主制の下の君主の意志、もしくは三権分立の下で司法権に付与されている権限によるしかない ― 選挙無効、選挙区変更などはその好例だ。
立法府の議員達は日本社会の中では「選良」であり「エリート」である理屈だ。しかし、当選から就任に至るまで、どれほどの能力審査が行われているのか、不勉強にして知らない。おそらく驚くほどの職業的実績のばらつき、資質のばらつき、志のばらつきがあるに違いない(と思っている)。
非民主主義社会が円滑に運営されるには障害が多いと民主主義社会は言うが、民主主義社会が望ましい決定をするのかという点についても、確認するべきことは多い。<三権分立>は機能障害を防止する仕掛けの一例だが、もっと多くの仕掛けを追加するべきだと思うことは多い。
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