少し以前の投稿で現代日本語で何だか気に入らない表現の一つとして『……させて頂きます』という言い回しを挙げた事がある。そこではこんな風に書いている:
何だか21世紀になった頃から接客現場、営業現場で流行り始めた
取りあえず・・・させて頂きますネ
という言い回しと同じ価値観が共有されているではないか ― フランクに『・・・しておきます』と言えば済むことだ、と感じるのが世代ギャップなのだろう。学校のクラスで宿題をやってきたかどうかを聞かれた生徒が『宿題、させて頂くつもりでしたが、忙しさの余り休ませていただきました』なんて言えばギャグとしてもブラック過ぎる。
ところが、最近、司馬遼太郎の紀行文『街道をゆく』の第24巻「近江散歩・奈良散歩」を読んでいる時、以下の下りに出会った:
日本語には、させて頂きます、という不思議な語法がある。
この語法は上方から出た。ちかごろは東京弁にも入り込んで、標準語を混乱(?)させている。「それでは帰らせて頂きます」。「あすとりに来させて頂きます」。「そういうわけで、御社に受験させて頂きました」。「はい、おかげ様で、元気に暮させて頂いております」。
この語法は、浄土真宗(真宗・門徒・本願寺)の教義上から出たもので、他宗には、思想としても、言いまわしとしても無い。真宗においては、すべて阿弥陀如来―他力―によって生かしていただいている。三度の食事も、阿弥陀如来のお陰でおいしくいただき、家族もろとも息災に過ごさせていただき、ときにはお寺で本山からの説教師の説教を聞かせていただき、途中、用があって帰らせていただき、夜は9時に寝かせていただく。
この語法は、絶対他力を想定してしか成立しない。
『街道をゆく』シリーズのホームページによれば、旅行期間は1983年12月8日から10日までの3日間である。
小生の家も「他力」の系統だが、やはり浄土真宗とは日常の気分が異なっている様だ。
この下りは、以前にも(と言っても何年前になるのか思い出せもしないが、それでも読んだはずである)、確かに「見た」ような記憶が残っているのが不思議である。
本を「読む」と、「見る」には大きな違いがある。「読む」と「分かる」にも違いがある。「分かる」と「身につく」にも違いがある。故に、本のページを開くことと、本の内容が身につくことの間には、天地ほどの違いがある。だから、何度も読み返さなければ「読んだ」とはならないわけだ。
司馬遼太郎の『街道をゆく』をいまどの位の人が読んでいるのだろう。多分、精読はしないのだろう。それでも読めば、書かれたことが目に入って来る。書かれていないことは後の人の目には入らない。記録しておくという行為こそが大事なのだ、ということも上の系として言えそうだ。
ずっと前に一度読んでいたにも関わらず、最初に引用したことを今になって書いているわけだから、この面では小生はこの期間を通してバカになっていた、ということである。
『論語』の第1章冒頭
学びて時に之を習う亦説ばしからずや(まなびてときにこれをならうまたよろこばしからずや)
は、正にこれを言っているわけで、自然科学と違って、人間行動についての基本事項は古代の昔から実は分かっていた。そういうことでもある。
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