先日の投稿では以下の事を述べた:
しかし、いかなるものからも完全に独立した人間は存在しない。何らかの神、何らかの思想、誰かに受けた影響等々があって、人は成長し、人格を形成し、生きているものである。全ての人は社会の産物である。人が犯した罪の責任にはその人間を育てた社会が負うべき一面がある。100パーセントの自由意志など実は現実には存在しているはずがないことは誰もが知っている。にも拘わらず、法は自由意志を措定したうえで被告人を裁いている。裁かれる人が社会を裁くことはない。社会は決して裁かれない。ここに<非条理>を感じる人は多いであろう。
犯罪を犯す人も社会の産物である、という見方にうなずける人は多いと思う。しかし同時に、多くの人は犯罪を犯したりはしない。多くの人が法を守る中で少数の人だけが犯罪を犯す。それ自体、現に犯罪を犯した人の責任である、と。だから犯罪を犯した人は、その人物のみが、処罰されなければならない。こう考える人は多いのではないか。
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話しは変わるが、福沢諭吉が『文明論の概略』の中で統計的な社会法則に着目した記述をしている。その時代の日本の知性の遥か上を行っているところだ。
要するに、詐欺も窃盗も殺人も毎月、毎年、ほぼ一定の頻度で発生する ― 一定でなければ非定常の状態であって、それには何らかの社会的原因がある。その国の治安状況を反映して、犯罪ごとの平均的な水準には国ごとの違いがあるが、発生率としては非常に安定している。統計的な社会法則の安定性に着目して、例えば社会科学としての「経済学」の有用性にも目を向けている。福沢が非常に先進的であったところだ。
その国ごとのリアルな社会状況を反映して犯罪の発生確率がパラメーターとして決まっている。その確率が実際の犯罪発生頻度となって現れてくるのは統計的な「大数の法則」そのものである。ま、こんなロジックである。
つまり犯罪もまた、社会現象。個人個人の自由意志による行動というよりも、その社会の属性として犯罪をみる観点である。
誰が犯罪を犯すとか、どんな違法な行為をするかという具体的なことは分からない。ミクロ的には人の数だけ色々な人生がある。未来は個人個人の自由意志によって決まる。予測はできない。しかし、社会をマクロ的に観れば、その社会の現実を反映して、社会的な属性が犯罪の発生頻度となって現れてくる。実に社会科学的なアプローチではないか。
複数の社会を比較分析すれば、犯罪の発生頻度を低下させるためにはどんな社会を構築すればよいのか、というプラグマティックな議論も可能になってくる。社会政策を実施せず、ただ人の自由意志に訴えかけて違法行為をとらないように働きかけても、効果は期待できないということも分かる。モラルに社会的効果を期待してもダメなのだ。そんな観点である。
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大部分の人間が犯罪を犯さないのに、その人が犯罪を犯すのであれば、責任はその人個人にあるという考え方は、(意外な比較かもしれないが)学校の教師であれば誰でも一度は考える<相対評価>と大変似ている一面をもつ。
というのは、人間集団が何かをすればパフォーマンスの悪いセグメントが一定の割合で必ず出てくる。相対評価とは、たとえば5段階評価をして最下層のセグメントは落第なり、再履修なり、何らかのペナルティを与えるという方法である。
相対評価であるから、一定の割合で必ずペナルティを課される集団が発生する。パフォーマンスが劣っているセグメントを成績評価で低く評価するのは当然のロジックでもある。一定の基準を満たさなければ学習努力が不足しているという理由で単位が認められないとしても当たり前であると皆考える。相対評価の下ではペナルティを課される学生がほぼ一定割合発生する。要するに、相対評価を採用する学校とはそういう仕組みなのであって、最下層の履修者は全体法則に従って一定の割合で発生することになる。
学校は履修成果を競う機関である(という見方も一理ある)。競争を強いることで個々の学生は勉学を強いられるので多くの学生が高いレベルに到達するようになる(という考え方がある)。学校においては必ず一定割合の学生が落第するという事実が重要なのである。
しかし、社会は学校ではない。全ての人にとって社会とはただ生きていく場に過ぎない。評価をするとすれば、相対評価ではなく、絶対評価をしなければなるまい。他の人よりもパフォーマンスが悪いというそれだけの理由で処罰するというのでは誰もが納得できないはずだ。もし処罰するなら、なぜ処罰するのか。その根拠に客観的かつ普遍的な合理性があり、かつそれが「正しい」という理由がいる。
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その「絶対的理由」について多くを語れるほど小生は考えが整理できていない。というより、考えても分かる自信がない。『なぜ自分はこんな処分を受けなければならないのか』、『なぜ自分は死ななければならないのか』、『生まれ変われるなら自分は貝になりたい』、そう思う人物は銀幕の中だけの存在であってほしい。そう願うだけである。
考えが整理できているわけではないが、一定の発生率で「犯罪」が起きる社会状況の下で、その犯罪は犯罪を犯す人物の自由意志に基づくものであるからその人物が責任を負うべき行為であると認識し、毎年一定の頻度で人に刑罰を課すとすれば、こういう状況は、まるで学校教育の中の相対評価と同じであると感じる。それを本日はメモしておきたかった。
現に落第する学生の存在が他の学生を勉学に駆り立てるのである。現に処罰される被告人の存在が他の人間に法を守らせるのである。これがソーシャル・マネジメントそのものでなければ一体何であるのだろう?
