2022年12月4日日曜日

断想: 社会と個人、トラブルと信仰、法律と自由の関係について

経済学の成長理論においてさえ生産性が上昇したり低迷したりする時代が発生する現象の説明に「そういう時代だった。人がどうこう出来るものではない」という意味で運命論を使うことがあるくらいだ。

まして、その人、その家庭がどんな人生を歩むかには運命という要素が深く関係してくるだろうという観方はそれなりの説得力がある。

困っている人がいるからと言って、親切な人の善意に期待するのではなく、社会がその人を救済する責務があるという思想は、よ~~く考えるべきだと思っている。「社会の責務」は必ず「公的権限の強化」につながり「個人の自由の制限」に帰着するからだ。

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前回の投稿で書いた下り:

家族には理解されていない信仰に没頭するとき、だからと言って、他の家族は信仰に熱心な家族の一員の判断能力が不十分であると医師や公的機関の決定を求めてもよいだろうか?

まあ、求めることは出来るのだろうが、信仰に熱心だから正常な判断能力を持たないと医学的判断が下される可能性はとても低いと小生は思う。またそんな判断を第3者が行うべきでもない。

つまるところ、家族の理解が得られないままに巨額の寄付行為が為されてしまうのは、その家族自体に何らかの問題があるのではないかと思われてしまうのだ、な。

『これって自己責任論ですよね』と指摘されれば、そうなのだろうナア、と我ながら思ってしまう。

ただ、一つ言えると思うのだが、一人残らず順風満帆で、かつ幸せに満ち満ちた家族の中で、一体、誰が自分一人信仰に没頭し、大枚の喜捨(≒寄付)を行い、 家族から非難されても、それでもなお教会に出かけて礼拝し続けるだろうか?それこそ『その人の性格もあるのかもネ』というコメントしか出せないのではないか。こうなると運命論に近づく。

何か悩みや苦しみがあるが故に、人は神を信じ、祈り、慰藉を感じるものである。これはもう時代や国を超えて、人類共通に言えることだと思うのだ、な。

つまり、一言で言えば、お目出たいノー天気の人が、信仰ある毎日を送りたいと願うはずはない、と。そう思われるわけで、実際にこの命題は誰もが思いつくようでもあり、だからこそマルクス主義者であれば

あらゆる宗教は(心の苦しみを和らげる)心のアヘンである

こんな見解を持つようにもなってくる。 

肉体の苦痛を和らげるのがモルヒネ(アヘン)、同じような働きを心に及ぼす施療として宗教がある・・・実態はそう思われるわけで、故に弱者の救済は宗教ではなく、(社会科学をも含めた)科学だけが実現できる。そこが空想的社会主義から科学的社会主義への前進である・・・とマア、一時代昔にはこんな思想がまだまだ世間で影響力を持っていたものである。

このような科学的観点からみれば、巨額の寄付行為を行う一員によって生計が破壊された家族は、いわば「心のアヘン」の蔓延がもたらした《宗教の犠牲者》という理解の仕方になり、故にその原因となった宗教団体には「アヘンの提供者」としての社会的責任を負わせるべきである、と。こんな図式に沿った主張になるのは、よく分かる。とらえ方が科学的であり、唯物論的であり、極めて社会主義的である。

しかし、それなら全ての国民は科学知識に精通した専門家の指示に従って毎日を送ればよいのだ、という体制に喜んで移っていくかと言えば、

人間には自由という基本的人権があるのだ

と言って、個々人の自由な意思決定が何よりも重要だと考えるわけである。科学的社会主義は、ロジックとして自由な市場メカニズムを信頼せず、専門家による計画経済を選ぶものだが、その帰結は共産主義圏の崩壊、冷戦の終結という形で、30年以上も前に既に決着がついていることである。

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とはいうものの、以前にこんな投稿をした事がある:

しかし、いかなるものからも完全に独立した人間は存在しない。何らかの神、何らかの思想、誰かに受けた影響等々があって、人は成長し、人格を形成し、生きているものである。全ての人は社会の産物である。人が犯した罪の責任にはその人間を育てた社会が負うべき一面がある。100パーセントの自由意志など実は現実には存在しているはずがないことは誰もが知っている。にも拘わらず、法は自由意志を措定したうえで被告人を裁いている。裁かれる人が社会を裁くことはない。社会は決して裁かれない。ここに<非条理>を感じる人は多いであろう。

一人一人の人間が自由に意思決定して、自由に職業を選び、暮らす場所を決めれば、その人なりの幸福な人生を実現できないはずがない、というのが「旧・西側陣営」の理念で、日本もこんな社会観に立って政治を行っている。

それでもなお、いま生きている一人一人の個人は、その人が生きている社会の産物である。人は社会生活をおくる動物である以上、個々人の自由意志で自らの人生を100%決めるなどと言うのは不可能である。これもまた普遍的な真理である。


