2024年2月23日金曜日

断想: 昔のチカン、いまハラスなのか?

今は昔(?)、小生が若手からそろそろ中堅層になりかかっていた時分、《痴漢冤罪》への恐怖が世間に広まりつつあったように記憶している。

少し上の世代であれば、「痴漢経験歴」なる言葉が、男女を混じえた酒席に平気で出てくるようなアラレもない情景を知っているはずだから、その頃のセクハラ意識、モラハラ意識など、あったとしてもタカが知れたものである。そんな通念が支配的であったとき、唐突に「これは犯罪です」と世の論調が変わって来たので、にわかに困惑するような、慌てるような思いがあったのだろう。どこかジャニーズの創業者社長を思い起こさせるところがある。

正に、歳月怱々。桑田変じて滄海となる。世の変遷、驚くべし、である。

いま痴漢冤罪を怖れる心理は昔ほどではないのだと思う。

たとえば100件ある痴漢被害を摘発するとき、冤罪がその内の3、4件を占めるに過ぎない状態であるとする。そんな場合は、痴漢被害を訴える全ての女性を肯定的にとらえ、容疑者とされる男性を逮捕するとしても、ヌレギヌを着せてしまう「第1種の過誤」を犯す確率は5%未満である。反対に、もし厳格な取り締まりをしないならば、実際に行われた痴漢行為を摘発せずに見逃すという「第2種の過誤」となる確率が50%を超えるという可能性も出てくる。その場合、実際に発生する痴漢犯罪の半分以上が「甘い摘発」によって見逃されてしまうわけだ。冤罪を避けるべきは当然であるが、こんな社会状態も無法であろう。

ポイントを整理すると、冤罪の確率が十分に低い識別体制があれば、根絶するべき痴漢を厳しく摘発し検出力を上げることが、より良い社会状態につながる。しかし、粗雑な犯罪認定方法をとることで、仮に示談金を狙った営利目的の痴漢通報が増えて、冤罪が全体の半分以上を占めるという情況に立ち至るようなら、被害通報直後に被害者が指さす男性を逮捕して良いのかどうか、警察当局もおそらく判断に苦しむであろう。こんな議論に理屈としてはなる。

一般に、シロをクロとする冤罪は最も避けるべき行為であるとされる。であれば、犯罪の摘発よりは、冤罪を避けることの方が遥かに重要である、というのは時代を超えた社会的要請であるに違いない。

社会的注目を集める唐突振り、件数の多さに着目すると、昔のチカンが、今は△△ハラスメントであるのかもしれない。

この「△△ハラスメント」も、いつの間にか、多様化の時代にふさわしく、何種類も挙げられるようになった。

例えば、資料をみると、

  1. パワーハラスメント(パワハラ)
  2. セクシュアルハラスメント(セクハラ)
  3. マタニティハラスメント(マタハラ)/パタニティハラスメント(パタハラ)
  4. ケアハラスメント(ケアハラ)
  5. モラルハラスメント(モラハラ)
  6. ジェンダーハラスメント
  7. アルコールハラスメント(アルハラ)
  8. リストラハラスメント(リスハラ)
  9. テクノロジーハラスメント(テクハラ)
ざっと9種類のハラスメントがリストアップされている。

極めて多種類あるハラスメントの中の「パワハラ」については「パワハラ防止法」、正式名称で書くと『労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律』が既に制定済みである。また、セクハラに関しては「男女雇用機会均等法」の中でその防止義務が雇用者側に課されている。

ただ、ずっと以前にも投稿したのだが、ハラスメントとは何か、という根本的定義は(小生の不勉強なのかもしれないが)法的には与えられていないようで、《ハラスメント基本法》はどうしても見つからないのだ、な ― 多分、ないのだと推測している。

基本法がないなら、今後もありとあらゆる△△ハラスメントが世間に登場することだろう。「嫌な思い」をする背景や原因は、文字通り多種多様。おそらく100種に余るハラスメントがあるに違いない。


思い出すのだが、小生が高校生だった時分、毎日学校に登校するのが嫌で仕方がなかった。下校する時にはホッと安堵したものだ。

というのは、ちょうどその頃、父が新規事業の立ち上げに心身を疲弊させ、その挙句に会社に通勤することさえ困難になり、家族でとる夕食の場も大変暗くなっていたのだが、決して「強い子」ではなかった小生は、そんな家庭の変調に影響されたのだろう、小生もそれまでの自信を喪失し、通っていた男子校の荒っぽい付き合い方に適応できなくなったのである。何かといえば、狭い教室の中でクラスメートに揶揄われ、自分の殻の中に閉じこもるようになり、成績も一直線に悪化したのがその頃である。いわば《10代の黒歴史》だ。最も貪欲に興味ある事柄にチャレンジしていくべき17、8歳の頃、文字通り「沈没」状態に陥ったことの損失は、その後の人生全体を通しても、結局、取り返せなかったと思う。

「イジメられている」という自覚はなかったが、いま思い出すと、嫌で仕方がなかったということは、一種の《クラス・ハラスメント》の被害者であったのかもしれない。

だからと言って、今さらながらに「被害者意識」を感じるというわけではない。学校は保護された社会の縮図であり、生徒は学校にいる間に心身を鍛え、社会に出て以降待ち受ける荒波に負けない強さを身につけることが、学校の目的(の一つ)であると。その時代は、此方の方が社会通念であったのだ。この感覚は今でも正しく、適切であると思っている。