犯罪者を処罰する手続きにおいては、「正義」からの逸脱といった価値判断ではなく、社会を管理する、要するに「統治」のためのツールがそこで活用されている。それ以上でも以下でもないと、そう思うのだ、な。統計的に安定して発生する年間の犯罪に対して刑罰がルーティンとして決められている。だから、小生、相対評価をとる学校内の状態と極めて酷似していると感じたわけだ。
小生が担当した統計関係科目では毎学期ほぼコンスタントに15パーセント程度の履修者には不可をつけていた。別の授業科目では不可率が10パーセントであることもあるし、30パーセント程度の高率に上がることもある。が、授業科目、担当教員ごとに毎期の不可率はかなり安定しているのである。及第生と落第生を「善い学生」、「悪い学生」などとは認識しない。なぜなら、集団全体の成績分布はほぼ統計的に安定的であり、同じ授業を履修しても個々の学生が示す成果は色々様々であるという当たり前の事実がそこにはあるだけだ。及落の区分は学生側にあるのではなく、成績をつける教員の側にある。成績を決める教員が学生に何を求めるかによって、及落の線引きが決まるからである。
学校で及落を確定するのはヒトの行為であり、学校という社会制度はそういう仕組みをとっているということだ。同様に、社会で刑罰を課するのはヒトの行為であり、社会が定める法律によって決まることである。識別される人間集団はただ色々様々に異なり、多様に分布しているに過ぎない。善と悪に色分けされてはいない。良と不良に分かれているわけでもない。分布の中の一部分をヒトがとらえて何と呼ぶか。それだけの事である。まさに
このように観ると、「成績不可」と「刑法犯」と、この二つが驚くほど類似したロジックを共有していることが分かるような気になってくるではないか。両方ともに、毎年恒常的に発生するべくして発生している。発生するべくして発生するというからには、何かのメカニズムを表現する統計モデルによって説明されるはずである。統計モデルで説明されるということは、自由意志とは関係がなく必然性がそこにはあることになる。犯罪は人間の自由意志によるという認識では駄目だという結論になる。
ま、こういう理屈もあるわけだ。
現に落第する学生の存在が他の学生を勉学に駆り立てるのである。現に処罰される被告人の存在が他の人間に法を守らせるのである。これがソーシャル・マネジメントそのものでなければ一体何であるのだろう?
