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「敵基地先制攻撃」とか「反撃能力」とか、そんな勇ましい言葉が頻繁にメディアに登場するようになった。やはり「北朝鮮」と「ウクライナ戦争」が大いに関係していると見える。
そんな中、
「反撃能力」を持った方がよいという点については国民の間でも理解が深まっていると思うのです。
そんな「指摘」が(いつの間にか)増えてきた。『ロシアから軍事攻撃されても徹底抗戦しているからこそアメリカが支援してくれるんだよね』とか、『半月か、一カ月か、反撃できる位の弾薬備蓄は要るよね』とか、極めて自然な気持ちの変化であるとは思う。これ自体は、当たり前の理屈であって、非現実的な批判を乗り越えてドンドン進めてほしいと思う。
しかしネエ・・・
何だか(いつの間にか)日本は普通に戦争が出来る国だと・・・、国民は(いつの間にか)このこと自体は理解しているのだと・・・、こんな風に言いたげな紙面づくり、番組作りが目立つようになったのには、大いに「問題あり」だと感じる。
小生はへそ曲がりだから、
気分としては自分もまったく同じですけど、今の憲法でそれが出来るんですか?やるならやるで、先に憲法を書き直しておかないと、全体がウソになりますゼ・・・
こんな風に思ってしまうのだ、な。たかが条文、されど条文。憲法というのは国の基本でしょ、という理屈は絶対に軽んじるべきではない。
誰もが知っている憲法9条だが
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
武力による威嚇、武力の行使は、「国際紛争を解決する手段としては」…放棄する、と。こうハッキリ書いている。「交戦権」を認めないとも書いている。なるほど「交戦権」という言葉を狭く解釈すれば「海上封鎖」や「臨検」を行う権利を指すそうだが、より広く解釈して「戦争を行う権利」と解釈する見解もあると聞く。もし「反撃」すれば、「先制攻撃」すれば猶更のこと、攻撃をしかけた国は「対日戦争」と認識する。これはもう立派な(?)「戦争」だ。それともロシア政府と同じで「戦争」ではなく「軍事的反撃」であると説明するおつもりで?しかし、交戦権を広く解釈するなら日本政府は一切の戦争行為ができないという理屈だ。公式見解があろうとなかろうと、こんな曖昧さが残っているのは問題だ。
いくら「専守防衛」の範囲内だからと言って、反撃したり、敵基地を先制攻撃するというのは、こうすることが必要な危険な情勢が先に目の前にあるわけだから、日本による「反撃」は「国際紛争を解決するために武力を行使する」実例になる。こんなことは、小学生でも分かる。
なので
やりたいことがあれば、先に憲法を修正しておく。
この程度の努力は独裁者のはずの習近平やプーチンでもやっている。普通に憲法を読めば出来ないが、実は出来るのだという「専門的議論」は、全て《屁理屈》で大嘘だと思われるだけである。
ところが、こんな(小生には当たり前に感じる)意見を表明する専門家が一人もいない、メディアにも登場しない、という現在の日本社会は異様である。
国会という狭い場所で話が進み、マスコミは考えることなく話を伝えている。
そもそも足が地についていない。
そんな風に感じますネエ。口先だけで空回りしている。そこが姑息である。
明らかに現代日本の政党政治は問題解決力をなくしつつある。
修正するべき修正をせず、やりたいことだけを先に決めて、最後に憲法の条文をみて
こう書いてあるのだが、こう解釈すれば、いま決めた事は出来る
最後にこう言う。こんな思考回路は、いかにも憲法を尊重する護憲主義に見えて、実は憲法などは神棚に祭り上げて機能させない《反・法治主義》だと小生には観える。
実際、日本(の上層部?)は《憲法》や《法》を必ずしも守らないところがある。戦前期、天皇が統治するという君主制をとりながら、天皇自身の意志が通ることは稀であった。明治時代早々に《軍人勅諭》が公布され、軍人が政治に関与することを禁止していながら、結局は軍が政党を超えるほどの政治的影響力を持つに至った。
ま、戦前は戦前、戦後は戦後だが、よくもまあ《自由・民主主義・法に基づく支配》という価値観を共有するなどと平気で言えるナア、と。お気楽なものだよネエ、と。そう思うことがママある。
危ないネエ・・・
2