学校ごとの校風には違いがあった。違いがある学校すべてを包括して
学校たるもの、組織たるもの、かくあるべし
というモラル上の普遍的規定などはなかったのだ。まして国会で法律を制定するなど議論されてもなかったように思う。

「自分に合わない」と感じれば、よそに移る、というのがその当時の通念であった。


その後、職業生活を始めてから何かというと耳にするようになったのは《意識統一》という言葉である。

組織全体が目指す目標、配属されたセクションの年度計画等々、これらを所属する全員が共有し、自発的に目的に向かって努力しようという意識をまず形成することが、管理者の職務(の一つ)である(とされていた)。

こんな組織文化は確かにあったナア、と。時折、懐かしく思い出すことがある。

いまの世相なら、憲法で規定されている「思想・信条の自由」が持ち出され、その組織ごとの精神的同調圧力は不適切であるとして、否定されるのではないだろうか?

しかし、目的意識が共有された人間集団は、その目的を達成するうえで確かに強みを発揮するのである。もし当時のような「意識統一」が必要ではなく、独立した個人の自由な協力で推進可能なプロジェクトであれば、何も「企業」という組織を設立するまでもない。自由市場を通して独立個人事業者間のスポット契約を結ぶことで毎年度の事業計画を推進すればよい。「組織」を設けること自体、非市場的な人材配置を行い、共有された目的を追求することが含意されているのである。この位の基本は、例えばミルグロム=ロバーツの『組織の経済学』の序盤に書かれている。

なので、企業組織内で下位者が上位者の意向を「忖度」しながら業務を進めるのは、組織であれば理の当然であって、直ちにパワハラ行為になるわけではない。ある意味、当然の社内風景である。


組織には組織ごとの企業文化がある。組織がflatであるか、hierarchicalな構成であるかは、会社ごとに自由に設計すればよい。適材適所、つまり人材の最適配置は、国籍、性別を問わず選任される経営者による合理的経営によって、自動的に達成される理屈だ。企業経営にその時々に流行している雑然とした価値判断を持ち込むことには反対だ。価値は破壊されるところに発展の本質があるものだから。

そもそも資本主義社会では《契約自由》が原則である。この時、経済社会は最も活性化され、長期的には国民生活の水準が最も速く向上する理屈だ。


これに対して、最近年に流行を極めているのが《コンプライアンス》である。

刑法や民法、商法といった基本法ならまだ分かる。しかしながら、組織の中の意識形成プロセスにおいても「コンプラ」は、少なくとも日本国内全域に対して、一律に要請される。ある意味で、小生が見知ってきた《意識統一》のための努力を、個別企業から国内全域に拡大して、全国的な意識統一を目指しているようでもある。そして、コンプライアンスが要請することの根底には特定の価値観が隠れている。

もし民間企業が特定の価値観を基礎に社風を形成しようとすれば、不適切な同調圧力であると批判される可能性がある。複数の理念、信条を容認する多様化の時代ならなおさらのことだ。

個別企業における意識統一が不当な同調圧力である(と見られる)一方で、いったん法として制定されると、なぜ法は正しく、コンプライアンス上の強制力を持てるのか?

組織運営のための意識統一は自由を侵害するが、国が立法して強制するのであればコンプライアンスとなる。何だか韓国で言う「ネロナンブル(=他人がやれば不倫、自分がやれば純愛)」を連想してしまう。国家の意志が優越するのだろうか?

どうもこの辺の理屈がいま一つよく分からない。

そのコンプライアンスで達成しようとする経済社会は、独占的支配力のない自由な参加者が公正に競争する結果としてもたらされる(はずの)最適資源配分を約束されているような社会なのだろうか?

コンプライアンスの根本理念がよく分からない。


そもそもコンプライアンスで言う「法」だが、中央政府の独占的優位性が最初から前提されている。

地方分権の必要性が指摘されている中、コンプライアンスでいう「法」も地方地方で独自に規定するほうが理に適っている。個別企業が自由に企業文化を形成するのが、不適切な同調圧力なら、せめて市町村ごと、都道府県ごとの自由を容認したいものだ。

日本国は、中央政府が国民の考え方まで指導するような「国のかたち」ではなかったはずだ。息苦しいような令和の世相はこの辺に由来している。


一般に、何かの社会的目的を追求する時には、法的強制よりはインセンティブに基づく自発的行動を通じるほうが、国民の厚生に生じる犠牲が少なくなるものだ。

当事者の自由意志よりは、法的規定を尊ぶ現代日本社会の感性は、だから、あまり好きではない。21世紀になって以降の、特に福一原発事故以降の日本の停滞は法による自由の侵食が根本的原因だと観ている。

正に『老子』にあるように
大道廃れて、仁義有り。
慧智出でて、大偽有り。
六親和せずして孝子有り、
国家昏乱して忠臣有り。

自然の筋道が廃れたので仁(思いやり)や義(正義)が大事だという

智に働く人間が現れたから嘘・偽りがはびこる

家族が崩壊したので(子育てや介護に尽くす)優しさをほめる

国が乱れているから(数少ない?)良心ある政治家が目立つ

この伝で言えば、『国、停滞して、法ととのう』ということになるか。



本日は、昔のチカンから、話題がどんどん離れていった。話題が話題、内容が内容だ。「表現の自由」より「社会的妥当性」が優先されている昨今の世相だ、中国のような検閲はないにしても、Googleに本稿の削除要請が寄せられるかもしれない。一応、原稿は別に保存しておくか・・・これも偏屈な小生の僻目ということで。


0 件のコメント: