2024年11月15日金曜日

断想: 戦後日本の人間観はどこか奇妙かもしれません

若い時分は、無味乾燥とした統計分析の合間に、三好達治の文庫本を開いては、気分転換をしていたものだ。その頃、小説は読み終えるのに時間がかかるので、もっぱら高木彬光や鮎川哲也のミステリーを短時間集中で読んでいた。なので、このブログで頻繁にとりあげている永井荷風や三島由紀夫、谷崎潤一郎といった日本の作家の作品を愛読するようになったのは、大学に戻ってから、それも時間が惜しいとは思わなくなってからの事である。

確かに「文学」という趣味は、タイパが非常に悪い。

人が何かを書くとき、書きたいことがある。その書きたいことを全て書き尽くすのは、非常に難しく、ひょっとすると本質的に不可能ではないかと思っている。作品を書いた作家が何を伝えたくて小説などを書いているのかを知りたいなら、まずは全集ベースで全てを読むしかないと気がついた時は、もうそれほど若くはなかった。

だから、小生の好きな本といっても、それほど多くない。読書家ではないわけだ。

三島由紀夫の『潮騒』の次に読んだのが『葉隠入門』である ― 本ブログでも何度か話題にしている。リアルに身近で接していたわけではないが、書いていることに嘘はあまり混じっていない気がする。

中でも記憶鮮明な箇所は『葉隠』でも有名な箇所に関するところで

「武士道というは、死ぬ事と見つけたり。二つ二つの場にて、早く死ぬほうに片付くばかりなり。別に仔細なし……我人、生くる方が好きなり。多分すきの方に理が付くべし。…(それでも、という逆接になるが)毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生落ち度なく、家職を仕果すべきなり。」

常住死身になることによって自由を得るというのは、『葉隠』の発見した哲学であった。

こんな一節があるのだが、このページの上に、いつ書いたか完全に忘れたが、鉛筆書きのメモを書き入れている。 

反知性主義?

合理性の追求は「理性の奴隷」になること?

こんな字句を書いている。

確かに、毎朝毎夕、《死の練習》をして覚悟を決めている人など、現代日本社会にはもう稀な存在であるに違いない。特に戦後日本は、合理性こそ正しく、反知性主義は否定すべき邪念であると決めている。

合理的に考えれば、『葉隠』の著者も述べているように、死ぬより生きる方がイイに決まっている。人生の目的は、まず生きることであり、命を何よりも大切にすることである。と。そんな価値観になるのは極めてロジカルで、ロジックと命を関連付けると、生きることこそ何よりも大事ですと、結論せざるを得ないのだ。

ただ、生きることが何より大事だとは、例えば古代アテネの哲学者・ソクラテスは考えていなかったし、そのことはプラトンが書き残している。田中美知太郎訳の『クリトン』の中に次の一節がある:

しかし、まあ、ソクラテス、…子供たちのことも、生きるということも、他のいかなることも、正というものをさしおいて、それ以上に重く見るようなことをしてはいけない。……おまえはすっかり不正な目にあわされた人間として去ってゆくことになるけれども、しかしそれは、私たち国法による被害ではなくて、世間の人間から加えられた不正にとどまるのだ。……醜い仕方で不正や加害の仕返しをして、ここから逃げていくとするならば、あの世の法が、…好意的におまえを受け入れてはくれないだろう。

「国法」のイデア、というか擬人化された亡霊が、死刑執行を待つソクラテスに語りかけている形で書かれている。

有名な『悪法もまた法なり』という箇所にあたるのだが、人生の目的は《善く生きる》ということにあって、《ただ生きること》、言い換えると《ただ命を大切にすること》とは書かれていない。死の意義が生の意義を超える状況はありうる、と。プラトンはそう考えていたことが分かる。

だからこそ、『パイドン』の中で

真の哲学者は、死ぬことを心がけている者であり、彼らが誰よりも死を恐れない者であるということは、ほんとうなのだ。

と述べ、哲学は『死の練習』であると考えたわけである。何と『葉隠』の精神的態度と似ているのだろう。

プラトンが現代日本に現れたら、前稿の続きではないが

生活があるんです。生きて行かなくちゃいけないんです。背に腹はかえられません。仕方がないじゃないですか?

という悲痛な訴えに対して 

それが何か?

と応えるかもしれない。

しかし、現代日本より前の時代にあっては、ほとんど全ての日本人は、プラトンのような「不正に生きるよりは死を選ぶ」といった警句、というか価値観を、理解していたような気がする — 理解と、身についているというのは、別であるが。

小生は、ごく最近になって「四誓偈」、「一紙小消息」、「一枚起請文」を日替わりで読み上げた後、「相伝」の際に誓った回数の日課念仏を称えるという習慣に入ったのだが、「勤行式」の中にある「発願文」には注釈が記されてあって

死の縁は無量なり。いつも臨終の思いになって唱えよ。

と書かれてある。これは正に「死の練習」であるな…と思った。

浄土系仏教では

人生の目的は、阿弥陀仏の支配する「極楽」という名の「浄土」へ往くことである。

これがスタートだ。

つまり、

幸福は、この世で生きる上での願いであって、生きる目的ではない。

そういうロジックになる。

(何度か投稿してきたとおり)幸福は善の本質であると、小生は考えてきたが、ごく最近になって、変わりました。政府が追求するべき目的は「幸福」である(かもしれない)が、人が生きる目的は「幸福」ではない。幸福は生きている人の「願い」である。が、「願い」に過ぎないとも言えそうだ。

人の生き方を決めているのは、(当たり前だが)その人の「意志」である。が、この辺についてはまた改めて。

人生の意味づけは、東洋も西洋も、古代からずっと大きなテーマだった。ところが、どうも本質的なところで発想に共通部分がある。時代によって、国によって、まったく別の考え方をしてきたわけではない。似ている面がある。

現代世界では全てとは言わないが、少なくとも戦後日本社会の人間観は、文化的伝統から切り離されて、奇妙な偏見がある。

何だかそう思う昨今であります。



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