(統計統計ではなく)「経済学」の元祖と言えばアダム・スミスというのが大方の合意だ。そのアダム・スミスの主著『国富論』は、要するに《経済成長》について考察した著書である。経済成長だから基本的にゼロサム的でなくウィンウィンの関係が全体を通して主たるトーンになっている。冒頭で《分業》が論じられている何ページかは極めて有名だ。そこでは、分業なき場合の低生産性、分業を導入した後の高生産性が、ピンの製造を例にして分かりやすく論じられている。
ピン製造の職業訓練を受けた事もない普通の職人が作るなら、1日かけてせいぜいピン1本作れるのがせいぜいだろう。これを針金の圧延、整形、切断等々と18の工程に分割し、各工程を専門とする職人たちが共同して製造するなら10人の職人チームが1日で48,000本のピンを製造できる。一人当たりで言えば、4,800本である。実に、分業によって労働生産性は4800倍になる。そういう議論である。
分業の効果、言い換えると《役割分担》、《組織化》という言葉になるが、こうした議論から始める所が、いかにもイギリス的である、というよりもっと広い意味でヨーロッパ文明の薫りを感じさせる所であると思う。
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小生もずいぶん長く職業生活を送ったが、全体を振り返ると
好きな事をやってきた
という、この一語に尽きるように思うのは、文字通り慚愧の至りであり、周りの同僚達にもずいぶん(意図したわけではないが)迷惑をかけていたに違いない。
ただ、釈明では決してないのだが、自分の好きな事、やりたい事を合計時間でどのくらい長く出来ただろうかと振り返ると、実は驚くほどに短い時間である。
ある年は、「学科長」といえば聞こえはいいが、学科内共通の利益に奉仕する仕事を担当した。時には、学生全体の利益に奉仕するためのカリキュラム改正の審議に参加して長大な時間を消費した。またある年は、大学組織全体の将来構想を議論したり、制度改正検討で時間を使った。そして、これらは決して小生の好きな事、やりたい事ではなかったわけである。
確かに基本的な分業体制はできている(とも言える)。そもそも教員は担当する科目が決まっている、というか最初から特定科目の担当として公募を行い、それに応じた人材から選抜した人が任用される。教学と事務が区分されている点も分業の一環である。
とはいえ、小生の経験を回顧すると、(事務部門も含めた)学内運営の総合調整や地域連携、高大連携は全学共通業務として取り組んでおり、結局は「分業」と言っても教員ごとに担当科目が決まっているという以外にそれを超える程の役割分担はしていない、と。そう割り切っても間違いではあるまい。大体、職階である「教授」と「准教授」の間に明確な担当業務の違いは設けられていないのが通常だ。事務部門になると更に一層「非分業的」で、この辺りは日本の官公庁、および(ひょっとすると)大半の民間企業と共通しているのではないだろうか。
要するに、組織の付加価値を生産するための仕組みにおいて、人的資源、資本設備、知的資産など様々のリソースがemployされるが、こと人的資源の配置で個々人の果たすべきファンクション(=機能)が明確に決まってはいない。
こういう意味で、日本の生産組織は決して高度の分業を行ってはいないと思っているのだ、な。非スミス的である。
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例え話で言うと、
ヨーロッパ、アメリカは、頭脳の働きを担う人、手足・筋肉など運動機能を担う人、消化器の役割を担当する人、循環機能を支える人、等々と予めモデル化されたファンクション(=機能)を担うべき人材を必要量だけパーツとして組み合わせ、1個の《有機体》を構成する、こんな風に発想する。他方、日本社会は(極端に言えば)《iPS細胞》のように分化以前のマンパワーが多数集合して組織が自然発生する。そういう組織文化が支配的でないか。
そんな印象がある。よく日本的組織は、アメーバ的であるとか、多足生物に似ていると形容されるが、分業と役割分担が硬質でなく、軟度が高いという意味でそう言われているのだろうと思うし、それはまた小生の経験とも合致している。むしろ「仕事が属人化するのは避けるべき状態だ」という意見が多くの人の賛同を得たりしている。
これに対して、《国家有機体説》はプラトンの『国家』以来のヨーロッパ的思想の一つであるが、現在も同じ薫りを感じ取ることが出来るのだ。
最近流行の《ジョブ型雇用》は極めて西洋的な職業感覚から発するものだ。他方、日本的雇用で伝統的な《新卒一括採用》は優秀なiPS細胞を集める努力に相当するのかもしれない。配属された先で自分の果たすべき役割を認識し、そこでsection-specificな細胞に成長して、有用な人的資源になってくれるという期待がそこにはある。リソースたるヒトを細胞分化する以前の《iPS細胞》と認識するか、有機体たる組織に細胞として機能するべきパーツと認識するか、同じヒトをどう観るかでも大きな違いがある。
ジョブ型雇用を ― 形式上、雇用契約ではないはずだが ― 最も明確に認識している日本国内の管理者はプロ野球球団のGMもしくは監督、そして選手たちであるに違いない。この意味でも野球は最もアメリカ的なスポーツである。
そもそも賃金は特定のジョブごとに評価があり給付されうるものだ。果たしているファンクション(=機能)が不確定なまま、その人の評価だけが先にあるのは、何だか鎌倉以来の御恩奉公の人間関係をすら連想させるもので、可笑しな話だ。
《人材》という言葉をどう定義づけ、生産現場にどう具体的に落とし込んでいくのか、この問いかけは、《分業》という言葉にどのような共感を感じるか、という点に帰着するような気がする。
《職業観》という次元においても、日本と西洋には越えがたい溝があるようだ。
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