2022年6月23日木曜日

ホンノ一言: 賃金引上げ?・・・「構造改革」は二つの選択肢にしぼられる?

参院選がスタートしてから、日本でも賃金引上げ、そのための生産性向上が議論されるようになった。これだけでも日本社会は<1歩>前進したように感じる。

10年ほど前までは<生産性>という言葉を使うと、『生産性を上げろと言うのは経営者本位の発想だ。もっと働けということだろう。怪しからん。』と。マア、こんな批判が野党やマスコミから津波のように沸き起こってきたものだ。確かに「生産性向上」の圧を感じないまま、一律昇給、一律昇進、定年再就職という人生は

〽 サラリーマンはア~~、気楽な稼業ときたもんだあ~~

と。まこと高度成長以来、日本の「企業戦士?」たちは、とりわけ大企業に勤務する恵まれた一部の戦士たちは、日本的経営の下で安楽に過ごせてきたわけである。確かに従業員本位の社会であった。それが、ずいぶん日本社会も変わってきたと思う。

もう限界かもしれない

と。リーマン危機では金融のシステミック・リスクが云々されたが、今度は日本的経営体制のシステミック・リスクが論議されようとしている。

どうやら、このキッカケは

韓国にも平均賃金で追い越され、これはイカン、と。

超保守的な戦後左翼、反改革派の野党も日本の凋落にはやっぱり不安感、危機感を感じると見えて、失業率の一時的上昇を覚悟してでも、最低賃金大幅引き上げを主張するようになっている。共産党系の野党など1500円を主張している。引き上げ率50%!韓国の文政権が断行した大幅賃上げなど「目じゃない」、義をみてせざるは勇なきなりというか、盲人、蛇におじず、というか、まあ米大リーグの大谷選手ではないがスゴイ公約が並んでいる。

最低賃金引上げといえば、菅内閣時の「成長戦略会議?」であったか委員に任命された英国出身の元金融マンで現在は京都にある ― と思ったが、日光東照宮造営にも関わった江戸発祥の企業であった — 伝統工芸品企業の社長をしているデービッド・アトキンソンが有名である。

今朝辺り、テレ朝の「モーニングショー」のコメンテーターとしてア氏が出演していたから、韓国の文政権が断行した最低賃金大幅引き上げを日本も模倣しようという流れになりつつあるのかもしれない。

アトキンソン氏、相当の自信がある様子だ。

何日か前、悲劇を別の舞台でまったく同じ内容でそのまま再演するなら、観衆は今度はそれを喜劇として鑑賞し、お笑いにするものだという人間心理を述べた。

日本と韓国と労働市場の構造はかなり違うが、まずは政策実験をしてみる勇気があるなら、やってみるのが最善であることは確かだ。歩きながら考えることが大事で、考えていても状況は変わらない。

下手な考え、休むに似たり

この格言は経済政策にも当てはまる。

先週末から今週初にかけて東京まで往復した。いや、マア、とにかく暑かったという感想で北海道に戻って機外に出たとき吸った空気にホッとしたものだ。

その帰りの機内で考えていたことをメモしておこう。

この30年間、日本の平均賃金がほぼ横ばいで、こんな先進国は他にはない。いま解決するべき最大の課題は《構造改革》である、と。こんな認識が浸透してきたこと自体は、未来への希望を高めるものだ。が、その「構造改革」とは、具体的には何を指すのか?何を目的とする「改革」なのか?ここが最も重要なポイントだ。

「構造改革」で目指すものとは、分かりやすく言えば

構造改革 → 労働生産性の向上

これに尽きるわけだ。この点は、今朝のアトキンソン氏が<バカでも分かる生産性と賃金の関係>を話していた。

企業と言うのは、要するに100で仕入れたものに、付加価値をつけて、200で売る。これに尽きるわけだ。経営者と従業員が加えた付加価値100が賃金支払いの原資となる。なので、同じ人数で付加価値を100から200に増やす。200で売れていたものを300で売れるものに出来れば、1人当たりの労働生産性は2倍に上がる。その人が支給される賃金原資も2倍に増える理屈である。つまり、生産性を上げずに賃金を上げるのは不可能である ― もちろん、生産性の問題ではない。資本家の報酬を削減して、従業員に分配すればいいのだと主張するマルクス的視点もある。しかし、経営者の報酬を削減しすぎれば、利益率が社会の平均に達せず、経営意欲が失われ、信用もなくし、企業自体が消えて行くだけである。

