2025年10月31日金曜日

ホンノ一言: コメ政策。これもお目出度いのはメディアで、政府はリアリティが分かっているパターン

高市内閣で任命された新農水相が、前内閣のコメ増産方針への転換を(部分的に?)否定して、

米は需要に見あうように生産する

聞きようによれば、従来の減反政策に復帰するとも解される発言をしたというので、非常に不評である。

今年初来の米価暴騰を受けて、

米は増産する。余れば輸出すればよい。

こんな路線が日本米作農業の「最適解」(?)であると、メディア業界はこぞって賛同していたから、なおさらの事、需要に見合った米作は不評なのである。

確かに、二つの路線は真逆の方向を向いている、かのようにみえる。しかし、某ワイドショーに出演した時の新農水相の発言をよく聞いていれば分かるように、

「増産転換」は、言うは易く、行うは難し、である。

実際、ChatGPTにデータを確認してもらえば、誰もが知っているはずの事実が指摘される。

例えば

日本が国内産米を輸出できる国際競争力はありますか?

という質問に戻った回答の要旨は以下のような内容だ:

  1. コスト高・生産効率の課題
    • 日本の米生産コストは、輸出を念頭に置いた競争力ラインに比して高いとされており、例えば輸出用米の生産コストを「60kgあたり約9,500円」まで下げる必要があるという指摘がある一方、現状では16,000円前後とも報じられています。
    • また、農地の分散、兼業・高齢化、機械化・省力化の遅れなどが生産効率向上のボトルネックとなっています。
  2. 輸出量・シェアの小ささ
    • 日本の米の輸出量は増えてきてはいるものの、国内生産量に比して極めて小さい規模にとどまっており、2021年には22,833トン(国内生産量に対して“0.5%未満”)と報じられています。
    • 2023年のデータでは、輸出額が約6900万ドル程度という報告があります。
    • このように、「量を競う」市場では競争力が非常に限定されており、規模の経済を活かしづらいという構造上のハンディがあります。
  3. 価格競争力の制約・保護政策の影響
    • 多くの国の米輸出産業と比して日本の農業政策・流通構造・価格水準は保護的で、高価格設定が続いてきました。結果として「やや割高=量を取る国際市場ではハンディ」という評価があります。
    • また、輸出向けに生産を切り替えたとしても、農地転換や機械化・加工・梱包・物流などの新たな投資が必要となるためハードルが高いという指摘もあります。
  4. 市場・流通・規制の課題
    • 輸出対象国・地域の需要を開拓し、安定した物流・パッケージング・ブランド戦略を構築する必要がありますが、これがまだ十分整っているとは言えません。
    • また、国内では消費量の減少・人口減少・農業従事者の高齢化など構造的な課題もあり、輸出を本格化させる“余力”に疑問が残るという分析もあります。

要するに、割高な生産コストをかけたコメが日本国内で余ったからと言って、海外で売れるのか?販売価格がコスト割れになるだけではないか?日本米はプレミアム商品であるとしても、海外市場で認知されているのか?・・・こんな当然の点が指摘されてくる。

トヨタ自動車がブランドイメージを築くだけでも長い年月を必要とした。海外で売るには、売るだけのマーケティング努力が要るということだ。いまでも高コスト体質の日本農業である。どこから規模拡大投資、農業労働者の雇用拡大、国際プロモーションのためのカネをねん出するのか?JA(農協)など、ノウハウも人材も、何ももっていませんゼ・・・

なので、米作に関する限り、お目出度いのはメディアの側、リアリティがどこにあるか(それも初歩的認識の範囲だが)を知っているのは新農水相であると感じた次第。

ただ新農水相の発言に非常に不誠実な部分もあった。それは

政府は米価に介入するべきではない。価格は市場にまかせるべきである。

この部分だ。

この「米価は市場にまかせる」という発言は現行の米価政策の現実に反している。いまガソリン税の暫定税率廃止で激論が交わされているが、コメも高い関税がアメリカなど輸入米に加算されているのだ。だから、国産米が競争力をもてている。その関税は日本政府が課しているのだから、関税を若干でも引き下げれば、日本国内の米価はたちまちの間に急落するはずである。この理屈は、ガソリン価格と同じである。

