2022年6月10日金曜日

断想: 自由主義と権威主義について

「民主主義 vs 権威主義」の競争と最近よく言われるが、民主主義で意味されている具体的中身がまず第一に「自由」であるのは明白だ。

その自由には<政治的自由>と<経済的自由>の二つがあって、民主主義は政治的自由を指してつかわれるがことが多いのだが、その政治的自由は経済的自由によって支えられていなければならない。これは徹底的な自由主義者であったミルトン・フリードマンが指摘した周知の命題である。そして、経済的自由とは、競争市場への自由な参入と退出の自由のことであると要約しても、本筋はあらかた押さえられるだろう。

日本の民主主義に「お題目」的側面があるのは、政治的自由を支えるべき経済的自由が無視できないほどにまで規制されている所からもたらされていると小生は思っている。つまり、<既得権保護>のための法制度や規制によって経済的自由が制限されているケースが非常に多い。

マ、この話題は本ブログでも何度かとりあげた。今日、もう一度繰り返しても、あまり意味はない。<日本病>をキーワードにしてブログ内検索をかければ、これまで投稿した覚え書きのヒストリーは簡単に確認できる。

ただ、世間で上の話題を議論するとき、実際にその社会で暮らしている人々の主観からみて、どちらのタイプの社会がより幸福であるのか?

こんな意識で議論されることは案外少ない。話されるときは、幸福ではなく、どちらの社会が正しい社会であるのか。そんな観点から話題になることが多い。余りにも、だ。

どんな社会が正しいか?

この質問には小生はまったく関心もない。これが重要だとも思っていない。

どんな社会で人々は幸福である可能性が高いか?

意味のある質問はこれだけだと思う。

というのは、小生はもう若くはなく《安定》を求める心理が強いからだと思う。安定が幸福をもたらすと考えるようになったのだ。そればかりではなく、若い時分から安定した人生を歩んできたのであれば、成長や発展がなくとも、それはそれなりに幸福であったのではないか。そう考えるようになったということかもしれない。

安定とは将来が(ある程度)見通せるということである。「ある程度」というのは自分の寿命ばかりは正確に将来予測できないからだ。

しかし、安定ではなく《発展》を求める心理が強いときもある。

高校レベルの授業「政治・経済」では(今でも)「単純再生産」と「拡大再生産」が重要事項に入っているはずだ。

現代社会は「経済成長」を当然の前提にして将来を考えるが、これは「拡大再生産」の社会である。この種の社会では、常に変わっていかなければ社会からはドロップアウトしてしまうわけである。ずっと同じでいたいと願っても、現状のまま続けていれば、それはやがて旧式になり、より強いライバルに吸収されてしまうか、消滅してしまう。発展する社会で安定を求めるのは矛盾している生き方である。そんな発展の果実を享受する機会は万人に平等に保障されるべきであるという理念から「経済的自由」の重要性が出てくる。そして経済的自由の上に、誰にも政治的特権を許さない政治的自由が実現する。これが近代民主主義社会を支える柱である。

経済的自由がまず先にあり、それを前提に政治的自由がある。逆ではない。ここにフリードマンの説得力の源がある。

しかしながら、常に発展を求める社会は万人にとって安心して生きていける社会だろうか?こんな問いかけをしても、すぐに無意味だと否定するべきではないだろう。


理想社会の雛形として《桃源郷》という言葉が古くから使われている。

その社会は、世界から隔絶されていて鎖国状態にあるが、単純再生産の下の生産力と総人口のバランスがとれているので、親から子、子から孫へ何世代にも渡って安定した生活が保障されている。拡大も縮小もない。こんなタイプの社会では《伝統》という文化が自然に形成され、その中には《神話》という昔語りもあるだろうし、人々の尊敬を集める象徴的な君主が推戴されるにしても決して奇妙な選択ではないと小生は(想像の中だが)感じる。

足るを知る

このモラルを守る限り、その国の住民は心の平静を保つことができ、幸福であるかもしれない ― 向上心に燃えたつ人物にとっては不満だろうが、拡大とは略奪、略奪とは物欲であり、悪徳であると教育すれば、そんな桃源郷に人は馴染み、適応するに違いない。

近代の発展する社会と発展を捨てた桃源郷と。どちらを目指すのが正しいか、幸福という観点から直ちに回答することは難しいはずだ。なぜなら、その人の主観的な価値観によるからだ。

そして、発展する社会には自由がなければ確かにフェアではないが、安定した社会で自由が大切になるかどうかはにわかに結論できない。

10年ほど前に《民主主義》について投稿した文章を読み返すと、自分の考え方というのは、基本的には変わらないものだとツクヅク思ってしまう。

古代ローマは、誕生から消滅までの国家の1サイクルを考察できる稀有な歴史的サンプルである。そのローマは最初は王制をとっており、次いで共和制に移った。共和制の下でローマは領土を拡張し、経済的にも非常に発展した。しかし、広大な領土を獲得したあと政治的な不安定が続き、共和制から帝政へと自然に移行し、以後帝国崩壊までずっと帝政が続いた。

古代ローマを例にとらなくとも、日本社会も競争的な戦国時代に農業技術、生産力が大いに発展し貨幣経済が生まれたが、最終的には徳川幕府の下で発展から安定へ、社会的流動から社会的固定へと体制が移行した。

発展を前提とすれば自由と民主主義が選ばれる理屈だと小生も思うが、発展を求めることが常に正しいとは限っていない。そう考えるとき、安定が正しいと考える筋道が生まれ、安定と自由とは必ずしも調和しない。こういう切り口もある。

ま、現代世界の問題が「拡大を求める権威主義」という存在にあるというのはその通りだ。発展を目指すうえで権威主義がベストの社会システムではないのは明らかだが、マルクス=レーニン主義だけは違う。その世界観に立てば共産党の革命史観を貫徹することこそ即ち発展につながるというロジックになる。

とはいえ、現代中国は真面目なマルクス=レーニン主義を既に捨てている。資本主義と社会主義のハイブリッド体制である。ただ「科学的社会主義」の発展段階説だけを残り火のように引き継いでいる。その意味で<マルクス=レーニン主義>というイデオロギーがもっている危険性は21世紀の現代世界においても決して否定できない。




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