2024年1月27日土曜日

断想: 「お任せ民主主義」は民主主義の終わりの始まりであるかも

日本の民主主義の歴史は短い。民主主義自体が、日本にとっては輸入文化である。

戦後日本も80年程が過ぎたいま、際立って目立つようになったのは<お任せ民主主義>という現代日本社会の特質ではないだろうか?

実は、明治維新直後に福沢諭吉は、『学問のすすめ』の中で士族以外の人たちに蔓延する「お客様気分」を批判している。旧幕時代は、朝廷、公家以下、農民、町人に至るまで、大事な事柄を武士にお任せする「お任せ封建社会」であったので、その惰性を批判したのである。そして『一身独立して、一国独立す』という大前提を何より強調した。自立自助のスピリットが何よりも大事だとしたわけだ。

自立自助のスピリットと「お任せ」依存ですませる気分とは、まさに正反対にあるメンタリティだ。理屈はそうなる。その「お任せ」依存が日本社会にはずっと継承されていて、日本人の体質になっているのかもしれない。最近、そう感じることが多いのだ、ナ。

実は、同じような問題意識は、またまた五木寛之だが『他力』の中の59節「問題は委任社会になったこと」でも述べられている。これを最近になって発見した時は、いささか驚いたものだ。

子供の教育に関しては、学校と先生にお任せする。そして、何か問題が起きたりすると、学校と先生に文句を言う。・・・学費は払っているし、国の税金は納めているから当然だという考えです。

個人の資産運用、財政の問題は銀行や政府に任せる。税金の使い道も役所に任せる。公的介護や福祉については、官僚に任せる。

・・・このように「任せる」ということは、自助努力というものを放棄する傾向につながっていきます。

そう。正に

Heaven helps those who help themselves.

天は自ら援くる者を援く

努力を怠る人を助ける人がいるはずがない、という当たり前の鉄則が(西洋民主社会の)歴史を通してあった。ところが、近年は色々な事で歴史に対するリスペクトを軽侮する風潮が高まって来ている。保守的な小生は、ここに危機感を覚えるのだ、な。

「自助努力」・・・小生は、実にその通りだと同感したのだが、「自己責任」という言葉に対する日本社会の根強い反感を想うと、意外と同感する人は少数派なのかもしれない。そういえば、国内メディアも何か問題が起きると、

ここは国が前面に出て役割を発揮していかなければダメだと思うんですよね

と堂々と発言する。そうして、国の仕事はどんどん増えて、増税へとつながる(理屈になる)。

小生が、同じように感じていたことを列挙すると

  • 納税は源泉徴収で会社にお任せ。
  • サラリーマンでなければ税理士にお任せ。
  • 政治は「万年与党」たる自民党(と公明党)にお任せ。
  • 情報はマスメディアにお任せ。
  • 国会議員は会計を会計担当にお任せ。
  • 業界団体に会費を払って、あとの寄付行為は団体にお任せ。
  • 子供のしつけと教育は学校にお任せ。

・・・もうキリがないというものです。

『ヒトの善意を信じてますから』と言えば筋は通るし、日本国憲法の前文にあるように

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

諸国民の公正と信義に信頼して、自らの安全と生存を期待してもよいわけである。


しかし、現実はどうか?

客観的な事実を虚心坦懐に観察するべきだろう。それがPDCAサイクルというものだ。


この問いかけに迫られるとき、

面倒な事はしたくはないし、忙しいので、そんな時間も暇もない。そもそも人に任せるのが何故いけないので?