ただ売れなくなるのは割高な日本米。売れるのは安価なカルローズ米などだ。これが許せないと日本人が思うなら、高い米価は自らの意思決定の結果なのだから、これを嘆くべきではない。

ガソリン税は議論するが、コメ関税は口に蓋をして一言もふれない・・・触れずにおいて「米が高すぎる」という。しかし「高すぎる」ことの原因は追求しない。メディアの報道方針はそのようである    ―    さすがにコメが高いのは「円安」が原因だと、そうノタマウ阿呆な御仁は見かけないが、現代日本のこと、そんな人物が現われていた可能性はあった。

トラック運賃の上昇に困る財界からの苦情は受け付けても、エンゲル係数の上昇に困っている一般消費者の苦情は聞こえない振りを政府はしている。メディアもそんな政府の思惑に協力する。何かの見返りがあるのだろう・・・

だから日本の報道機関は不誠実・不正直だと思われて、信用されないのである。

以上、覚え書きまで。

【加筆修正:2025ー11ー01】

2025年10月27日月曜日

ホンノ一言: 「行政ミス」はあってもミスの責任を感じる人はいないであろう

小生が暮らしている北海道の海辺の小都市でも熊の目撃が市役所のホームページで公開されている。昨日は歩いて行ける程の地点で熊が複数回確認された。こんな状況では散歩するのも心配だ。カミさんは今は外出しないでと言っている。

こんな年は当地に移住してから初めてだ。

「まだ高すぎる」と世間で騒ぎがおさまらないコメは、Costcoで米国産カルローズ米が3000円/5Kgほどで買えるので心配はないが、熊にはホトホトまいっている。

思うのだが、「昨秋来の米価高騰」と「今秋の熊被害急増」。この二つは明らかに《行政ミス》であろう。地震は予知困難な天災だが、米価や熊被害は近年の構造変化、トレンド変化から予測可能であった(はずだ)。

一口に言えば、不作為の責めを負う。不作為とまでは言えなくとも、行政判断に見落としがあったことは否定できない。


判断ミスといえば、東日本大震災と福一原発事故ではどうであったかという議論はまだあるようだ。要約すると、大震災自体は事前予測困難。また津波による福一原発事故は、確かに社内の一部から注意喚起があったものの、大多数の情報は防災の十分性を示唆していた(と聞いている)ので、経営判断ミスがあったかどうかは断定が難しかろうと(小生も)思う。

コロナ禍への対応はどうであったか?防疫措置は十分であったのだろうか、自粛は効果的であった(のだろう)が、その反面で学童・学生へのしわ寄せが非常に過酷なものになった。「行政ミス」はなかったのか?

更なる検証が望ましいと思うのだが、必要性を指摘する意見は(少なくともメディアでは)ほとんど聞かない   ―   もし詳細に検証すると、メディアの報道ミス、解説ミスもまた検討の俎上にのぼるのは確実であるから、この辺を心配しての姿勢かもしれない。

もっと遡れば、1990年代のバブル抑制と不良債権への対応が適切であったかどうか、これもまた検証が不十分なまま残されていると思う。そこに行政判断ミスはなかったか?報道ミスはなかったか?国民の側の誤解はなかったか?

