本日は母の祥月命日の23日なので寺から月参りに来る。今日みえたのは若住職の方である。読経は、『願我身浄如香炉……』の「香偈」から始まり、メインの『仏説阿弥陀経』のあとは「別回向」で「……追福増進菩提」とやり、最後は『請仏随縁還本国…』の「送仏偈」で終わる。大体30分ほどだ。以前は、来るのが10時頃であったので、終わると茶話をしたのだが、最近はわが家が高齢化しつつあるためか、前倒しになってきた。他にも回る先があるので御布施を渡すとそそくさと帰って行く。
帰りしなに近隣の寺と共同で発行している『はちす』というパンフレットと今月の『浄土宗新聞』を置いていく。
先日の兵庫県知事選ではないが、これらの印刷物もまた宗教法人にとっては「メディア」であり、伝えたい事柄があっても大手マスコミには頼れないわけなのだろう。
今日、若住職が置いて帰った『はちす』の中に以下のような下りがあった。東京で路上生活者を支援をしている浄土宗僧侶の集まりにいる一人の談である:
上野や浅草、隅田公園、山谷地区などで夜、路上生活者の寝床に行き、食料などを無料で配っていますが、東京五輪前は一晩で150人分ほどだったのが、今は250人を超えています。
私たちが弁当を配るルート上に、行列ができるようになりました。アパートやネットカフェで暮らす人も、来るようになったのです。高齢の人が、板橋から上野まで、たった一つの弁当のため歩いてきています。異常事態です。
要するに、最近年の大きな社会問題である(はずの)『貧困問題』をとりあげている。そして、いわゆる「マスメディア」が報道することはほとんどない中で、貧困問題に苦しむ人の数が増えているのじゃあないか、と。貧困の深まりと広がりに関する《現場の体感》が記事になっている。
有名人の不倫や、大谷選手がメジャーリーグでみせている活躍、政治資金にまつわる裏金問題、都知事選や兵庫県知事選(それからアメリカ大統領選)、さらには石破首相のネクタイが曲がっているとか……、こんなタイプの話題には、どのメディアも熱心だが、
貧困問題を真面目に報道することはほとんどない
小生が見落としているとは思えないのだ。
この原因は、理屈上、二つしか考えられない。
- マスメディアがターゲットにしている人々は、貧困とは無縁で、かつ彼らが嫌がる(か無関心な?)話題であることを、メディア企業が分かっているので、あえて報道しない。
- 実は、貧困の広がりと深まりに関心をもっていて、経済的支援、人的支援にやぶさかではない人が多いのだが、その心情にメディア企業経営者が気がついていないか、報道する価値がないと考えている。
どちらか一方だけが正しく、他方は間違いという風には、なっていないだろう。が、現代日本の傾向としては、どちらかが多いはずだ。どちらが大勢なのだろう?
少なくとも「報道しない自由」という言葉で片付けられる「つまらない問題」ではない。
実際、貧困解消のための「クラウド・ファンディング」やNPO法人は、少し検索するだけで、多数出てくる(例えばここ)。
国民民主党の玉木さんの不倫をつつくよりは、よほど大事な問題じゃあないかと思うが、そうではないと考える人が意外と多いのかな? 結局は「主観」の決めることだから。
ただ正直、小生は個人的に感じるのだが、
一体、日本のマスメディア企業は、何をやりたくて造った会社なのだろう?
要るのか? 半分以上は要らないンじゃないのか?
残念ながら、やはり衆愚化への道を不退転で、日本は歩みつつあるのか?
分からなくなってくる今日この頃でございます。
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