そして、犯罪や離散、紛争等々は社会の中で発生するものだ。個々人が自由に行動をしていれば、猶更のこと、トラブルは生じる。人間社会は決して完全な組織ではないのだ。

そのトラブル処理に際して、どこまでが個人間の和解に期待し、どこから社会的な管理に任せるかは、国ごとに、時代ごとに違う。

いま発生している旧・統一教会に関連した「被害者救済」は宗教活動に起因して家族生活が崩壊したとされる人たちを社会の責任としてどんな対応をするかという問題だ。

宗教活動に関連して発生するトラブルは、暴行、障害、窃盗、更には詐欺とも異なる。各方面の当事者それぞれに「悪意」という要素は(理屈として)ないはずである。

全ての宗教に言えることだが、その宗教を信仰していない部外者の立場からみれば、どの宗教も詐欺に見えるのではないだろうか?しかし、信仰とは科学的研究と本質的に異なる活動だ。そこには科学的真理とは別の直観的真理が関係する。なので、宗教に関連して発生するトラブルを解決するには、理解や覚醒、更生などと言った発想をとるべきではない。

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上に引用した投稿にはこうも書いている:

話しは変わるが、福沢諭吉が『文明論の概略』の中で統計的な社会法則に着目した記述をしている。その時代の日本の知性の遥か上を行っているところだ。

要するに、詐欺も窃盗も殺人も毎月、毎年、ほぼ一定の頻度で発生する ― 一定でなければ非定常の状態であって、それには何らかの社会的原因がある。その国の治安状況を反映して、犯罪ごとの平均的な水準には国ごとの違いがあるが、発生率としては非常に安定している。統計的な社会法則の安定性に着目して、例えば社会科学としての「経済学」の有用性にも目を向けている。福沢が非常に先進的であったところだ。

その国ごとのリアルな社会状況を反映して犯罪の発生確率がパラメーターとして決まっている。その確率が実際の犯罪発生頻度となって現れてくるのは統計的な「大数の法則」そのものである。ま、こんなロジックである。

つまり犯罪もまた、社会現象。個人個人の自由意志による行動というよりも、その社会の属性として犯罪をみる観点である。

宗教と信仰の自由を保障する社会であっても、一定頻度で宗教上のトラブルが生じ、中には生計が崩壊してしまう家庭が発生するのは、当然予想される事象である。

もちろん窃盗がないにこしたことはないが、社会は完全ではない。盗みやスリという犯罪は一定数、ほぼ必然的に毎年発生するものである。交通事故も同じである。ゼロにこしたことはないが、ゼロに抑える政策を真面目に実行すれば、むしろ住みにくい社会になるだけで、幸福を求める国民には本末転倒になる。

犯罪抑止は、正義論ではなく、マネジメント論に属する課題なのだというのは、前にも書いた記憶がある。

宗教活動は犯罪とはまったく違う、善意の活動なのであるが、それでも宗教団体は玉石混交で、色々な団体がある。トラブルも毎年発生するのは当たり前のことだと認識するべきだ。

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いま審議されている「被害者救済新法」では宗教団体の行為をモニターしながら、必要が生じれば勧告や指導ができ、教団が従わない場合には処罰も可能になると報道されている。

野党は「マインドコントロール」されている信者による一定金額以上の寄付を無効にする考えすらもっているようだ。

どちらにしても、宗教活動の具体的中身に入る行政活動であって、もし法案が可決されても、その実行段階で「次なる紛争」が生じ、おそらく「政府の規制は違憲」とする最高裁判決が何年かあとには出てきそうである。

教団、信者、家族など当事者のそれぞれに悪意がなく、それでも発生する経済的トラブルには、《事後的な損害賠償責任》を明確にすれば、それで十分のはずだ。

家計が破綻した信者以外の家族は、蒙った経済的損害を非常識な寄付を行った家族に賠償請求すればよい。すべての財産を寄付して賠償能力がないなら、寄付を受け取った教団を相手にして賠償請求をすればよい。

もちろん、そこには<時効>という法概念も関係してくるだろう。例えは悪いが、交際中にプレゼントした数多くの宝飾品を、哀しくも別れた後になってから「返してくれ」と元フィアンセに迫ったところで、返す義務はあるのかないのか?そんな問題にも通じる話である。

いずれにせよ、その賠償請求が裁判所に認められる状況になれば、宗教団体の布教活動においても、訴訟リスクが考慮されるだろう。

要するに、

どの人も、どの団体も普段は自由な意思決定によって自分の活動にベストを尽くす。発生するべきトラブルについては、事前の行動規制ではなく、事後的なルールをあらかじめ明確にしておく

というのが、その国が「先進国」であるかどうかの分岐点である。

「お上の指導」ではなく客観的な「法」がないという批判は、明治の初め、「憲法もない」、「民法もない」、「商法もない」、「中でも、訴訟法がない」と、だから日本は後進国であると、西洋列強から指摘されて焦りまくった明治新政府が置かれていた環境と似ているように見えてしまうのだが、いかに。


無能な行政府に新規の武器を与えて、この武器を使って、「得体のしれない教団」、「怖い教団」を抑え込んでくれとお目出たい期待を抱くような国民は、そのうち、国民自体がその武器によって自由を制限されてしまうだろう。

宗教にも政治にも興味をもたず、上司に指示されるとおり黙々と元気で働いて、税金をキチンと納めてくれさえすれば、政府にとっては理想的な国民なのである。民主主義のミの字もないのはこのことだ。

実に愚かだと感じる。

教会に奪われた家族の一員を昔に戻して取り戻すのは少なくとも行政の責任ではなく、家族が取り組むべき課題だ。

人間社会は、実に複雑で、入り組んでいる。だからこそ、自由が大切なのだと思っている。


【加筆】

2022/12/05、2022/12/06

 

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