2023年1月14日土曜日

断想: センター試験・・・生産性の低い努力に支えられているのかもしれない

今日、明日と入試センター試験がある。

約10年の小役人生活のあと、大学で30年程度を過ごしたせいか、<センター試験>が来るたびに、今でも早朝から夕刻まで続く試験監督に汗を流す、というか肉体を酷使した頃の記憶がよみがえる。

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最初に経験したのは大阪にいた時分で、その頃は学生相手の授業担当とは縁のない付置研に勤務していた。それでも着任2年目だったか、3年目だったか、試験監督をしろと言われた。大阪の都心にある府立高校が試験会場だったので、前日に場所と自宅までの時間を確認したうえで、その日は早めに宅を出たものだ。

その頃は、いわゆる<台本>、つまり監督官が口頭で話す台詞も多くはなく、『監督要領』という名の冊子もそれほど分厚いものではなく、久しぶりの試験監督と言う仕事がただ懐かしく、窓の外の風景をみて時間を過ごしていても、大して退屈ではなかった。何だか自分の高校時代が思い出されたりしたのもまだ覚えている。いや、やっぱり若かったんだネエ……、と今は思う。

北海道の大学に転任してからも毎年いま時分がくるとセンター試験がやってきた。最初の新鮮さは次第に薄れていったが、それでも一室に3人の監督官がいれば、交代で30分位は試験室を出て自分の研究室に戻り休憩をとることが出来た。珈琲を喫してまた試験室に戻ると、次の人が「それじゃあ、お願いします…」と目で挨拶をして部屋を出ていったものだ。懐かしいネエ・・・

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どこかの大学だったか、試験時間を30秒だったか、1分だったか、はかり間違えたことがあった。それが契機になって、主任監督官、タイムキーパーといった風に「監督職務」を分担する体制になった。試験室ごとに交替で休憩をとる行為も厳禁になった。

ある年は『監督官が試験室内を巡回する靴音がうるさい。集中できない』といったクレームが受験生からあり、監督要領には「室内巡回は必要最小限とし、靴音がしないよう十分留意すること」という注意書きが付記されるようになった。と同時に、「不正行為には十分注意し、疑わしい行為が確認された場合は、複数の監督官が注視のうえ、不正行為が確認されたときはカードに指示を記載してから当該受験生に提示のうえ室外に誘導する事」、細かい文章は忘却したが、まあ、そんな主旨の指示が加わることになった。

英語のリスニングが試験科目になってからは人数が足りないので事務官まで試験監督を担当するようになった。

大阪で最初に手にした監督要領と比べると、最後の頃にはページ数が2倍近くまで分厚くなっていた。

覚えている中で最後に追加されたのは、北朝鮮がミサイルを発射したときの対応だ。《J-ALERT》が試験時間中に発せられた場合に、各試験室で正規の試験時間をどう平等に確保するかは、入試センターにとっても難問であったに違いない。いざアラートが発された時に、「基本的対応方針」をその場で受験生に向かって速やかに伝達する台詞を読み上げるという職務も主任監督官が担うことになった — 幸にそんな危機管理に直面することはなかったが。

以上、「たとえば」で例を挙げたが、いずれも日本における《業務改善努力》の好例であったことは間違いない。似たような対応が日本中で展開されていたのだと思う。

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おそらく、というか想像するしかないが、太平洋戦争でも帝国陸軍の参謀本部や大本営は数多くの作戦を企画しては、最前線の部隊を指揮する司令官にとるべき行動を指令したはずである。それらの<作戦>は精密かつ巧緻を極めたもので、寡兵をもって大兵を撃つという高度に理論的な内容を持っていたのだと想像する。ただ、その指令や指示は、現場の実情とは距離のある、理屈倒れのようなものも多かったのだろうナア・・・そう思ったりもするのだ、な。

何しろ日本という国の上層部には試験の秀才が集まる傾向がある。ペーパーワークにかけては特殊な才能がある人達だ。ビューロクラシーというのは文書主義であるから、まあ、当たり前でもあるのだ。

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ずっと以前に《頑張る現場とダメな上》という投稿をしたことがある。いつのことだったかと思って<頑張る現場>でブログ内検索をかけると、結構複数の投稿がかかってくるので、この問題意識はずっと底流にあったのだなあということが分かる。

そういえばこんな雑談をセンター試験当日の昼食時にしたことがある―確か、昼食時の休憩時間は45分間ではなかったか:

同僚:このセンター試験の監督、一番いやだナア、1年の中で。

小生:みな同じじゃないですか?やりがいがあると思っている人はいないでしょう。

同僚:毎年、分厚くなるね、このマニュアル(=監督要領)。

小生:「こうせよ」と指示していれば、何かあっても現場のミス。本部には責任がありませんからネ。

同僚:まあ、そんなところなんだろうネエ ^^;;

小生:役所ってところはそんな所ですよ ^^;;

同僚:「責任」かあ、僕たちはそんな「責任」を考えながら仕事をするなんてことないけどネエ・・・

「責任」というのは、「仕事」と一体のもので、意識的に逃げるものではない。仕事と責任は一体不可分だ。仕事をすれば自動的に責任が生ずる。責任から逃げるのは、仕事をした自覚がないからだ。「無関係性の主張」なのである、と。マア、理屈はこうなる。だから、上が無関係性を主張して責任を回避するのは、仕事をしているのは下で、上にいる我々は仕事をしていないという主張にもなるわけで、実に奇妙なのだ ― ホント、日本社会で言われる「責任」は「天運」といった単語にも似て意味不明なところがある。

マ、それはともかく・・・

絶対に間違いがないように膨大な指示を下しつつ、実は日本国全体のマクロの結果としては、一人当たりの実質所得が増えず、企業の生産性も上がらず、グローバル競争から落ちこぼれつつある日本……、「落ちこぼれつつある」というのは、海外で売れている人気商品が日本に輸入されると、日本人にとっては何だか高額すぎる、そんな感覚を覚える頻度が増えていることからも分かる。そのうち明治の御代に流行った《舶来品》という単語も再び日常的に使われることだろう。

どうやら《生産性の低い努力》に30年間付き合わされ続けて来たのではないか、そんな思いもする今日である。

一利を興すは一害を除くに如かず

この名言はずっと昔の投稿でも引用したことがある好きな言葉だが、入試センター試験の今昔を思い返すと、この名言、ちょっと間違っているかもしれないと思う。

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