このように"further analysis"が必要であるにも関わらず、今は過ぎ去った過去の出来事だと忘れられている"disaster"は多い。

そのうち、誰か関心を持った人がゼロから調べて、本か何かにまとめるのだろうか?誰かが書評を書いて、何千部か売れるのだろうか?ひょっとすると、何かで受賞するかもしれない。しかし、社会的レベルでは小石が1個、池に投げられる時に出来る波紋のようなものであろう。

そのうち、そんな事は覚えていない世代が成長して、日本社会はリセットされ、リアルな大事件も歴史の中の一コマとなる・・・


日本という国は、そうやって大災害や大事件をやり過ごしてきた。しかし、自分が判断ミスをしたかどうかは、責任者当人は感じているはずである。自分の判断が適切であれば防止できていた(かもしれない)犠牲者の生命、犠牲者の遺族たちに、ずっと後年になってから痛切に思いをはせるのは、その人にとってとても辛い(はずだ)。

ただ「熊」にしても、「米価」にしても、関係機関、関係部署、関係者の数が多く、分担する責任も蜘蛛の巣のように絡み合っているため、実際には「自分の責任ではない」と。そう思う人が実は大半を占めているに違いない。


総理大臣もその権限は法で規定されていて万能ではない。多分、アメリカのトランプ大統領の10分の1ほどの権限もあるまい。県知事や市町村長に命令を下すことは不可。せいぜい「要請」だ。任命権者ですらないのである。

いま日本国に最高の統治者は存在していない   ―   この点は、日本だけではなく、アメリカ、欧州など全ての民主主義国でも同じで、権力は分立されている。三権分立はその一例だ。

なので、統治ミス、行政ミスがあるとしても、全てを引き受ける「統治者」がいない以上、ミスの責任を明確化できる理屈はない。

民主主義国は、全て《有限責任国家》である。一人の人間が権限として分担する責任は、実は小さなものなのだ。乗客の命を預かる航空機の機長の方が(機上では)万能だ。戦後日本では兵役の義務もなく、総理大臣は、理屈として日本人の命を預かっているわけではないのだ。


熊被害にあった人々には気の毒だが、地震や水害による死とどれほどの違いがあるだろうと思うと、暗澹とした気分になる。

日本とアメリカの大きな違いは、「自分たちを守るのは自分たちである」と、覚悟を決めて行動する当事者たちの意志を尊重する社会の気風にある。明治以後の日本は、「地方自治」が全くないか、もしくは不徹底で、全国一律の法で統治されるのが基本だ。そして日本人はそんな「国のあり方」にプライドを感じているはずだ   ―   小生はもっとも辟易するところだが。

そもそも熊もいない地域と大半の熊が生息している地域で、全国統一的な動物保護精神など運用されるはずもないわけである。

残念ながら、戦前、戦中だけではなく、個人の権利が重視されるはずの戦後においても、日本という国は日本人一人一人の生命をそれほど大切にする国ではない。自らを守る権利や、行動や選択の自由を社会全体でリスペクトする気風、感情がある国とは言えない。

尊いのは「国」であり、(日本人の?)「社会」である。尊重するべきは(日本人の?)「社会の意思」であって「当事者の意思」ではない。これが小生の日本観である。

だから、大切なのは、《国の法》であって、《社会の掟》であり、《地域》ではなく、まして、そこにいる《日本人》の命ではない。

建て前はともかく、現実はそうでありませんか?

【加筆修正:2025-11-06、11-10】



2025年10月25日土曜日

断想: 社会が深みをなくし浅くなる感覚?

ずっと以前、「新聞は世相を映す鏡」とまでは言えなかった。週刊誌もまた「世間の似顔絵」とは言えなかった。

今日のネットはどうだろう?

ネットは「世間を映し出す鏡」になっているのだろうか?

今日、何気なくネットを眺めていると、

暴力団関係者、半グレは世間の敵。根絶するように国に頑張ってもらいたいです。

こんな主旨のコメントが目に入った。

同様のコメントは星の数ほど寄せられているはずだ。


思ったのだが、作用には反作用がある。

世間に対して敵対的行為をとる人物がいる。反社会的組織がある。しかし、二つの側が対立しているなら、反社から眺めれば世間は反・反社という存在に見えるだろう。

世間に敵対する側が反社会的だと判断されるのは法律は絶対的に正しいという大前提に立つからだ。しかし、その法律は世間が決めている。世間が決めた判断を善として、それに従わない側を悪として、故に反社会的だと呼ぶ。これが人間社会の永遠の、というより現代社会のルールである   ―   法の論理を貫徹すればこれ以外の立場をとりようがない。