マインドコントロールされている状態で行った寄付は無効にするという法的扱い。これもいま旧・統一教会に関連して、国会で議論されている、というか野党が主張してやまないと報道されている。
上と同じで、これまた気分はとても分かる。
というか、左翼勢力は保守基盤である宗教団体(の一つ)を解体して自党の利益としたいのだろうが、こんな党利党略はさしあたってどうでもよい話しだ。
しかし・・・寄付行為を規制するという考え方自体が、ヤッパリ危ないなあ、と思う。
大体、認知能力に問題があるわけでもなく、成年後見人がいるわけでもなく、普通に自分名義の財産処分として寄付行為を選択したとき、
「その方」はマインドコントロールされている故、先月の寄付行為を無効としたいという申し出がその方の親族〇〇から出されておる。当裁判所で審議した結果、申し出は正当であると認められたが故、その方の寄付行為を無効とする。
返還の手続きはカクカク、シカジカ、本通知の主旨に沿い速やかに進めるように。
相続争いが盛んだった鎌倉時代ならいざ知らず、この現代日本の世でこんな通知がやってきたりしたら、たまりませんぜ。
明治以来、というか旧幕時代を含めて、財産権の神聖は(天皇神聖を上回るほどに)日本では最も尊重されてきた法概念である。
家族、親族、被扶養者などの生計を崩壊させるほどの非常識な寄付が行われた時は確かに経済的な問題が発生する。家族、親族の信頼関係も崩れるだろう。しかし、これらは家族の問題である。親族同士で解決するべき筋合いだ。家族にとっては損失だが、寄付を受けた別の主体にとっては利益である。テロや破壊活動とは違う。その寄付行為が社会的損失だとハナから決まっているというロジックはない。寄付行為が社会の問題であるというには、(数で言うのは適切ではないが)数万件という事例が現に発生して、日本経済を毀損しつつあるという事実認識が先になければならないと思うのだ、な。どれほど目立とうが、点として発生している家族問題を、社会問題に拡大して、新規立法をして、国民全体を束縛する新たな規制を設けるというのは、おかしいと最初から感じている。筋悪だ。住みにくい日本社会がますます住みにくくなるではないか。
話しは別になるが、両親が経営する零細企業が資金繰りに苦しみ、サラ金から高利のカネを借りて、結果的に両親は離婚、家族は離散して、子は施設に預けられる。そんな事態が多数発生したからと言って、借主の経済的苦境を知りながら高い金利で融資する行為は不道徳であり、よって無効とする、と。そんな政策を仮に実行すれば、アメリカのジャンク債市場は全ておかしいという理屈になる。金融にはリスクという要素があり、リスクが高ければ資金コストも高くなるというのは、経済的ロジックなのである。
巨額な寄付行為が原因になって家族が崩壊する瀬戸際に置かれた時、その寄付行為を無効にするという理屈と、経営の苦しさを知りながら高い金利で融資して苦境にある企業の破綻を招くような行為を無効にするという理屈と、本質的にどこが違うのだろうか?寄付ではなく、競馬や競輪にはまってカネを使い、そのために会社を潰してしまったからと言って、家族は競馬や競輪の主催者からカネを返してもらうことが条理にかなうとは思わない。
その人の認知能力に問題がなければ寄付行為は自由であり成立する。認知能力に問題があるのであれば後見人を立てなければならない。その場合、当人に契約能力はなくなる。
家族には理解されていない信仰に没頭するとき、だからと言って、他の家族は信仰に熱心な家族の一員の判断能力が不十分であると医師や公的機関の決定を求めてもよいだろうか?
まあ、求めることは出来るのだろうが、信仰に熱心だから正常な判断能力を持たないと医学的判断が下される可能性はとても低いと小生は思う。またそんな判断を第3者が行うべきでもない。
つまるところ、家族の理解が得られないままに巨額の寄付行為が為されてしまうのは、その家族自体に何らかの問題があるのではないかと思われてしまうのだ、な。
ただ、不安に感じた家族が、一定割合以上の資産を「生計のため共有されるべき資産」としてあらかじめ保護を申請するという法制度はあってよいかもしれない。これならまだ分かる ― 実際に具体的にどう書き起こすかは関連法との整合性もあって面倒だろうが。しかし、マインドコントロールが契約無効の理由になるという思考回路は極めて危険だと思いますネエ。
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