2023年1月21日土曜日

断想: 漱石の『則天去私』から「日本人にとっての悪」を考える話し

前にも書いたことがあるが、漱石の最高傑作は『明暗』だと思っている。未完であるが、どの部分をとっても素晴らしい出来栄えだ……、とはいえ、好きな作家は誰かと聞かれれば「三好達治と永井荷風」と応えて来たし、個人的に審美感に共感できる最高の天才は「谷崎潤一郎と三島由紀夫」の二人で、これはずっと変わらない。

しかし、夏目漱石の作品への親しみは少年期からずっと続いている。これはこれで自分にとってかけがえのない財産だと思っている。親しい友人を一人失っても、漱石全集があれば淋しさに堪えられるかもしれない。

その漱石が晩年に到達した《則天去私》も大変好きで、その中身を伝える言葉

明暗不二、善悪一如

も、小生にとっては自分自身の一部に化しているほどだ。仏教の

善悪不二、邪正一如

と即応している言葉であるし、この思想と

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや

という親鸞の他力思想はほとんど同じであると理解しているのだ。

それで、漱石と善悪一如について資料を探してみようとしたのだが、早速この論文に目がいった。日本人は「悪」というものをどう考えているのかについて著名な民俗学者・柳田国男がどう考察したかが主題である。読んでみたが、とても面白い。鍵になるのは、これも明治の自然主義を代表する作家・田山花袋の作品『重右衛門の最後』をどう受けとるか、である。どちらも「死」と「善悪」を扱っているが、森鴎外の『高瀬舟』とも異なった問題を読者に投げかけている。

最近、マスコミの報道ぶりを見ていると色々な分野の専門家が登場する。専門家と言ってもその人の専門分野をコメントするとは限らず、MCから振られた問いかけに何かを言う。それで専門家の意見としている。そんな塩梅だ。

まあ、それを問題視してもメディア企業にとっては「それも視聴者獲得のための戦略です」という、ただそれだけの理由であるのは分かっているから、とやかく問題視する意味はない。

ただその専門家が ― 日本あるいは海外で標準的な高等教育を受けた人物だと思われるが ― 事ごとに『これ自体は許されませんから・・・』とか『悪いことは悪いわけですから』、『被害者が批判されるのはどうかと…加害者はあちらですから』とか、他にも様々な言いようはあるが、こんな風な物言いをすることが多い。

それが、最近、小生にとっては耳障りなのだ、な。


大体、「悪い」とは何か?

時に「法的には問題はないのですけどネ……」と断りながら、「悪い」と断じたりする。法律が善悪を決めるのではないらしい。では一体、誰が、どのように「悪い」と決めるのかといえば、要するにその御仁ご自身なのである。あるいは「世間が悪いと言っている」という情況をハナから大前提に置いている。

実に、耳障りなのだ。


一般的な文化の違いとして、欧米流の思考は実にロジカルである。善悪という判断基準がある以上、善である部分集合と悪である部分集合との共通集合は"Φ"(=空集合)である。つまり、善である行為の集合と、悪である行為の集合とを併せれば、ありとあらゆるどんな行為も投網にかけるように倫理的判断ができる。かつ、善でもあり悪でもある行為は存在しない、共通部分は空集合である、こんな大前提を置いて議論するのが欧米流の明晰な議論というものだ。実にロジカルである。

そんな欧米流の思考を駆使して、かつそれが日本においても有効であると信じている御仁は、田山花袋の『重右衛門の最期』を読んでみるべきだ。

明暗不二、善悪一如

漱石が到達した晩年の心境は仏教でいう

善悪不二、邪正一如

であるのだが、それは人が善人を求めるその行為が自動的に悪人をつくっている。人間社会のそんな側面を指摘してもいるわけだ。とすれば、存在自体が悪である悪人は存在せず、社会がその人を悪人とするから悪人であるに過ぎない。人間社会はそんな「善人」と「悪人」を必ず作ってしまうのだ。こういう理屈になる。「悪人」とは何という哀れな存在であることか……、それが「業」というものだ、と考えるのが日本文化の底流を流れる仏教思想である。仏教思想は《もののあはれ》と《無常観》という日本的感性の基盤になっている。

自然の中に善悪はなく、人間がそういうラベルを付与する人為的結果が善悪という識別である。そして、その識別の仕方は時代を通して変化していく。いま「悪」だとされることも、10年後には「善」だと言われる可能性も大いにある。そんな頼りない議論が<善と悪>である。マア、こう書くと、欧米では到底レポートとして評価されないわ、な。

現実に西洋と東洋の文化は、コアの部分で相当に違う。これは日本人自身がよくわかっているはずだ。だから、欧米で主流の政策対応を日本に導入しても日本人はそれに心理的に抵抗して実行困難に陥ることがよくある。例えば、コロナ禍の中のロックダウン、成長政策としての競争促進、労働市場自由化、ソーシャル・セキュリティ・ナンバー(≒マイナンバーカード制度)等々、それから純粋な社会主義、欧米流の市民革命、中国流の易姓革命もあるか……ともかく欧米ではうまく行くが日本では消化不良になった政策は、これまでも数多く挙げられる。その原因を「日本政府の信頼性に問題があるのです」とお茶を濁す語り方が多いのだが、見当違いだ。政府の信頼性が原因ではないと思っている。そもそもが日本人は何かといえば「国が対応するべきです」とすぐ口にする。信じてもいない国に頼るはずがない。うまく行かない理由はそうではなく、欧米とは考え方が違う、日本人の思考の方式が欧米とは違う。だから欧米発の政策を全面的には選べないのである。小生はそう思っている。

やはり《和魂洋才》。日本人に馴染む政策のみを輸入して日本化して実行しているのが、歴史を通して日本がやってきた国内政治である。

とはいえ、日本の企業、メディア、官公庁、学校などオフィシャルな機関は、国際標準になっている欧米流のロジックで構築されている。テレビに出演するような人たちは、公的な規範に従うことを要請されているに違いない。が、現実の日本社会はまた違っている。これでは多くの日本人は政府やメディアのいう事に共感を感じるはずがない。感性や考え方が違うのだ。

こんな社会の《二重構造》は、日本にも韓国にも、あるいは中国にもインドにも、その社会の深部に残っているに違いない。





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