社会的な側は反社会的な側を「根絶」しようとする。根絶やしにしようとする。しかし、作用には反作用がある。根絶される側は、自らを根絶しようとする側を根絶しようとするだろう。互いにそれは正しいと認識するだろう。存在を認めないとはそういうことだ。

しかし、観察するに反社会的人間/組織は、世間を攻撃はするが、根絶しようとはしていない。敵対者を根絶しようと考えているのは世間の側である。部屋の清掃が行き届けば行き届くほど、わずかな塵も気に入らない。蚊一匹いても許せない。同じ心理である。

ここに非対称的な不毛を感じる。

今日は、北村薫『空飛ぶ馬』を読んだ。初めの『織部の霊』にこんな下りがあった:

手放しの愛情、己をむなしゅうするようなそれは、渇仰かつぎょうされるべき一つの境地のような気がする。

己が空しくなっていない状態で考える事には必ず《自我》に由来する煩悩が混じる。これは何回となく投稿してきたところだ。 

唯識論で想定する人間存在では、考える根拠である末那識そのものに《我》という仮想的存在が前提される。実在しない存在を実在するかのように考える。故に、煩悩から免れ得ないものとして、人間を描写する。

しかし「手放しの愛情」、己が混じらない愛は、確かにあるような気がする。西田幾多郎の《主客未分の純粋経験》を連想してしまった。

「我を忘れて」という境地で下す判断は、というよりそんな時の判断だけが、普遍性をもつ真の判断である。あとは個々の人間の考える判断で、自我に汚れている思考によるものだ。

「正しい自分たち」と「悪い反社会的人間」という分別にも、世間で共有される我執、我愛が染みついている。

随分以前にこんな投稿をしたことがある:

左衛門: あなたがたは善いことしかなさらないそうだでな。わしは悪いことしかしませんでな。どうも肌が合いませんよ。 

親鸞: いいえ悪いことしかしないのは私の事です。 

左衛門: どうせのがれられぬ悪人なら、ほかの悪人どもに侮辱されるのはいやですからね。また自分を善い人間らしく思いたくありませんからね。私は悪人だと言って名乗って世間を荒れ回りたいような気がするのです。・・・ 

親鸞: 私は地獄がなければならないと思います。その時に、同時に必ずその地獄から免れる道が無くてはならぬと思うのです。それでなくてはこの世界がうそだという気がするのです。この存在が成り立たないという気がするのです。私たちは生まれている。そしてこの世界は存在している。それならこの世界は調和したものでなくてはならない。どこかで救われているものでなくてはならない。という気がするのです・・・ 

倉田百三『出家とその弟子』の中の一節である。

どうも戦後民主主義に染まった現代日本からは、《深み》というのが消えてしまったような感じがする。 いま生きている世の中はどこか調和していない感じがする。だから《閉塞感》なる社会心理に覆われているのではないか?もし調和しているなら、成長率は低くとも、自足、満足、幸福感に支配されているはずだ。

こんな風に思ったりする最近です。


マア、河には泥や砂がたまって浅くなる。人間社会も油断をしていると、あるタイプの人間集団だけが生息可能で、非正規で非標準的な人間は棲めなくなってしまうのだろう。

「彼らは根絶するべき人たちだ」と発言する人が堂々としていて、世間に忖度しているのかわからないが、異論も反論も出てこない。それが正しいと思い込んでいるのでありましょう。それこそ仏教でいう煩悩三毒の筆頭である《痴》。即ち、無知である故の迷いであります。迷いの自覚がない凡夫の信念ほど始末のおえない厄介者はない。

