2024年1月25日木曜日

断想: 五木寛之『百寺巡礼 奈良』に想う

小生は『一寸先は闇』という表現が大好きである。カミさんも同じ感性をもっている。というのは、カミさんが大学2年であった秋、父親がテニスに興じている最中に急逝したからだ。

楽しんでいる直後に物事って突然暗転するよネ

という会話をもう何遍繰り返してきただろう。カミさんの母親は癌で病身であったため大学をやめて帰郷したのだが、その母も間もなく亡くなった。実に人生というのは無常である。小生と出会ったのはその後である。

数日前の投稿でも『一寸先は闇』と書いた ― これが何回目になるか数えた事はないが。この元日に能登半島を襲った大地震と津波の被災者は、この世の『一寸先は闇」であることを改めて思い知らされたと、小生がここで書くのは余りに気の毒というものだ。

五木寛之の『百寺巡礼』は長いシリーズになっているが、今春に旅行を予定していることもあって、第1巻「奈良」を読んでいる。

五木寛之はそれほど多くの作品を読んできたわけではない。高校生の頃に『さらばモスクワ愚連隊』を読んでいるクラスメートがいて、小生も読み始めたのだが完読したのか、中途で放棄したのか、まったく記憶していないのだ、な。もちろん筋立ても覚えていない。多分、その時の自分には波長が合わなかったのだろうと思う。

その後、他力本願の浄土信仰について作品を発表していることは分かっていたが、若い時の感想もあって、読んだことはなかった。

久しぶりに作品を読んだのだが、ずいぶん好い風に枯れているナアと、感じた。そこでも上に書いた

私たちの一生は『一寸先は闇』である。

と書いてある。それで、へえ~っと思った次第。

生と死はつねに背中合わせにある。

まさにその通り、だ。

結局、宗教というものは、現実とは反対の「あの世」のことだ。それを神の国というか、仏の浄土というかは大した問題ではない。…現実というものは目に見える「この世」だけでは成り立たない、という真実である。

五木寛之は「非現実の世界」という言葉を使っているが、要するに「超越的世界」のことであり、「彼岸」という言葉と同じ意味になる。

私たちが生きている「世界」には超越的世界は存在しないものと考えて、現実から非現実を切り落とし、測定可能な対象のみで認識というものを考える「科学的世界観」を信仰する人がほぼ大半を占めるのが戦後日本の特徴だ。特徴というより、科学的世界観以外の世界観を採るべきではないというイデオロギーで意識統一しようという社会的努力を続けている、と言う方が正しいのかもしれない。

五木寛之は、しかし日本人の現実は必ずしも科学的世界観で意識がまるごと染め上げられているわけではないと指摘している。

そもそも

そんな科学的世界観は貧しい

と五木は言いたげである。世界観として貧しいというのは、人々を幸福にしないという意味だ。人間にとって究極の価値とは、真理でも正義でもなく、幸福だろうと小生は思うのだ、な。豊かでも幸福ではない。だから、である。

小生も社会科学から入ったので、若い時からとても唯物論的な思考をしてきた。その世界観と浄土信仰がどう両立するのかが分からなかった。互いに矛盾するようにも感じられてきた。が、最近になって認識論の上で両者が必ずしも矛盾すると考える必要はないということに気が付いた。何度か投稿もした(最近ではこれ)。

故に、五木寛之の『百寺巡礼』は小生にはとても分かりやすい。

今年は大河ドラマの影響もあって「初瀬参り」が人気を呼ぶかもしれない。奈良では長谷寺にも足を延ばして御朱印状をもらって帰ろう。


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