2024年3月14日木曜日

感想: 経済学初学者のためのベストワンの参考書?

随分以前 ― といっても昨年の事だが ― 著名な経済学者であるGregory Mankiwが推薦する経済学初学者のための参考書ベスト5がWall Street Journalに載っていた。そのベスト1はRobert L. Heilbronerの"The Worldly Philosophers"だった。日本語訳は『入門経済思想史 世俗の思想家たち』というタイトルで「ちくま学芸文庫」として刊行されている ― タイトルは余り良いものではないが、本文は読みやすい。ちなみに、そのベスト5というのは、

  1. Robert L. Heilbroner (1953), "The Worldly Philosophers"
  2. Milton Friedman (1962), "Capitalism and Freedom"
  3. Arthur M. Okun (1975), "Equality and Efficiency"
  4. Charles Wheelan (2002), "Naked Economics"
  5. Yoram Bauman and Grady Klein (2010), "The Cartoon Introduction to Economics, Vol. I

小生が学生の頃は、とにかくSamuelsonの"Economics"(=『経済学』)を読めというので、「あんな大部の本を読まないといけないのに、ハイルブローナーなんて読めるか」という感じで、一寸拾い読みをしただけで放擲してしまったことがある。というより、経済学の初学者から読むと、人物列伝でもなく、とにかく「面白くなかった」、ただそれだけであった。

そんな経験をしたのだが、マンキューが今でも

 For several years, I have been teaching a freshman seminar at Harvard. I always start with this book, and the students always love it. Most economics books are bloodless. They give us ideas, but the thinkers who first advanced them often fade into the background. Not so in “The Worldly Philosophers.” For Robert Heilbroner, economic ideas are intertwined with the passions of economic scholars and the historic circumstances in which they found themselves. He starts with the premise that “he who enlists a man’s mind wields a power even greater than the sword or scepter.” He then tells us about Adam Smith, Thomas Malthus, David Ricardo, Karl Marx, John Maynard Keynes and many others. 

フレッシュマンに対するセミナーでこの本を使い続けているというから、「そんなに良かったか?」と、改めて読み直してみたのだ、な。

ちなみに、本書はアダム・スミスの前に「経済の革命―市場システムの登場」という章を置いている。 そう言えば、学生時代の最初に手にとった時は、学説史の参考書だと思い込み(それはそうなのであるが)、特に有名な、例えばスミスやマルクス、ケインズ辺りを拾い読みしたのであった。

一冊の本というのは「拾い読み」するものではない。最初から順に読み通してこそ、著者が伝えたい本質が明瞭に伝わるものである。これを痛感したのが、第一の収穫だ。


順に読み通してくると、ヴェブレン、ケインズと来て、個人の学説としてはシュンペーターが最終となる。最終章は「世俗の思想の終わり?」という疑問形のタイトルが付けられている。

経済学をある程度勉強した人が本書を読むと、誰でも感じるのはメンガ-、ジェボンズ、ワルラスによる『限界革命』の意義が無視と言えるほどに軽視されているのは何故だろうかという点だ。ワルラスの一般均衡理論の重要性に至っては「完無視」と言ってもよい程でチョットした驚きである。ケインズの師匠である大経済学者・マーシャルに対して、冷淡とも言える姿勢を示しているのも、そこから来ているのだろう。つまり、経済学は市場による価格決定について説明すれば、その役割は果たせるのだ、と。価格が決定されるプロセスの中で需要と供給の均衡も自動的に実現される、むしろ需要と供給の均衡がいかに達成されるかが重要で、価格はその結果として形成されるのだ、と。(故に)政府は市場による価格調整メカニズムに決して介入してはならないのだ、と。政府が努力するべきことは、市場における競争を守ることである、と。このような経済学観に対して非常に冷淡であるのがハイルブローナーの特質である。これは全体を読み通せば、自然と伝わるはずであって、これが「本を理解する」ということだとすれば、拾い読みでは決して本質的理解には到達しないわけである。

上のような経済学観を基礎に置けば、マルクスに対する意外に暖かい目線も分かるし、ヴェブレン評もそうだ。シュンペーターで締めくくっていることもハイルブローナーにとっては自然な順序だったのだろう。

とすれば、最終章においてこう書かれているのも、自然な帰結である。

経済学が数学化したことは顕著で、・・・数学は今日では経済学に浸透し、形式化を推し進め、その好まれる表現様式となっているのだが、といって経済学を数学と混同する人など現実には存在しない。より深く、私の心中においてより重要な変化であるのは、経済学の(実際に真髄であるような)ヴィジョンとして、新たな概念がますます姿を現すようになったことであり、と同時に別のはるかに古い概念が姿を消しつつあることだ。その新たなヴィジョンが「科学」であり、消え去りつつあるヴィジョンが「資本主義」なのである。

この下りを読むと、ハイルブローナーが"Worldly Philosophers"と呼んだ人たちが何を訴えた人たちであったのかが、よく分かる。純機械的に言えば、日本語訳の「世俗の思想」は英語の"Worldly Philosophy"という対応関係になるが、これを更にドイツ語に機械的に変換すれば"Weltanschauung"が最も近い言葉だ。つまり日本語では「世界観」という言葉に近く、英語の"World View"よりはもう少し深い「世界哲学」、「世界理論」、マア、この辺のイメージでとらえれば、言葉の意味としては正確になると思う。"Worldly"を「世俗の」と訳するよりは、「世間の」という方が小生は好きであるし、「世間の」というとき「世界の」という言葉を日本人は普通に使っている。だから「世界観」という言葉がオリジナルのニュアンスに近くなると思う。つまり「ヴィジョン」である。