多くの人が、そんな風である時、社会は四分五裂するのだと思う。「戦国時代」とはそんな時代の(一つの現象的な)帰結であったに違いない。


近世の英国人・哲学者ホッブズが洞察したように

本来、人間社会は万人の万人に対する戦いである。

敵と味方の二つに分ける態度は愚かさを映す鏡である。二つには分けられない。味方と思う世間の人々もまた《私》にとっては敵であることを知る。人間社会に敵と味方はない。敵といい、味方と言い、そんな観念自体が一つの虚妄である。これを《遍計所執》と言うことは最近勉強した。

【加筆修正:2025-10-26】

2025年10月21日火曜日

ホンノ一言: 国債の需要創出へ「家計が吸収する仕組みを」・・・ついに出てきましたか

 <財政破綻>をキーにしてブログ内検索をかけると、夥しい数の投稿がかかって来る。繰り返しになるが

思うに、王朝が宮廷の華美によって次第に退廃し、財政が破綻するのと同様に、民主主義国家も自らの過大な要求から財政肥大化を免れることはできず、結局は破綻する。

もっとも最近ではこんな下りを書いたのが、本年6月の投稿だ。そうでなくとも、高校の世界史の授業では「朝廷の財政は破綻し、地方では内乱や暴動が頻繁に発生した」という説明を何度聴いたことか。財政が破綻すると、内乱が起きるのは、軍事費が捻出できず、兵士の給料すら未払いになるからである。そんな状態では正規軍も出動出来ないよねと  ―  世界史の先生、こんな風に分かりやすく説明してくれていたかナ・・・?

江戸幕府の瓦解も遠因は《財政破綻》と《財政健全化の失敗》である。これに成功したのが西南の雄藩、即ち薩摩と長州であったことも日本史の授業で習ったはずである。

《財政破綻》は、民主主義国、社会主義国、帝国・王国を問わず、一つの国が衰退する共通の兆候である。

難しい理屈は専門家に任せ、《財政破綻=崩壊への前兆》ということ位は知っておくべきですぜ・・・というのが経済学の初歩中の初歩という所だ。日本のメディア業界にこの認識が薄いのは、シンプルに大学で真面目に勉強した人材が入社していないということだろう。

財政が破綻への方向を辿り始めると、中央政府(及び地方政府)の債務が膨張する。破綻とは赤字拡大が制御不能になるということだ。

財政赤字は、当初の段階では制御可能だとみな考える。国債を引き受ける金融機関や家計が見つかるのも政府が(ある意味)信用されているからだ。信用されていない政府の公債なら金利を30%にしても誰も買いやしません   ―   いまアルゼンチンがそうなっています。

さて、今日の日経にこんな記事が載っていた:

政府が発行する国債を巡っては、買い入れを減らし始めた日銀の穴をどう埋めていくかが課題だ。財務省理財局長を務めた野村資本市場研究所の斎藤通雄研究理事は日銀以外の国債保有額が年50兆〜60兆円増えていくとの見方だ。市場の安定には家計を含めた民間需要を高める方策が必要と指摘する。

Source: 日本経済新聞

Date: 2025年10月21日 

財務省元理財局長がこんな発言をしているそうだ。

日銀が国債を引き受け続けて、その果てに金利引き上げを迫られ、国債相場が値崩れすると、日銀の経営が不安定化し、円安が進行し、国内のインフレに歯止めがかからなくなる。これが《通貨の崩壊》という現象だ。《円の敗北》とも言える。

だから日銀は保有している国債を徐々に整理していく方向である。しかし、いまの日本社会では《国への依存心》が高まるばかりで、誰も財政破綻と社会の崩壊を心配しない。国債の引き受け手を見つける必要がある、と。そればかりを言うのは、一言で言えば、(どこか)安心しているからである。

そこで日本の家計に国債を買ってもらう。上の発言の主旨はこういうことである。

これを読んで、小生は太平洋戦争開戦を可能にした《臨時軍事費》という言葉を思い出しました。

戦争状態が継続する限り、陸海軍はいくらでも予算を確保できる。その制度的裏付けが整ったところで、戦前期日本の陸海軍は対英米開戦までも決意することができた。また、議会にはそれを停める手段がなかった。

