2023年12月8日金曜日

断想: 千年前の近代的小説を読む

古文の授業では必ず『源氏物語』(の断片)が教科書に登場する。そこでは「もののあわれは日本文化の粋と言えるでしょう」とか、「世界最古の長編小説」だなどと説明されるのであるが、実際に全編を通して読む人は極めて少ない。文庫本で5冊だ。瀬戸内寂聴の訳本なら全10巻になる。ディケンズの小説並みの長さである。

原文で読み通した人は、多分、小生の知り合いの中には一人もいない(と思っている)。というか、紫式部が書いた平安期・宮中の日本語は、同じ日常を送っていて分かる人には何を指しているか、その暗喩が分かるという女房言葉で、現代日本人にはもはや本当の意味では理解できない言葉になっている、というのが事実認識としては正しい。

ただ『日本人なら人生で一度は源氏物語を最初から最後まで読むべきだ」という人がいたので、谷崎潤一郎訳と瀬戸内寂聴訳の現代日本語版とKindle Unlimitedで提供されている原文を読み合わせながら、全編を読み通したのが今年の夏だった。

一言で言うなら

なるほど、日本人なら一度は読む方がよい

確かにそう言える。

例えば、夏目漱石の『明暗』は『源氏物語』があればなくてもいいかもしれない。志賀直哉の『暗夜行路』もなくてもいい、と言えるかもしれない。三島由紀夫の『豊饒の海―春の雪』も敢えて読まなくともよいだろう。

この位は言って差し支えはないと感じたから、やはりもっと早く読むべきであった、ということか。


『蛍』の帖にこんな下りがある。谷崎訳で引用すると:

・・・随分世の中には話し上手がいるものですね。大方こんな物語は、嘘を巧くつき馴れている人の口から出るのだと思いますが、そうでもないのでしょうかしら・・・わたくしなどは一途に本当のことと思うばかりでございます。

これは無風流な悪口を言ってしまいました。いや、ほんとうは、神代からあった出来事を記しておいたものなのでしょう。日本紀などはただ片端を述べているので、実はこれらの物語にこそ、詳しいことが道理正しく書いてあるのでしょうね。

一体物語というものは、・・・ありのままに写すのではありませんが、いいことでも悪いことでも、世間にある人の有様で、見るにも見飽きず、聞いてもそのままにしておけない、後の世までも伝えさせたいことのふしぶしを、・・・書き留めておいたのが始まりなのですね。・・・それらを一途に根なしごとだと言いきってしまうのも、事実と違うことになります。

まさに現代社会にも通じる

歴史から事実が分かるか、小説から事実が分かるか

という問題を、千年前の女流作家が考えて、意見を述べている。

いや驚きです。


確かに、歴史そのものは史料から確認された《事実》だけから構成されている。その事実の意味するところを歴史を専門とする学者は研究したり、議論をしている。一方、歴史を舞台にした歴史小説、つまり物語はフィクションである。故に、歴史が事実であり、小説は嘘である、というのがロジカルな結論であるが、本当にそう言えるのか、という意見である。

《人間性》というのは、結局、変わらないものであると考えるのであれば、

こんな時、こんな状況に置かれれば、人はこんな物言いをして、こんな行動をする

そういう認識で、語り伝えたいことがあるとすれば、その語り伝えられた非歴史的な作品こそ、むしろ断片的な事実だけを並べた歴史よりは、人間社会の道理を正しく描写しているのだという認識は、まったくの嘘というわけではない。


不倫もあれば、失恋もある、マザー・コンプレックスもある。三角関係、五角関係もある。コミュニケーション・ギャップもある。裏切りもある。格差社会の悲劇もある。意識の流れを表現している点では、マルセル・プルーストの近代小説『失われた時を求めて』にも似ているところがある。

千年前の小説と侮るのは間違いだ。違うのは生活習慣だけである。


それにしても千年という時間の長さは感覚的にピンと来ない。徳川家康が関ヶ原に勝った1600年の更に600年前。源頼朝が鎌倉幕府を開く更に200年前である。2023年の200年前は1823年。まだ黒船は来航せず、日本人は徳川幕府の下で文化文政時代の町人文化を栄えさせて浮かれ騒いでいた。200年ですらとても長い時間である。



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