2024年3月2日土曜日

断想: いわゆる「言論」も国ごとに、メディアごとに違いがあるようで

アメリカでは今秋の大統領選挙に向けて各州の予備選挙が進行中で、文字通り「政治の季節」、「言葉の年」といった情況だ。

他方、日本でも安倍派の裏金問題がこじれて、政局となる一歩手前の情況だ。政治倫理審査会でも野田・元首相と岸田・現首相が丁々発止(?)の質疑応答をしたばかりである。

ただ、どうなのだろうネエ・・・と感じてしまうところがある。

ひょっとしてこれは、英語と日本語との違いということか。そんな風にも思ったりする。

日本語は、心の中のニュアンスの微妙さを言葉にする時、非常に強力だ。

たとえば、「何があったのですか?」という単純な疑問文であっても

何があったンですか?

何があったのでございましょう? 

何かありましたか?

何かあったのか? 

何があったの?

何があったのヨ? 

何ごとだ? 

何ごとですか?  

何があったん? 

何かあったん? 

なンかあったん?

なんがあったんや?

なんかあったんか? 

何かあらはったんですか? 

等々、男女の言い方の違いもあるし、目上、目下の関係も同一の意味の言葉に織り込むことができる。表現が様々であることと、話者の気持ちが様々であることが対応している。これが書き言葉であれば、更に一部をカタカナにしたり、漢字にしたり、ローマ字にしたり、「・・・」を入れたりと、とにかく縦横無人に繊細な心の綾を言葉にして表現することができるのである。また、上の例文からも分かるように、日本語にはそもそも文法上の「時制」が曖昧だ。

日本のヤフコメを読んでいると、だから、書いている人は内心で怒りを感じているのか、情けないと感じているのか、誰かを揶揄っているのか、当てこすりたいのか、冷静な自分をアピールしたいのか、実は自慢話をしているのか、マア、この辺りの心理まで文章から読み取ることができる。・・・これは日本語という言語に備わった強みであると小生は思っている。

英語で言えば、ほぼ単一に

What's going (on)?

あたりで揃うのではないかと思う。

使う言葉の違いが社会の違いになっている(かもしれない)点は、ネットでも視える化されていると思うのだ。

例えば、同じYahooでもUS版と日本版があるが、双方のYahoo Comments(ヤフコメ)を一覧すると、日本語は情緒を微妙なニュアンスと併せて表現するのにに適しているように感じる。それに対して、英語は情緒を伝えるにはドライ過ぎる。が、客観的に主旨を述べるのには適している。そんな風に感じるのだ、な。だから、同じヤフコメでも、US版では微妙な当てこすりは目立たず、皮肉であっても言葉の意味としての皮肉であって、書いている著者の表情が目に浮かぶような情緒タップリのコメントは無い(小生の英語力にも関係するかもしれないが)、そう思われるのだ、な。

しかし、実は、細かなニュアンスを表現する「言葉の楽しみ」は、客観的な情報空間が豊かであるということを意味しない。

ともすれば、『ああ言えば、こう言う』というおしゃべりに堕するのが、日本語空間における言論の弱みであると、小生は勝手に考えている。

このように、日本語には日本語の強みと弱みがあり、英語には英語で強みと弱みがある。あとの言語もそれぞれ個性をもっている。比較言語学には素人だが、そういうことだろう。

ただ、民主主義を上手に運営するためには「議論」が欠かせない。実証的かつ客観的な言葉の使用が求められる。上下関係が自然に言葉使いに表れるとすると議論のツールとするには不向きだ。心を伝えるには美しい言葉が豊富にあり実に強力な日本語だが、であるが故にロジックを主張する時ですら、無用な感情のニュアンスが紛れ込むことがママある。討論する言語として、日本語は適切なのかという問いかけは確かに問題意識としてはあるかもしれない。

だからこそ、明治の文明開化の時代、啓蒙思想家や文人たちは、日本語を用いて、いかにして西洋直輸入の科学、哲学、思想等々、色々な学問を言葉にするかで悩んだ。その当時、多くの単語が造語されたり、言文一致体への移行が進められたのは、日本語で言論空間をつくろうという懸命な努力であったと解釈している。

日本で初代文部大臣・森有礼以来、時に《英語公用語化》が提唱されたりするのは、この辺の困難を実感したからではないかと推測している。

福沢諭吉は、わざわざ慶應義塾の敷地内に「三田演説館」を建てて、西洋で言う「スピーチ」の技量を育てようとした。そして、いま日本の初等中等教育だけでなく高等教育においても、「ディベート」教育が有用ではないかと指摘する声が増えている。

最近年で強調されている英語力の向上は、西洋文化の輸入に励んだ明治初めのスピリットに戻るだけでも、成果につながるはずだ。しかし、それより何をどのように話すかがもっと大事だろう。そもそも日本語を使って話すことを、そのまま英語で話そうとしても、同じようには話せないだろう。

明治の先達の努力を忘れ去ったような言葉のかけあい。「ああ言われたから、こう言い返してやった」と言った風な「言い合い」は、理屈の体裁をとっていても日本語ゆえに感情が混じり、感情のぶつけ合いになる。これでは日本社会の改善や進歩にはほとんど寄与しない。とはいえ、「ああ言われるときは、こう答える」という様なシナリオ式の進行も、予定調和的ではあるが、時間の無駄である。これだけは結論として、ここにメモしておいてもイイように思う。

政治や経済、科学や芸術について、世間の意見は様々あれど、

  • ネットは「砂浜」に似ている。ほとんど砂ばかりだが、美しい貝殻を見つけられることがある ― 特に台風が過ぎた後は。
  • 学会は、アルプスと高山植物が魅力的な「高原」に似ている。
  • テレビが展開する言論空間は、客を乗せては歓声をあげさせるお子様向けの「遊園地」のようだ。
  • 新聞がつくっている空間は「喫茶店」。店ごとの癖があるが仲間どうしで話がはずむ。大手紙は都会のルノアール。スポーツ紙、芸能紙は、大衆向けの「居酒屋」だ。
  • 台頭ぶりの目立つ週刊誌は「回転寿司」。所詮、大した品質ではないが、競争が激しいせいか、面白い品を出してきて、飽きさせない。

キリがないが、ベッドの中で上の例えを思いつきました。

アメリカ社会(やヨーロッパ社会)でもこんな傾向があるのかどうか定かでない ― 言葉だけではなく、発行部数や読者層のセグメンテーションも違っているので、多分、違っていると思う。

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