当たり前の理屈をやっとメディアも率直に語り始めたようである。


この当たり前の理屈を率直にテレビ画面から語らせる状況に至っただけでも、日本メディアの進歩である ― 正しい理解を得るまでかくも長い時間を要したことはメディア業界の酷い勉強不足の表れであったという非難は免れ得ないが。

さて、生産性向上には二つのアプローチしかない。これを考えながら旅行から戻って来た。

① 「市場競争と適者生存」の徹底 = 市場ディシプリン重視路線

生産性の高い企業と低い企業が同じ商品市場で競争するとき、高コスト体質を改善できない低生産性企業が生き残るのは困難になる。価格競争で勝てず、製品競争でも財務的余力がなければ負けるだろう。もし負け組のゾンビ企業を延命させることなく、市場から早期に退出させれば、負けた企業に属していた有能な人材は勝ち組企業に移籍し、その社の成長に寄与するはずである。他方、能力不足の社員は成長企業に移籍することができず、(おそらく)より低い賃金で再就業するしかない。短期的には弱者に社会的調整コストがしわ寄せされる。が、低生産の停滞企業の縮小と高生産の成長企業の拡大によって、日本全体の生産(=GDP)が増える。同じ就業者数でアウトプットが増えるのは社会全体の生産性が上がるということだ。それによって平均賃金の上昇がもたらされる。


② 労働市場改革 = 労働者個人の権利保護重視路線

有能な人材がより高い報酬機会を求めて自由に企業間を移籍できるように雇用慣行、労働法制を変更するというアプローチである。必然的に勤続年数で賃金が決まる年功賃金ではなく、その人が担当できる職務内容から賃金が決まるジョブ型賃金へと移る話しになる。年功賃金・終身雇用を原則とする日本型雇用の終焉を意味するわけだ。高い報酬を支払える新興企業が停滞している既存企業から有能な人材を奪取しようとするとき、その人材が在職企業内で形成してきた様々な資源をどの程度まで属人的資産としてトランスファー出来るかが非常に重要である。年功型賃金では中途退社・中途入社で個人的に失うものが大きい。これを解決し、勤労者個人を保護する法制が望まれるわけだ。企業の所有に帰する経営資源と社外に転出する社員個人に帰属させるべき社内資源との明確な線引きがポイントとなる。このような労働市場流動化が実現すれば、結果として、有能な人材がヒトを求める成長企業に集中、拡大し、停滞企業は人材が空洞化し、企業規模は縮小する。

帰りの飛行機の中でざっと上の二つの方法を考えていたわけだが、いずれにしても

ヒトを求めている成長分野を拡大させ、ヒトが余っている停滞分野を縮小させる

結局、日本経済の低成長と賃金停滞とは裏腹の関係にある二つの現象であって、その基礎にある経済的ロジックは極めてシンプルなものでしかない。簡単に言えば、

日本経済の停滞は停滞分野が縮小しないことによってもたらされている。

こう言えばそれに尽きるわけだ。

今日の停滞分野は、さすがに「重厚長大」型産業が財界を牛耳る時代ではないが、やはりまだ日本の産業政策には隠然たる影響力をふるっている。その停滞分野につながる企業に切り込み、それを縮小させる道をつける。これが政治的にいま日本がやるべきことなのだが、さて古い保守党である自民党にそれが出来るか?これが現時点の日本の政治的課題なのである。

アメリカやヨーロッパであれば、利害が対立する2勢力があれば、それぞれが異なった政党を支持し、政策的に対立、交替するものだが、不思議なことに日本ではこの対立構造がない。「労働者 vs 資本家」という174年も昔にマルクスとエンゲルスが提唱して今ではカビの生えた「階級闘争路線」を奉じて多くの政党が野党を延々とやり続けている。現代固有の対立構造を観察し、自党の支持基盤をどこに求めるか、政党のくせにそれも考えていないのか、と。まったく非現実的かつ無能な政略で、これが小生には「七不思議」なのだ。

成長分野とは、一口にいえば需要超過分野のことであるから、状態としては人手が足らない分野のことである。いくら経済オンチであっても、今日の日本にあって、どの分野にビジネスチャンスがあって人が足らず、どの分野では販売に苦戦し人が余っているか、この位は分かるだろうと思うのだ。

この辺の話題は既に何回も投稿しているので、<日本病>をキーワードにブログ内検索をかければ 、これまでの議論の流れは分かる。

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