このエピソードを思い出したわけだ。

仮に、本当に日本の財政が破綻しても損をするのは国債を買った日本人である。「なくしたものはしゃんめえ!」とばかりに日本人が我慢すれば、アジア危機のときの韓国や、財政危機の時のギリシアのように、海外に利払いを継続するために、強烈な緊縮生活をおくることにはならない。どちらにしても、国債を多く保有するのは日本の富裕層であるに違いない。富裕層が資産をなくしても、庶民はかえって愉快であろう。格差は是正された!こんな感覚もあろう。

・・・しかし、富裕層が資産を失くすというのは、日本人全体の資産がなくなるということでもある。

財政赤字を国債で補填し、その挙句に財政が破綻するという事は、その間ずっと、国内の資産を食いつぶしてきたということと、同じ意味である。

つまり、財産税こそ実施はしなかったが、国債を買わせることで政府が合法的に富裕層から資産を強奪したわけである、ナ。食いつぶす資産がなくなった時点で、財政赤字は継続不能となり、そこで財政が現象的にも破綻する。

富裕な日本人と貧困な日本人が混じっているよりは、日本人は全て平等に貧乏人ばかりである方がまだマシであると、その時になって思うかどうかは微妙であろう。

上の元財務省理財局長だったかナ(?)、この発言は要するにこういう方向に行くしかないということでしょう。いよいよ現代日本社会も最終的崩塊が見えてきた感じだネエ・・・そう感じました。

しかし、救いもある。

いま日本で暮らす富裕層に国債を買ってもらおうとすれば、インフレ率が不透明ないま、5年物で金利5%がほしいと小生なら思う。

日本では新規購入は出来なくなってしまったが、例えばアメリカの"Ares Capital”(ARCC)を買えば利回りは9.84%に達する。これは極端としても、最も安全な米国債10年物なら利回りは本日現在で4.25%である。こんな国際的投資環境の中で、日本の国債は10年物で1.70%である   ―   そりゃあ、日銀が引き受けてきましたから・・・

政府が買ってくださいという国債を買うか?・・・買いませんよ。こんな低い利回りの債券など。それに10年たつうちに日本政府の国債自体、紙くずになるかもしれません。インフレと円安はリンクしてますから。日銀に引き受けさせるのは危ないから家計に買わせようなあんてネエ⋯⋯、江戸時代の勘定奉行だってここまで冷酷じゃあありませんよ。

つまり、財政が破綻する危険性は、今のままではアメリカよりも日本の方が高い、と。そう観ているのだ。上の財務省元理財局長の発言だが

日本の家計を深堀りするとともに、国際金融市場でも広く、増発される国債を消化していきたい

もしこんな提言なら、小生は大賛成である。「大賛成」というと語弊があるが。

日本の国債を海外諸国も広く保有してくれれば、「非常識な財政政策」に対して、国債の売り浴びせという形で日本政府に警告を出すことが出来る。日本人が求めても、資本市場がその非合理性を指摘する道が開ける。

愚かな日本人の独善を国際資本市場が指摘してくれるとすれば、実に、実に有難いではないか。戦前期日本もオープンにしておけば日本国民にも良かったのである。そうすれば「臨時軍事費」などという愚策が議会で通った直後に円は暴落していたに違いない。

無知な日本人を騙して、挙句の果てに国債が紙きれになるような失敗例は、昭和10年代、20年代だけにしてほしいものであります。


民主主義を健全に運営するには、しっかりとした庶民層がまず存在していなければならない。そんな庶民を形成するには、しっかりとした義務教育・公教育があって、人的資本への投資を安くしておかなければならない。現代は、(アメリカも似たような状況だが)社会のマス層が(自壊というわけではないが)崩れ始めている。

そんな社会状況で民主主義を健全に運営するのは無理である、と。小生はそう観ております。

政策の基礎は財政である。国際資本市場とつながっていれば、いくら民主的決定であっても、愚かな財政は市場がチェックして、実行はできないのである。

真理は民意に勝る

これは救いだ。



 


