2024年1月8日月曜日

ホンノ一言: 民主主義社会の政治家と現場について

同じ「自然災害」と括ってみても、一つ一つの災害はそれぞれの個性をもっている。季節、地理的条件、地形、住民分布、職業分布、年齢分布等々、全て異なっており、同型の自然災害などは決してない。故に、災害対応にオールマイティのマニュアルなどは存在しない。現場をみて、その都度、最適対応するしかない理屈だ。この点は以前にも投稿したことがある。

今回の能登半島大地震でも色々な批判がある。中でも多い指摘は『対応が遅い』というものだ。指摘に対して、政府側から反論が出ているのもいつもと同じである。

例えば、こんな指摘がある:

地震の被害、津波の被害が日々伝えられているが、なぜ、全貌把握がこれほどまでに遅いのか疑問だ。能登半島西の輪島市中心部から、東の珠洲市までわずか40〜50キロメートルだ。元旦の夜に衛星から見れば停電の状況はすぐに把握できたはずだし、2日朝からヘリコプターやドローン・飛行機で上空から調べれば、道路の寸断状況を含めて被害状況は把握できたはずだ。

対応が遅いという以前に「被害の全貌把握が遅い」という点は多くの日本人が感じていたことと思われ、上の見方も「その通り!」と多くの人が同意するのだと思う。

更に

危機管理において、正月休みだったという言い訳は通用しない。もし、これが外国からの侵略であった場合と考えると背筋が凍る思いだし、あまりにも危機意識に欠けていると言わざるを得ない。非常事態の人員確保、救援物資の輸送などのマニュアルが何もなかったのかとさえ思わせるような状況だ。シビリアンコントロールは必要だが、コントロールできる有能な人材があっての話だし、コントロールできる人材がいないような体制ならば、すべて自衛隊に任せればいいのではと思ってしまう。

緊急事態においては、指揮命令系統の一本化が極めて重要だ。東日本大震災時の初動の遅れはまさに未熟な政権幹部のドタバタの反映だった。

Source:アゴラ AGORA 言論プラットフォーム 

Date: 2024-01-07 06:25

Author: 中村祐輔

URL: https://agora-web.jp/archives/240106041634.html

現在の日本におけるシビリアン・コントロールそのものに対する不安も述べられている。

これに対して、

  1. 対応を困難にした要因の一つが被災地の地理的な特性だ。自衛隊幹部は「陸の孤島と言われている半島での未曽有の震災。一番起きてほしくない場所で起こった」と。
  2. 熊本に比べ、能登半島には規模の大きな自衛隊の拠点がないという事情もある。熊本市には南九州全体を管轄する陸上自衛隊第8師団の司令部があり、1万人超の隊員が常駐している一方で、能登半島には航空自衛隊のレーダーサイトしかない。

防衛省からは(メディアを通して)こういう釈明がされている。

Source: 毎日新聞

Date: 2024/1/7 12:18(最終更新 1/7 17:48)

これは自衛隊に限った話だが、人口希薄な半島地域で壊滅的な災害が発生すれば、救助活動は困難を極めるだろうことは、容易に想像できることだ。例えば、北海道の積丹半島で震度7の大地震が発生し、道路も破損、寸断されれば、美国町、積丹町、更には原発がある泊村にどのように人や物資を運べばよいのか、担当者は大いに悩むに違いない。それも厳冬期に発生すれば猶更である。

ただ、たとえそのような困難な状況においても何とかして突破するための技術とルーティンは、やはり現場組織は持っているのだと思う。要は、具体的作戦行動にどうつなげていけるかだ。その行動計画策定の指導を担当せよと言われても、これはもう、素人に求めても無理な注文だ。出来ることと出来ない事は現場の組織が最も分かっているはずで、こんな当たり前のことはどんな製造メーカーの経営者だって分かっている。

シビリアン・コントロールとは、それ自体が大切であるわけではない。現場のプロフェッショナルを運用できるに十分な能力がある指導者が民主的手続きで選ばれているなら、その指導者にプロが従う方が公益に適うという思想から発している考え方で、これ自体に反対する気分は何らもっていない。

但し、

上がダメなら、下に任せるほうが良いに決まっている。

日本で武家政治が定着した理由は、本来の為政者である天皇と朝廷・公家集団が社会の変化に適応できず統治能力を失ったからである、というのは新井白石が『読史余論』で述べているとおりだ。

足利尊氏が朝廷軍に一敗した後、西国で戦力を再編成して都に攻め上ってきたとき、現場で戦う武士(=楠木正成)の提案を素人の公家が却下したことが朝廷側の敗因であった。そして日本というお国柄は、いつだってこうなる傾向があるのだ。この点もコロナ禍の最初に投稿したことがある。

ただ、一口に「下にまかせればよい」と言ってトップが安楽に寝てしまうと、下には下で地方自治の県や市町村があり、警察も自治体警察、消防も自治体組織である。それぞれの組織が割拠して、内紛が生じれば、救助どころか救助の足を引っ張るだけだ。「総司令官」が必要な理由はここにある。

日本国においては、自衛隊の最高司令官は総理大臣であるから、今回のような大災害に対応する際も「最高の指揮監督権」は岸田首相に属するという規定だ。願わくば、応仁の乱以降の足利将軍のような弱体将軍とは違い、指示すべき事は指示する、任せるべき事は任せる、そんなトップであってほしいものだ。

ちなみに、日中戦争から太平洋戦争にかけての「15年戦争」の時代、国際外交や国内政治には素人の軍人たちに全面的信用を置いたことが、その後の破滅的敗戦につながったことは明らかな事実だろう。では、その時代の日本人はなぜ軍人たちを信用したのかと言えば、あまりに腐敗した政党政治家に嫌気がさしていたからだ。その気分に乗っかる学者や扇動的ジャーナリストに耳を傾けたからだ。(権力には執着するが)カネには淡白な軍人が清潔に見えた。こんな世間の流れが日本を軍国主義へと変えていったのだろうと想像している。


要は、

自分の熟知していないことに口は出さない方が良い結果につながる。また下手な口出しをしている人物を決して信用しない。

これが民主主義社会においては鉄則なのだろうと思う。 

表現の自由、信条の自由、思想の自由は確かにあるが、社会で信用されるか否かはまた別の事である。信用に値するのは、単なる弁舌ではなく、学識と経験、つまりは実力だ。信用を得るには長い自己修練が必要で、これまた当たり前のことである。

そんな良質で有能な人間集団を育成し、組織として活用するのが民主主義国家の政治の本質であると思う。だから、選挙で選ばれた素人である政治家の為すべき事は、解決するべき問題を提示し

こうしてほしい

という基本的希望を作業目標として付与することで、それで必要十分というものだろうというのが、最近の小生の立場だ。これ即ち、シビリアン・コントロールだと思う。

戦前期・日本は明らかに民主主義的でなかったというのは、こういった側面を指して言われることだと思う。と同時に、戦前期・日本が民主主義的でなかったという点について、日本人はまだなおそこに問題があったと、徹底して理解しているとは言えないような気がしている。《失敗の検証》が必要なのは航空機事故だけではない。「敗戦」は日本史上最大の失敗である。その原因、問題点の洗い出しについては、まだまだ徹底した検証の余地が残っている。

【加筆修正】2024-01-09


0 件のコメント: