本日の投稿は、文字通りの覚え書きということで。
家族が生産単位ではなく消費単位となった現代社会の特徴は、一つは「都市文明」である点、もう一つは「消費社会」であるという点だ。
大都市の特質は、一人一人の人間が独立して平等、かつ自由であることで、それに消費社会化の動きが加わると、家族から切り離された個人が自由に自分自身の満足を追求する、そんな生き方が是とされる価値観が生まれる。
少子化は、こんな現代社会から必然的に表面化してきた現象だと観ている。
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ただ、人間は必ず老いるものだ。老いた老後にも所得は必要だ。その所得は、自ら蓄積した「私的資産」から生まれるという理屈になる。
が、現代社会には「公的年金=公的資産」がある。その公的年金は、年金保険料という「強制貯蓄」と未来世代が負担する「税」によって賄われるので、ロジックが複雑になっている。
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本稿では、現在世代が所得の一部を積み立てて形成した資産から生まれる所得フローは、あえて「公的年金」とは呼ばないことにする。
「公的年金」は全て未来世代の税で賄うものとする。
そうすると、「公的年金」とどう関連するかで、親世代の生き方は大きく二つに区分される。
- 一つは、所得は全て親世代(=自分自身)の消費から得られる満足最大化のために支出する。
- もう一つは、親世代の満足最大化のために全ての所得を支出するわけではない。(敢えて?)子を育て、子の生活水準を高めるために所得の一部を貯蓄して遺産を残し、そのことに親世代が満足を感じるという生き方だ。
一番目の生き方をすれば、子を育てることに(コストに相応した)満足を感じず、結果として自分が得る公的年金は他人が育てた未来世代から受け取る、そんな家庭が発生するだろう。理屈としては、一部の家庭にフリーライドされる。
二番目の生き方は、しばしば《王朝モデル》と呼ばれている。現代社会では、旧式な家族基盤はホボゝ崩壊しているが、子を残すこと自体から親は満足を得る(と考える)わけだ。先日の投稿のように、社会全体を疑似家族のように再設計することは(理屈としては)可能だ。そこでは、自分自身の老後の生活を子世代が負担することを知った上で、子の負担を少しでも軽減しようと遺産を子に残そうとする動機が親世代に発生する。親は引退後に年金という仕送りを子から受け取る。子は親の死後に遺産を受け取る。観ようによっては、親世代と子世代との「取引」にもなっている ― 介護と相続との関係という問題は省略する。育児数は、遺産動機の強さと、親世代の生涯収入に依存して決まる。
特別の理由がない限り、「ゼロ育児世帯」は、一番目の行動原理から発生する。
都市化と消費社会は、そうした社会が善いとする価値観が浸透する中で、1の行動原理が広まり、2の行動原理が否定的に評価される傾向を生み出す、と。仮にこう考えると、少子化という現象が社会問題になるのは必然的だということになる。
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