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犯罪者を処罰する手続きにおいては、「正義」からの逸脱といった価値判断ではなく、社会を管理する、要するに「統治」のためのツールがそこで活用されている。それ以上でも以下でもないと、そう思うのだ、な。統計的に安定して発生する年間の犯罪に対して刑罰がルーティンとして決められている。だから、小生、相対評価をとる学校内の状態と極めて酷似していると感じたわけだ。
小生が担当した統計関係科目では毎学期ほぼコンスタントに15パーセント程度の履修者には不可をつけていた。別の授業科目では不可率が10パーセントであることもあるし、30パーセント程度の高率に上がることもある。が、授業科目、担当教員ごとに毎期の不可率はかなり安定しているのである。及第生と落第生を「善い学生」、「悪い学生」などとは認識しない。なぜなら、集団全体の成績分布はほぼ統計的に安定的であり、同じ授業を履修しても個々の学生が示す成果は色々様々であるという当たり前の事実がそこにはあるだけだ。及落の区分は学生側にあるのではなく、成績をつける教員の側にある。成績を決める教員が学生に何を求めるかによって、及落の線引きが決まるからである。
学校で及落を確定するのはヒトの行為であり、学校という社会制度はそういう仕組みをとっているということだ。同様に、社会で刑罰を課するのはヒトの行為であり、社会が定める法律によって決まることである。識別される人間集団はただ色々様々に異なり、多様に分布しているに過ぎない。善と悪に色分けされてはいない。良と不良に分かれているわけでもない。分布の中の一部分をヒトがとらえて何と呼ぶか。それだけの事である。まさに
裁くは人、許すは神この諺は最初思うよりはずっと深い真理を含んでいる。
このように観ると、「成績不可」と「刑法犯」と、この二つが驚くほど類似したロジックを共有していることが分かるような気になってくるではないか。両方ともに、毎年恒常的に発生するべくして発生している。発生するべくして発生するというからには、何かのメカニズムを表現する統計モデルによって説明されるはずである。統計モデルで説明されるということは、自由意志とは関係がなく必然性がそこにはあることになる。犯罪は人間の自由意志によるという認識では駄目だという結論になる。
ま、こういう理屈もあるわけだ。
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「一罰百戒」。まさに文字通りの意味で法律は執行されている。本当は『一分の刑罰、九九分の戒めとなる』と言うべきだろう。ま、これなら100段階の相対評価になるが、民主主義社会でも、君主制社会でも、人間社会なら同じことである。
小生は、刑罰を課される一定比率の被告人が「悪い」から、その責任をとって処罰されるのだという考え方は、加害者‐被害者の関係の下ではそんな感情があるだろうが、他の人間を含む社会全体がそんな事実認識を持つとすれば、実に無責任な、モラルに鈍感な社会であると思うのだ。
だってそうでんしょう。他人が悪いって言ってる人は、自分は悪くないって言いたいわけでござんしょ? あっしみたいな人間、恥ずかしくってさ、言えねえヨ。大体、悪い人間ってえのは憐れなもんじゃあないんですかい?誰だって「あの人はいい人だ」って本当は言われてみたいと、思うもんですよ。「ありがとう」って云われて、「なにが有難うだ、テメエ」なんて、そんなことは言わねえもんですぜ。悪い道に落ちるってえのは、まあ、運命というしかねえが、自分でなくてよかった。アッシは運のよさに感謝してるんでさあ。この浮世で、畳の上で死ねるってことだけで、幸せものですぜ。
他人を責めるなら自分も責めるべきである。善人と悪人という区分は存在しない。夏目漱石が『こころ』の中で先生に云わせているとおりである。人はみな違う、人生はみな違う、信じられないことをする人間が出てくることがある、世間では色々な事が起きる、そんな事実があるだけだ。今後将来も人の世の中はこんな風だろう。人間社会が善人と悪人に分けられるなら、サルも善いサルと悪いサルに分けられるはずだ。ハチも善いハチと悪いハチに分けられるだろう。実にバカバカしい限りだ。バカバカしくないと考えるなら、まるでナチスのような思想だ。善悪二つに分けて考えたがるのは人間だけである。ただ毎年一定比率の人間がその人物が所属する社会によって処罰されるという事実が人間集団の特性としてあるだけである。
刑罰を課される人生を歩むのは確かに運が悪い。課されない人は幸せだ。その意味では自由意志と対立する宿命論もまた事の本質をついている・・・
今回は色々と書いた・・・マ、そういうことである、と語る観点も確かにあるであろう。
刑罰を課される人生を歩むのは確かに運が悪い。課されない人は幸せだ。その意味では自由意志と対立する宿命論もまた事の本質をついている・・・
今回は色々と書いた・・・マ、そういうことである、と語る観点も確かにあるであろう。
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