先日行われた東京都港区長選挙でもそうだったが、ごく最近の 日本の選挙、特に地方選挙では「△△党公認」と名乗るのを回避して、表向きは「無所属」で立候補する方が有権者の受けがイイようだ。世論調査で多数を占める「無党派」と立候補者の「無所属」が、どちらも増えてきているのは、偶然のシンクロではあるまい。
しかしながら、
私は、既存のどの党派にも属しません。支持しません。
というのは、非常に、《欺瞞的》というか、《偽善的》というか、
私は無宗教です。でも初詣には行きますよ、皆さんと一緒にお参りしてます。
などと語るのと同じで、呆れるような世相だと思います。こんな人物が《指導者》になれないことはロジカルな結論で、つまりは《迎合》だと思って聞いている。
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多分、《分断》を避ける中立的な政治家と政治的ポジションが、いまの日本社会で強く求められているということの表れだと思う。なので「無所属です」という御仁は、有権者に寄り添う謙虚で優しい人かもしれない。
が、大体、社会というのは時代を問わず、国を問わず、常に分断しているというのが小生の社会観だ。
だからこそ、武装蜂起や暴動、内乱に代わる仕組みとして普通選挙がある。そう思うのだな。選挙で勝った側の党派が権力を握る。少数派は、負けた以上、仕方がないので権力を委任する。なので、次の選挙結果が出るまでは、多数を占める党派が主張する内政外交が推進される。それが善いと評価されるなら、たとえ次の選挙で野党が勝つとしても、政策をリセットするのはもはや難しい。リセットできるのは効果がなかったと評価される政策である。
これが民主主義体制の強みである、というのが教科書的な説明であろう。
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だから、(日本人が憧れる?)「欧米先進国」では、
職業公務員(=官僚)は専門家で中立的。しかし、政治家は党派的。政治家が任用する官庁上層部も党派的。
これが自然な姿である。軍部はどの政党に対してもニュートラルという原則に通じるものがある。
他方、ここ日本では、政党に属する大臣が現場の官僚に行政方針を指示しても、党派的であると嫌悪したり、非難したりする感情が割と強く、報道でも否定的に解説されることが多い。それは
特定の政党に属する国会議員と言えども、大臣は(法の前に平等たる)国民全体に奉仕する公務員である
という見方になるし、「だから」という理屈はないと思うのだが、総理になれば党内派閥を離脱、大臣になれば党内派閥を離脱と、それが当たり前の政治姿勢であると語られたりもする。実に可笑しな心理だ。ことほどさように、日本では《平等性》という価値に執着する心理が強い、ということでもある。
この傾向は日本では歴史を貫いてあったと推測しているのだが、では封建的な身分社会で人々が意識する「平等」とは、どんな平等性であったか、研究すれば面白いだろうナア、と思う。支配階層の心理とともに被支配階層の「被支配感覚」もまた興味をそそられる研究テーマだ……、いや、いや、話しが広がり過ぎだ。これはまた別の機会に。
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平等を最大限に尊重するのは《和》を最大限に尊重するからである。
英語で言えば、「和」は"Harmony"か"Peace"辺りになると思うが、これに対して欧米ではむしろ"Justice"(=正義)や"Fairness"(=公平性)が社会的価値の根幹としてよく伝わってくる。中国で一時流行った「造反有理」の「理」には"Justice"が多分含まれている。理があれば造反やむなしという思想だ。福沢諭吉が『学問ノススメ』で評価した"martyrdom"は命をかけた反対運動のことで、いついかなる時も平和を願う平和絶対主義者ではなかったことが分かる。
「和」は、古の国号「倭」にも通じる、日本という国の本質でもある ― 実際、清酒の発祥地・奈良県では「倭」という純米酒が醸造されている。小生も呑んだことがあるが、淡白端麗な風味で旨い。自ら主張していないところは「倭」という酒銘にふさわしい。
歴史的に、「派閥抗争」というものが、いかに悲惨な結果をもたらすのか。乱や戦国時代を経験している日本は、身に染みて知っている。国内の《和》というものが、いかに価値あることなのか、もはや遺伝的形質にまでなっている様だ。
こういうことかとも思われるので、一概に、
党派否定。中立尊重。
という心理がダメであるとは思わない。
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しかし、民主主義というのは、基本的に(その時点における)多数党による支配のことである、と。これは必須の常識ではないかと思うのだ、な。
Good Loser(=良き敗者)
という言葉があるが、これを政界に当てはめれば
Good Opposition(=良き反対)
とも言えるわけだ。要するに、「良き野党」というわけだ。
どちらが卵かという議論はあるが、小生は「良き野党」があれば「良き与党」があるのだというのが、真理ではないかと思う。逆ではない。
相手を打倒することのみを目的とすれば、究極的には
言論による内戦
をやっているに過ぎない。単に自分が相手にとって変わるだけなら、やることは昨日までの敵と同じである。主役が交代しても同じドラマが進行するだけだ。
国民という全体をとりあうのが選挙だとすれば(マア、そうには違いないが)、有権者をとりあうだけの《ゼロサムゲーム》になる。仮に自民党の支持基盤を奪取できても、勝った後に可能な政治は奪取したはずの自民党の支持基盤が求める路線である。だから、取って代わるだけでは、何も変わらないのだ。
スキャンダル暴露戦術に頼る現代日本の野党に、サッパリ支持が集まらないのは、この辺に理由がありそうだ。
政権交代は、とって変わるのではなく、旧勢力から新勢力への置き換わりを反映する結果でなければならない。それで初めて前に進む力が開放される。
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日本の野党が「ダメ」なのは、置き換わるべき新勢力を見いだせていない所だ。政治家としては凡才なのだ、な。そもそも、日本では新勢力が拡大しないように行政、産業組織、法令上のツールが一体となって規制をかけている。だから、社会の表面には見えないのだ。しかし、世界が変化する中で、日本に新しい意識や動機、願望が潜在しているのは当たり前である。その意識や動機、願望を捕らえて、勢力にまとめるのが「政治家」、特に「野党政治家」が持つべき才能である。
幕末の騒乱も同じ理屈で、開明派の下級武士は単に上層部がやってきたことを自分達がやろうと考えたわけではない。新しい事に取り組みたかったわけだ。
科学や文学の世界と同じように、政治の世界にも凡才、秀才、天才の区分が、あるに違いない。しかし、天才が選挙で当選しているかどうかは分からない ― 天才的人物は、往々にして自信過剰で「 矩 」をこえるだろう。「無所属です」などと公言するはずがない。和の文化には馴染み難いのだ。だから、チャンスがあるとすれば「非常時」を待たなければなるまい。
社会の進歩は極めて党派的な構造をもつ。和では、所詮、進歩が難しい。だから和を守る果てに臨界点が来て瓦解する。進歩と混乱はしばしば付き物なのである。しかし、進歩は「内戦」や「革命」がなくとも可能である ― ナポレオンや西郷隆盛のような歴史的大人物ならまた別の見解があるのかもしれないが。それが民主主義の意義だというのが、小生の民主主義観である ― 現代日本社会で民主主義が期待通りに機能するかどうか、どうも疑問なしとしない理由は、上に述べた通りだ。
和を最大限尊重する日本人の伝統的傾向は、民主主義とは別の政治体制により適合しているのかもしれない、とすら思います。
【加筆修正:2024-06-07】
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