「資本主義」という概念は、世界哲学から誕生した概念なのであるが、そのような概念は現代経済学から消え去りつつあり、もっとメカニカルに経済現象をみる、即ち経済現象を科学的に解析することが経済学の役割である、と。そんな風に変わって来た、と。

そういうことをハイルブローナーは言いたいようで、だからこそ

19世紀ないし20世紀初期のそれに匹敵するほど有用たらんとするならば、それは深められ、広げられる必要があるだろうし、とりわけ今日われわれが手にしている干からびた残りかすのような経済学とは比較されねばならない。 ・・・本書は未来の世俗の思想(≒世界哲学)の希望に満ちたヴィジョンにささげられているのである。

こんな風に結ぶことにもなるわけだ。たとえ書いていることが「学説史」であっても、本書はハイルブローナー(というか、他の誰でも同じ理屈だが)が書いた「その人にとっての学説史」である。とはいえ、「これを1950年代という時代によく書けましたネ?」という感嘆は小生も感じているわけで、だからこそ、混じりけのない問題意識に溢れており、そこにマンキューも魅かれているのであろうと想像されるのだ。そして現時点においては、多くの人を引きつけるほどの説得力をもった「世俗の思想」、即ち世界ヴィジョンは一つもなく、そこに現代文明の閉塞感をもたらしている根本的背景がある。ハイルブローナーが70年以上も昔に本書を捧げた(はずの)新たな世界ヴィジョンは70年経った今も世に現れず、時代は混迷したままである、というのが唯一点極めて残念な事実であるのかもしれない。


確かに経済学は「資本主義」をどう観るかでダイナミックな発展を続けてきたのは事実だ。スミスから出発して、リカード、ミルへ至る発展は、資本主義がもたらした経済成長の結果、どんな社会が訪れるか、どうすれば良いかという問題に対する学問的回答だった。マルクスは資本主義が最終的に終焉する必然性について理論を構築した。ケインズ、シュンペーターも資本主義経済の管理、将来について新たな理論を提案したのだった。こうした思想の流れを「世俗の思想」と訳したのは、ちょっとまずかったネエと感じるのだが、それはともかく、現代経済学の極めて技術的性格と、ハイルブローナーが再活性化を願う"Worldly Philosophy"とを並べてみると、小生は必ずしも現時点の経済的分析ツールが「干からびた残りかすのような経済学」だとは感じない。

確かにマルクスは資本主義の崩壊と次の発展段階である社会主義の到来を予測したが、マルクスの経済理論を「真理」であると前提して、社会主義経済を実行したロシア(⇒ソ連)は、国家スケールの経済的悲劇を演出するだけの結果に終わった。一度、社会主義経済を始めれば、たとえミーゼスやハイエクが本質的批判を加えても、後戻りは不可能であるのだ。世界に関するヴィジョンは、提案は自由だが、実は的外れである確率も高いのだ。経済ヴィジョンだけではない。小生は、あらゆる「△△観」、「〇〇主義」はハナから「眉唾もの」だと仮定して、経過観察するのを行動原則にしている。大体、「資本主義」という用語だが、言葉の純粋な意味で「資本主義」であった国や時代は、いつどの国に実在したのか?そもそも「資本主義」という言葉も一つの抽象概念なのである。

現代経済学は、「経済成長」、「景気循環」、「不平等」といった経済的な問題について、データに戻づく実証的な分析ツールを提供することを任務としているようだ。小生は、そんな自覚は極めて健全だと思っている。


これが一つの結論であるが、もう一つの結論的下りを書くとすれば、

現代社会はもはや資本主義という概念で理解できない。

こういう事だとみている。

そもそも現代日本社会をみたまえ。どれだけの日本人が《資本主義》を良いことだと信頼しているだろう?むしろ

資本主義は私利私欲を是とする古くて悪い社会システムである。大事なのは社会である。利潤ではない。社会貢献こそ追求するべき目標でなければならない。

現代日本においては、「反・資本主義」感情を持つ人の方が、「親・資本主義」感情を持つ人よりは、はるかに多数を占めているように感ずる。でなければ「自由」、「規制緩和」、はたまた「小さい政府」や「新自由主義」に対して、これほどまでに強い拒絶がこれほどまで社会全体に広く浸透しているはずがない。 

そして同じ事情は、資本主義発祥地であるイギリスなど西ヨーロッパ諸国にも当てはまるように観ている。後は、アメリカだけではないか。そのアメリカも、党派によって、立場によって、企業利益よりは社会貢献をより重要視する人たちが増えているようにみえる。

経済学から「資本主義」というヴィジョンが消えて、「科学」というヴィジョンが主役を果たしつつあるのは、そもそも資本主義がもはやそれほど信頼されていない。この現実を先駆けて反映しているのかもしれない。そんな風にも思えるのだ、な。


 

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