こう思う人も多いかもしれない。「分業」は近代社会のエッセンスである。


ちなみに、アメリカでも所得税等の源泉徴収はあるが年末調整はないので各自が確定申告をすることが必要である。そうしないと還付税を受け取れない。

確定申告をすることで「納税感覚」なるものを具体的に体感できる、と言うのは最近になって分かった事だ。

自民党(と公明党)が万年与党となる体制が「自然状態」であると感じる心理があるからこそ、おかしな資金調達に応じる気分にもなる。使途を確かめる意志も持たなくなる。

税理士を信じれば、税理士の不正に気が付かない。

学校を信じれば、いじめの隠蔽にも気が付かない。

マスメディアを信じれば、自社都合の情報隠ぺいを見逃してしまう。

業界団体の幹部を信じれば、どの政治団体の政治資金パーティ券をどの位購入するか、いっさい無関心になる。

・・・

次々に露見している戦後日本の民主主義の不祥事は、民主主義を支えるはずの普通の日本人の《お任せ体質》にある。

そう思うようになっているのですね。

上に列挙した事は、本来は各自自分で行うべき「雑用」である。

  • 納税額は本来は自分で計算するべきだ。
  • フリーランサーも自分で確定申告書を作成するべきだ。
  • 「万年与党」たる自民党(と公明党)に任せず、新しい立候補者を育てるべきだ。
  • 情報が信じられるか、自分で調べるべきだ。
  • 国会議員は会計を自分でチェックするべきだ。
  • 業界団体の会計は自社でチェックするべきだ。
  • 子供のしつけと教育は親権をもつ親と地域社会が連携しながら自分で行うべきだ。
こういう<雑務>を効率化することにこそ、最近のデジタル技術の役割があるわけだ。

民主主義社会の理想を古代ギリシアの都市国家・アテネに求める意見は多い。古代アテネは奴隷が市民権を持たない点では近代社会と違うが、兵役の義務を負う(からこそ、でもあるが)アテネ市民は平等の投票権をもっていて、重要事項は市民全体が参加する民会で決められた。即ち《直接民主主義》である。裁判もまた、市民が裁判官となる《民衆裁判》であった。

君主政治、貴族政治に比べれば、民主主義は国民が面倒な雑務を引き受けなければならない。数多い選挙で投票をするのもその一つだ。君主や貴族がカネで雇う「傭兵」や「官僚」に「お任せ」するのではなく、国民が自分自身で国防に当たらなければならない。リスクの負担である。覚悟がいる。これはデジタル技術ではカバーできない。しかし、ここに「民主主義」の元々の意味があるのではないか。

《お任せ民主主義》は、超長期的には選ばれた指導層による政治へと社会が変容していく一里塚であると思う。

面倒で大きなことは、上の誰かに「お任せ」したい。危ない事なら、なおさらお任せしたい。保護されたい。指示を待っていたい。そして自らは「家来」、というか「平民」のような役回りを担当して、安穏に暮らしを立てていく方が、ずっと気楽である。心配事が減る。それが賢明というものだ。当たっていないだろうか?もし当たっているなら、すでに民主主義から自然に離れようとしている兆しだと思う。

民主主義を選択することは、一見するより、合理的ではなく、むしろ非合理的な情熱に動機づけられるものかもしれない。



君主制にせよ寡頭制、貴族制にせよ、社会の指導層には高いモラルが求められる。しかし、圧倒的多数の「平民層」のお任せ体質、お客様気分を変えて、広く自立自助の精神を育てる努力を続けるとして、果たして現代日本で実を結ぶのだろうか?むしろ相対的に少数の一流の人材を育て、彼らが高いモラルと責任意識を保持することに努力する方が、理に適うのではないか?

そんな風にも思えたりするのだ、な。

古代ローマは数百年続いた共和制を放棄し、君主を抱く帝国へと変容したことで、統一された国として長い寿命を保った。貴族層は、ストア哲学に錬磨され、名誉と責任意識を保持し、広大な帝国を運営する上で(時に権力闘争が続き不安定な時代があったにしても)信頼感を保つことが出来た。


見ようによっては
伝統的日本社会への回帰
そんな道筋を日本が辿っていく可能性はゼロではないと想像している。それでもなお、戦後日本体制は
アメリカ+天皇+保守勢力(≒自民党、今は?)
の三本柱で成立していると観ているので、(当分の間?)社会の安定は維持されるだろう。



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