いまから20年余りの昔、小生が北海道に移住してまだ何年たったかという頃、
日本経済の強みは、東南アジア全域に張り巡らされた電機産業のサプライチェーンなンです。それを支えるのが、モジュール化という発想なンですね。
何度聞いたか分からない。経済財政白書でも読んだことがある。
日本が誇るエレクトロニクス
過剰設備、過剰雇用、過剰債務という「三つの過剰」に苦しむ日本経済ではあったが、そんな「誇るべき」実態が当時は確かにあったわけだ。
いまネットを何気にみていると
日本が誇るお握り。いまはOnigiriとして世界から愛されています
こんな記事を見つけたので、クスッとほほ笑むより先に、悲しくなってしまった。「落魄」とはこういう事を言うのでありましょう。
「日本が誇るお握り」ねえ……、でも「お握り」というのは、遥か昔からあるものだ。時代劇にも登場する。誰が創案したのか、もう分からない。少なくとも、現代日本の現役世代ではない。自分が創案したわけでもないのに、誇るかネエ……。それに「日本」がお握りを誇りと思ってきましたかナア……、分からぬ。もう売れるものはなくなって来たからナア……、そういう心理が隠れているのかもしれない。
営々と蓄積した先端産業の技術は惜しげもなく諦める一方で、昔からあった「お握り」は大事にして、いまそれを日本の誇りと言うのか、と問いたいところだ。
いまあるものは誇れないけど、昔からあったものでイイのは一杯あるヨ
ってナア。
実はネ、付加価値を加えてるんですヨ
と、業者はそう語るに違いない。とはいえ、土台は日本の伝統的食品には違いない。
であれば、日本の伝統的食文化を継承してきた先代、先々代、更には先達たちが生きた昭和、大正、明治、江戸時代、室町時代……と、生活水準は低かったかもしれないが、現在まで継承されるものを創案した過去の時代を少しはリスペクトしてもいい。
過去の時代をリスペクトするというのは、過去の時代を支えた価値観、理念、慣習を記憶し、尊重し、良い面は更に良いモノに、悪かった面はリフォームして再生させよう、と。そんな風に、自分の事のように共感する行為がなければならない。
「欧米で人気が出たから」、人気が出た対象に限っては、「誇り」を感じるってことですか?何を継承するか、欧米人に決めてもらうんですか?
日本の前時代を自分の事のように感じて、尊重しなければ、そもそも「継承」する動機が生まれるはずがない。尊重があって意志が生まれ何かを伝えるのだと思う。自分の事のように感じるからこそ、遥かな過去を後悔もし反省もするのだと、誇るべきことは誇れるのだと、思う。他人の批評をきいたから誇りを感じるとすれば、それは本当の意味での誇りではない。単に「誉められたから嬉しい」ということだと思う。
誇り、つまり"Pride"は、他人の評とは関係なく、自分の心に持てる感覚である。
そういうことだろうと思うがいかに。
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