2022年12月7日水曜日

断想: バタイユ流の御恩奉公は現代日本で実効性をもつだろうか?

日本は概ね全ての分野において学問は輸入学問で、それでも数物系、生化系など自然科学では独自の実績を日本も残してきたが、社会科学系の学問では、実務の平均水準は決して恥ずかしくはないし、なるほど森嶋通夫氏や宇沢弘文氏などが日本にはいた、宇野弘蔵のマルクス経済学の影響力は大したものだとか、色々と云々されたりもしていたのだが、独自の世界的影響力という尺度ではほとんど何もと言ってよいほどの貧困たる実績しか世界に提供できていない・・・、小生自身が経済学から入ったから自虐的に視ているのかもしれないが、事実においてこんな自己認識はあまり間違ってはいないと思う。

そんな環境もあって、学生時代から小生の周囲で注目の的になっていたのは、一人の例外もなく海外のビッグネームであった。Samuelson、Solow、Arrow、あるいはイギリスのHarrodやRobinson、Kaldorなどその対抗勢力が、はたまた実証畑ではLeontiefやKuznetzあるいはKleinなどのスーパースターたちが、学生ギャラリーを大いに賑わしていたものだ。この辺の熱気は、どうも憶測するに、今は大分冷めてしまったのじゃないかと感じているが……。

そんな中で、大陸系というか、フランスの文芸はその当時から一部で人気が高く、中でもデリダの脱構造主義とか、ブローデル達のアナール学派とか、数学ではその一時代も昔のブルバキがそれに当たるのだろうが、進んだ意識系の若手研究者には大層な人気を集めていたものである。バタイユなどはその流れの中にいる。

最近もまたバタイユが注目を集めているようで、例えばこんな意見もある:

バタイユは、古典派経済学のような生産と交換にもとづく限定エコノミーの概念に対して、浪費と贈与にもとづく一般エコノミーを提唱した。前者は、たかだかこの300年ぐらいの西欧圏にしか通じない経済学だが、後者は石器時代からの人類の経済行動を説明するものだ。

限定エコノミーで人々が求めるのは有用性(utilité)だが、一般エコノミーでは栄光(gloire)である。共同体の首長が村中の人を集めて宴会を開き、全財産を浪費するとき、彼は栄光を得て、人々に貸しをつくる。宗教的な儀礼にも有用性はないが、それに協力する人々は共同体のメンバーであることを確認する。

それは進化ゲーム理論でいうと、コミュニケーションで味方と協力し、敵とは戦う秘密の合言葉(secret handshake)と呼ばれる戦略である。この戦略は強力で、囚人のジレンマやチキンゲームを一般化した共通利益ゲームでは、つねに贈与で最適解が実現できる。贈り物は、この合言葉である。贈られた人は返礼の義務を負い、返さないと村から追放される。

URL: https://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/52072461.html

この《一般エコノミー》は日本人なら馴染みの《御恩奉公》という武家の倫理を思い起こさせるもので、バタイユを通読したことはないが、おそらく原理的にはこの憶測に大した間違いはないと思っている。


ただ、どうなのだろうネエ……と。

鎌倉以来の武家政治700年間にあった間なら、例えば鎌倉幕府が滅亡するその瀬戸際で、金沢貞将が北条高時から最後まで従ったその忠節を賞され『両探題(=執権・連署両職を指すか)任命』を約束する書付を手渡されたのに対して、

棄我百年命報公一日恩」(我が百年の命を棄てて公が一日の恩に報ず)

渡された紙の裏にこう書き、それを胸に抱いて敵の新田軍に突進して討ち死を遂げた。確かに多くの日本人はこのような忠義に激しく感動したはずだ。

しかし、武士ならいざ知らず、現代日本人は様々の外来哲学に染まってしまった。これを忘れるべきではない。

金沢貞将のように「有難くも御恩を忝くする」という認識の反対側には「そもそも当然受けるべき報酬をいま受け取ったのだ」と、そんな共産主義イデオロギーからバタイユ流の大盤振る舞いをみる人もいるはずである。

そんな左翼的価値観を支持する人からみれば、

大盤振る舞い=御恩

ではなく

大盤振る舞い=当然受けるべき権利 

になる訳であり、何も感謝する言われはない。むしろ「御恩」などと言いつくろう殿様こそ現場で働いて来た私たち国人衆から搾取し余剰を奪ってきたわけであり、その一部をいま私に給わるなどと恩を着せるなど偽善の極みである。「恩」ではなく「返還」である。不平等そのものである。よって打倒するべきだ、と。こんな主張をする筋道になる。

もし金沢貞将がこんな風に考えていれば「一日の恩」を感じることはない。過ぎた縁に束縛されることもなく、もっと「合理的に」行動していたに違いない ― もちろん裏切った足利高氏がより合理的であったという主旨ではない。が、ともかく、左翼風に、というかリベラルにこう考える日本人は、現代日本社会では案外なほどに多くの人数を占めるのではないだろうか?

そして、有用性に着目する「限定エコノミー」とコミュニケーションに着目する「一般エコノミー」との区分は、核家族を基盤とする個人主義の社会的メンタリティと親族・ムラ社会を基盤とする共同体主義のメンタリティとの区分とパラレルであるのかもしれない。日本社会の古層にはどちらの家族構造がより強く残存しているのだろうか?こうなると、エマニュエル・トッドの問題意識とも重なってくる……、ま、色々と問題意識をかきたてられるわけだ。


モノの価値は投入した労働量に比例して決まるものである、という労働価値説が正しい。この見方を徹底すると、マルクスのように利潤は労働者から搾取することでもたらされる剰余価値に当たることになる。であれば、生産過程に参加した人間すべてに平等に分配することが絶対的に正しい。最初から分配平等を前提できるなら、誰かが他の全員に大盤振る舞いをするなど、「もてなす余裕」もなければ、される側も「もてなされる理由」がないというものだろう。

こうした左翼イデオロギーが無視できないほどの支持を得てしまっている現代日本社会においては、せっかくのバタイユ理論も実効性はもたないのではないだろうか?もし小生がまだ学生であったら、こんな意見を発言して、周囲を困惑させるに違いない。ずっと昔から、小生は典型的な<KY>である。というよりKYの補集合に属するようでは新しい仕事は出来ないと確信していたので、KY化は最適化選択の結果でもあったのだ。

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