2024年6月14日金曜日

断想: 労働に汗を流すから価値がある、とも断言できない

最近、SNSを舞台にした投資詐欺が横行している。かと思うと、高名な某経済評論家が

お金というのは額に汗して得るものなンです。お金にお金を儲けさせてはダメなンです。やってはいけないンです。

と。こんな警句を発している様だ。マア、言いたいことは分かる。「マネーゲーム」で本当に価値ある実質は何も生み出されていない。「土地ころがし」で何かが生産されているかといえば何もない。

究極的には、小生は《労働価値説》に大いに共感をもっている。が、この共感は相当アンビバレントなところもあって、決して汗を流して一生懸命に努力したから必然的に価値あるものが生み出されるわけではない、とも思っている―例えば、これとかこれ

ごく最近、次のような下りを投稿の中で書いた:

そもそも所得フローを生むには、リソースが必要だ。一つは「労働」という要素、もう一つは「資本」というリソースだ。資本には、不動産と機械・設備と言った動産、及びカネが含まれる ― 土地に働かせれば地代が、カネに働かせれば配当や利子が得られる。その他に、資本には無形資産(≒知的財産など)がある。例えば、著作権、特許権、職業資格などがそれに該当する。旧い時代の世襲身分が「家禄(=所得)」を伴うなら、それも無形資産と言える。しかし、資本だけがあっても労働要素がゼロであれば(基本的には)生産活動は不可能だ。自らが有する労働要素をこれ以上投入できない年齢に達すれば、生活ができない。故に、次世代の子が継承して生産を続け、所得をプラスに維持する。

かくいう小生も、身体を張って授業を直接担当する<労働>からは足を洗い、現在はこれまでに蓄積した資産を運用して所得フローを、即ち生活の糧を得ている。つまり、いま小生の毎日を支えているのは100パーセント<不労所得>である。

もはや汗を流してカネを得ているわけではない。しかし、このようなライフスタイルに小生はいま感謝しているのだ。

なぜなら自由な時間が生まれたからである。

読みたくとも「我慢」をして読まずにいた本を読めるようになった。若い頃に読んだが理解できなかった本を再読することが出来る。物事を深く考え、世界観や社会観について考察し、考えることの楽しさを享受できる。ラッセルの『西洋哲学史』を精読できたのは十分な自由があるからだ。若い頃に読んでも、未熟な年齢では真に理解できない点が多かったのだ。『漱石全集』や『源氏物語』は、専門家でもなければ、若い学生時代に読むしか時間がないだろう。若くとも読まないよりは読んだ方が遥かにマシだが、例えば『こころ』は実年齢に達してから読まなければ本当には理解はできないはずだ。真に理解できれば、落涙滂沱、何日かは打ちのめされる程の衝撃を感じるはずである。島崎藤村が『夜明け前』という作品をどんな理由で書きたかったのか。真に共感するには、その時の著者と同じ程度の人生経験が必要だ。

数学や統計学は年齢とは関係なく勉強できるが、芸術の理解と年齢には明らかに関連性がある。

思うのだが、こうした芸術を理解し、日本人が創造してきた文化的豊饒さを吸収することの方が、額に汗して労働をするよりは、幸福につながると感じる(と個人的には感じている)。

カネに束縛されず自由を得るには、カネを稼ぐ労働から解放されなければならない。余暇を選ばなければならない。それには、労働以外のリソースに働いてもらう必要がある。そのための準備をするのが若い時代である、というのがライフサイクル理論だ ― もっとも素朴なライフサイクル理論では、人はだれしも資産を食いつぶしてから死ぬという大前提を置いているのだが、日本の歴史を通して、こんな大前提に日本人が魅力を感じたとは思えない。

実際、日本文化のほぼ全ては、荘園・領地から上がる不動産収入、次いでは商業資本の営業収入に生活を支えられた人々、そうした人々に連なる人々によって生み出されてきた。王朝と武家の文化、奈良・京都など各地に残る文化遺産はその典型だ。

現代世界は更に生産的リソースが多様化し知的資産が主となりつつある。

とはいえ、カネを取引する経済の現場と知が自由に発露する文化世界とは、ずっと昔から水と油の関係にあるのは、皆分かっている事だろう。文化は何ものにも束縛されない自由な空間と時間の中で育つ。その自由は余暇と不労所得の上に得られるものである。こう言ってイイのではないか。


労働こそ最も尊ばれる価値の源泉であるというのは、それ自体、否定しにくい所があるのは事実だ。人が集まる大都市で長時間の仕事をして、仕事に「満足」を感じる人も多い。が、つまりは商品やサービスの価値付けである、考えているのは。本来は価格モデルである「労働価値説」をライフスタイルにまで一般化して主張する果てには文化的な不毛がある。

労働こそ価値の源 ⇒ あなたの遊びは社会の何の役に立つのか?

文化破壊の根底には常に社会的善意が隠れているものだ。だからこそ、《寡黙なおカネに働かせて、自分は田舎で暮らす》というライフスタイルを人生の理想とする人は世界で多い。

この辺りのことは、プロレタリアートが支配する共産主義国家が歩んだ文化的荒廃をみても明らかだ。共産・中国(?)が達成した経済的成功。社会主義の模範生(?)だったソ連が達成した平等な(?)な国民生活。それにも拘わらず、寒々とした文化的達成を目の当たりにして、「これは何故だ」と、そう驚く人は実は少ないに違いない。いや、いや、今日の投稿は現代中国をディスることが目的ではない。この辺で。

【加筆修正:2024-06-15、06-16、06-17、06-18】


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