2023年1月16日月曜日

断想: 「世論」は大事だが、「世論」で決めて行って大丈夫ですか?

遠く明治維新の幕開けを画する「五箇条の御誓文」にもあるように

広く会議をおこし、万機公論に決すべし

というのは、《民主主義》の柱で、日本史の教科書にも必ず登場する重要事項だ。つまり《世論》が非常に重要であるというのは、現代社会の原則であって、このこと自体に反対する人は日本には少ないはずである。

故に、ということだろうか・・・

日本では複数のマスコミ大手企業が定期的に内閣支持率を公表している。かと思えば、日本の防衛費増額、その財源としての増税についても世論調査を実施しているし、ついには国民民主党という一つの野党が自民党と連立して与党の一角を占めるのは是か非か。純粋に党利党略の問題といえるこんな案件についても世論調査を行っている。

これほど多くの世論調査が実施され、それが全国ニュースになるという国は(先進国、発展途上国両方を含めて)、小生は知らない。「ギャラップ調査」など世論調査発祥の国であるアメリカにおいても、世論調査結果がThe New York TimesやWall Street Journalのトップを飾るという紙面は、あまり見たことはなく、まして『FRBが進めている金利引き上げを今後も続けることに賛成ですか、反対ですか?」といったアンケート結果は見たことがない。

日本のマスメディア各社は、何故これ程まで経営資源を費やして世論調査を繰り返すのだろう?

一つは、「世論」そのものに尊重するべき重要性があると考えているからだろう。

「民主主義」の一つのツールとして、現在の世論を確認するべきだという原理・原則論は確かにある。いわゆる"Vox Populi  Vox Dei"、朝日新聞社のコラム欄『天声人語』と意訳されているこの名句が、社会哲学として尊重されるべきだというこの一点に反対する人は少ない。

ただ、どうなのだろうナア?

小生はへそ曲がりだ。当たり前の命題にはいつも反対したくなるのだ。


それほど「多数者の意見」というものを尊重するべきなのだろうか?


まず自然科学の分野だ。何度か投稿しているが、自然科学の偉大な発見、偉大な理論は、登場する前後において社会的騒動を引き起こしたことが多い。ガリレオなどは自説を撤回するよう圧力をかけられたし、ニュートンの古典力学体系もイギリスからフランスにわたった後、大陸欧州で信頼を勝ち取っていくまでには長い時間を要した。ニュートンは17世紀のイギリス人だが、"Newtonian System"がフランスで信頼に値する自然哲学として認められるには、18世紀の啓蒙哲学者(ともいえる)ヴォルテールの登場を待たねばならなかった。それまでにとても長い時間がかかっている。多数のフランス人にとってニュートンの世界観は我慢ならなかったのだろう。

自然科学の世界で「世論調査」などは何の役にも立たないというのは理解しやすい。では経済分野ならどうだろう。企業の経営戦略や政府の経済政策に「世論」、というか「多数者の意見」は大事な要素なのだろうか?

まず一つ言えると思うのは、人間集団の行為が決まってくる過程において、結果として多数者の意志や願望が大きな要素として働くのは、時代や体制を問わず、むしろ当たり前の事実である。世界史を概観するだけで多くの革命が起きている。これほど壮大な話をせずとも、代表取締役社長一人の意志がどうであっても、株主総会で反対されれば株式会社の経営方針を社長の意のままにするのは不可能である。非上場会社であっても極々少数者の独創的な発想に社内の多数者が唯々諾々と着いて行くという情況は非現実的である。まあ、「もって3年」であろう。

おそらく、ここ日本において、この30年間という長い間、確かに政府は政府なりの方針を示し政策も実施してきたが、国内世論に真っ向から反した政策を実施してきたわけではなく、そんなことは日本政府に不可能である。個々の企業においても、やってきた経営は大多数の日本人が《そうあってほしい》というプランを実施してきたに過ぎない。雇用(及び再雇用)を優先させたいが故に賃金アップは二の次になったのである。日本の大企業が余裕資金を有望分野に投資することもなく、配当に還元するわけでも、賃金アップに分配することもしないからといって、それが取締役会や株主総会で非難され継続不能になることはなかった。マスメディアもまた日本の国内企業が十分な余裕資金を留保し、《何かあった場合の対応》を可能にするための《戦略的余裕資金》とする経営戦略を容認する姿勢を保ってきた。

要するに、経済分野においても、長い期間、政府や企業がとってきた戦略は《世論》のお墨付きなのである。小生はそう思ってきた。

確かに賃金アップは望ましい。今は賃金アップで日本人の頭は一杯だ。しかし、韓国の文在寅政権が果敢な最低賃金引上げ政策に打って出たとき、その過激さが経済的には不合理であるとして、冷笑していたのは日本の世論ではなかっただろうか ― 経済戦略としては相応の意義づけが可能であったにもかかわらず、だ。

このように、経営分野、経済分野においても、日本では多数者の意志が十分に反映されてきており、決して「世論」に抗して経済政策や経営戦略が実行されてきたわけではない。そして、その結果として、停滞が著しい足元の日本経済が帰結している。そう思っているのだ、な。

その程度の《世論》なる存在が、こと外交政策、防衛政策については実に賢明かつ的確な判断を示すだろうか?

経営分野、経済分野で示されてきたレベルを観察すれば、政治分野においても《国内世論》が下しうる判断能力など、(言い方は悪いが)たかが知れたものである。こう達観するのが公平な見方である。

だから、小生は相当以前になるが、

Vox Populi, Vox Diaboli

(人々の声は悪魔の声)

こんな見方も可能であると投稿したことがある。


《世論》に反して「正しい方策」を提案する少数の人々は常に存在する。《一流の人物》は二流、三流の人物よりも遥かに少ない。故に、愚論は多く、正論は少ない。このことも投稿したことがある。

こんな当たり前のことは、ずっと昔から、人類は承知していたはずである。承知しているはずの社会の実相に目を向けられないのは、イデオロギーで盲目になっているからだ。

世論はなるほど大切である。しかし、すべての重要な問題について常に《世論》は何かと報道するメディアの姿勢は、正論をしりぞけ愚論を優先させるという意味で、文字通りの《愚策》を選ばせる確率が高い。

民主主義は大切にしなければならない。しかしながら《杓子定規》に祭り上げるのは愚かである。そういうことだ。

寧ろ、集団的意思決定は世論、つまり多数者の意見ではなく、少数の《一流の提案》から《一流の人物》が最適解を選ぶ、そんな形でなされるべきである。結果としてより高い国益を求めるなら、これが理屈だろうと思うのだ、な。

つまり、目標が《結果としての最大多数者の幸福》に置かれているなら、その社会は民主主義である。天皇や皇室の安泰ではなく、日本人全体の幸福を追求するならば、それは民主主義なのだ。これが小生の最近の立場である。


ワールドカップで勝利するには、才能あるプレーヤーを集めることが大事だが、それが出来る監督、つまりトップが何よりも大事になる。こんな理屈は誰もが知っている事であり、現場の人間だけで問題が解決できるなら、野球やサッカーで監督は要らないという理屈になる。

《組織的対応》は何によらず「問題解決」で決定的に重要な要素(の一つ)である。


0 件のコメント: