2022年6月21日火曜日

断想:「政府の責任です」という言い方は評点「可」もしくは「不可」だよネエ

マスコミ、と言っても今日的状況では新聞よりもテレビであるわけで(そして、そのテレビですらマスメディアとしての影響力を失いつつあるのだが)、それが

これは<政府>の責任です

と、こんな言い方が頻繁に、というより余りにも頻繁に聞こえてくるご時世だ。


素朴な疑問がある。

《政府》という言葉にどんな意味を込めて使っているのだろう?

政府って《行政府》のこと?

だとすれば、こういう言い方はおかしいのじゃないか。日本はアメリカと違うのだ。 

こんな風にTV画面の前で声が出てしまう自分がいたりする・・・

いやはや、トシである。

 

政府が即ち「公的権力」という意味ならば、法律的根拠に基づいて「徴税権」や「捜査権」、「拘留権」など公的権限を有している機関がすべて含まれる。拘留権どころか司法権を含めるなら死刑を言い渡して命を奪う権力も日本にはある。しかし、ここまで広義の範囲で使うなら「政府」ではなく「国」という言い方をしているはずだ。

であるから、マスコミ辺りが「政府」と言うときは、先ずは「首相官邸」、これでは余りに狭い場合は「中央官庁」というイメージで、そう言っている印象がある。本当は徴税権や捜査権などをもつ都道府県や市町村も「政府」であるはずだが、なぜだかそれらは「自治体」という言い方をしているのが、やはりメディア・ボキャブラリーであって、この辺の語句の使い方は明らかに大学、学界とは異なっているように感じる。

しかし、マア、テレビのMCや専門家は、漠然と「▲▲省」、「〇〇庁」くらいの意味合いで「政府」と語っているのだと思うし、「政府の責任です」と言うのは「担当大臣の責任」、「担当大臣を任命した総理大臣の責任」ですと、言いたいのはこれだろうというのは分かるのだ。

しかし、こんな原稿では・・・大学で学生が提出するレポートでこの程度のレベルの文章を書けば、評点は<可>もしくは<不可>になると感じるのだ、な。


対米戦争を始めた責任は当然ながら「日本政府」にある。が、これでは実質的な内容は何もない。ゼロに等しい・・・と、気づくところから、勉強は始まるし、報道も同じことなのではないだろうか。

「責任は陸軍にあります」、「いや、海軍にもあります」、そんな思考の流れの末に「いや、いや体制からして天皇に責任があります」・・・あらゆる言い方がある。そのどれもが言い方としては正しい。しかし、どの言い方も単なる<言い方>に過ぎない。だからこそ、現代の日本人は一体日本はなぜアメリカと戦争を始めたか、その責任の帰着をまだ正しく本質に沿って理解していないのであるし、寧ろキチンと究明されていない状況を諦めてもいるわけだ。

先ずは、こう言っておけば間違いない

報道の現場でこんな割り切り方が支配的になっているなら、もうそこには研究という活動はありえないし、報道をしているならロクな報道にはならない。

一体、「間違いない」というのはどういう意味か?「間違いない」というのは「こう言えばそれは間違いだ」という是非の基準があって初めて言えるわけだ。そして是非の判断ができるというのは、前提としている目的や理論がある。故に、「間違いない」という人は、そう考える理由を求められるときに、ちゃんとアカウンタビリティ(accountability)を果たさなければならない。そう思うわけだ。


日本は国会が行政府を指導、管理する体制だ。大統領はいない。議院内閣制である。故に、政府と言う場合には国会を指す意味合いで使うべきだ。現にイギリスの新聞は▲▲議員、〇〇党に視線を向けていて、◇◇省や□□庁がニュースになるのは、何かを発表した時である。日本に置き換えれば、政府の責任というなら、議員である首相、議員である外相と言うべきであるし、つまりは自民党(と公明党)の責任と言わなければならない。

そして自民党の責任というなら、前回投稿でも触れた能力分布を考慮するなら、党の指導的立場にある極々数人の議員の言動に注意を集中するべきなのである。米英のマスメディアは、省庁や組織というより具体的な人物の発言や思想、傾向を頻繁に報道する。

なぜ日本ではそうなっていないのだろう。憶測するに、《記者クラブ制》という制度(?)と省庁という組織が一体になって、日本の政治報道、というより政府報道が展開されているからだろう。

これもメディア産業の「構造問題」の一つを為している。


そもそも、政治は人間関係の中にある。取材も同じだろう。それも「深い人間関係」の上に政治はある。「社内政治」、「学内政治」、全て同じだ。ところが、不思議なことに戦後の、というより現在の(?)日本社会は、日本国憲法のタテマエ的性質をより明瞭に意識しつつあるせいか、政治を人間関係として認識することにネガティブで、ますます社会メカニズムとしての政治というか、なにか実現するべき理想として考える傾向を強めているように見える。少なくとも小生はそんな感覚をもっている。人間関係の中にいれば言葉や態度で自分を表現しあうものだが、そこにはあらゆる要素がある。忖度だけではなく、 揣摩臆測 しまおくそく もある、 阿諛追従 あゆついしょう もあって当然だ。 面倒で仕方がない。もっとスッキリできないかと「何トカ政治」の嫌いな小生は願っているが、しかし、非合理で矛盾した人間が衝突する所に政治は必要になるわけだから、あらゆる▲▲政治が非合理的でドロドロしてくるのは当たり前のことだ。この程度の理屈は、成人式も済めば、誰でも分かっているはずなのだが・・・なので、メディアもこんな知的関心に応える政治報道をしてほしい。それが『これは政府の責任です』とはネエ・・・『ボウッと生きてんじゃねえ!』でしかないわナア。

大体、組織のルーティンワークはマネジメントであって政治ではない。ルーティンから出てくる固い情報をメカニックに集めても、清潔かつ透明で不潔感はないが、それは広報であって政治報道とは真逆の活動である。

今日もボヤキになった。同じ内容の事は何度も書いているから、この辺で。

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