2025年10月18日土曜日

断想: 不確実な混乱の時代にどう生きて行けばいいのかという問いかけ

年内には新政権の骨格が決まるかネエ、と期待(?)していたのだが、維新の会が立民・国民、更には公明(?)など野党各党のまとまりの無さに嫌気がさしたか、敵対する自民側に抜け駆け(?)をしたようで、どうやら来週には高市首相が首班指名で選ばれそうな状況になって来た。

「抜け駆け」と上では書いてしまったが、維新の会の立場から言えば

立民と国民と、二党が合意できるようであれば、維新の会も合流する

基本方針はそもそもこうだと語っていたわけで、二党合意が覚束ないとなれば、思い切った譲歩を提案してきた自民側を助太刀するとしても、何も不義理をしたわけじゃあない……自らを高く売るのは当たり前の「合理的行為」である。


この位の理屈は誰でも理解していると思うが、日本ではこれを

洞ヶ峠を決めこむ

と言う。秀吉と光秀が戦った山崎の合戦で洞ヶ峠まで出陣したもののそのまま様子見を決め込んだ筒井順慶を諷していうのだが、賢いようでいて、それ以後は信用を失い、常に疑惑の目で見られたことの犠牲は大きかった。順慶は苦労の多い戦後の人生を生きた果てに若くして死に、家はゴタゴタが相次ぎ、豊臣派と徳川派に分かれ、結局、大坂夏の陣を待たずに断絶してしまった・・・と思ったが、確認すると夏の陣が5月、順慶の養嗣子・定次の切腹と筒井家断絶が3月であった。豊臣と徳川の間で曖昧な態度をとる筒井家に疑惑をもった幕府が、夏の陣を前に禍根を断ったのであろう。

山崎の合戦を前にした順慶の小賢しい行動が、筒井家の印象を決定づけ、それがずっと後になって支配者の疑惑を招き、御家断絶へと至ったわけである。

混乱の時代には、単勝ではなく複勝で賭けたい、保険をかけておくのが賢い作戦ではあるはずなのだが、競馬では通用しても現実世界の修羅の道では

定石、必ずしも正解ならず

である。慎重に両賭けすることで、かえって墓穴を掘る結果になる例は史上に多い。


カネが資産ならいわゆる「合理的行動」で正解だが、それはカネがヒトではないからだ。ヒトの心に育てる信頼が資産なら、自分の「合理的行動」が資産喪失の原因になることがある。

敗北の原因は色々とあるのである。

それは自らの行動が合理的だと判断したその思考回路が、そのときの状況(=ゲームのルール)を支配している戦略的ロジックに当てはまっていないという、その事実を見過ごすこと、ここに敗北の原因があるわけだ。

とはいえ、

いずれが勝つかを見極めるのは非常に困難だ

混乱期とはこんな時代のことを言う。つまり見通しには不確実性がある。今もそうなのだろう。


不確実性の下で(定石であるはずの)二股を賭けると、これまたリスクとなりうる。困ってしまう……。そうであるならリスクから身を遠ざけるしかない。つまり

そもそもリスクを回避したいなら、勝負の場には身をおかず、何もせず傍観に徹し、事後的に勝者への忠誠を誓う。

これが《ハト戦略》であって、混迷の時代で身を全うするなら唯一の選択肢であるかもしれない。「長いものには巻かれる」戦略でもある。よく言えば「明哲保身の道」にもなる。

才能はあっても(あるいはホドホドでも)安全な人物は、使える人物でもあり、平和な時代には必ず需要される。ほとんどの人は、こんな方針で人生を送っているはずだ。単に才能がないだけなら人目を引かず警戒もされないので安心してよい。身を滅ぼす危険があるのは、才能がなくて、欲がある人物だ。目標のある人物、野心(≒向上心)がある人物も危険である。そんな人物は自ら修羅の道を選ぶ。同レベルの人物と結託しているうちは大した結果も出ないのでまだよい。しかし、才能あるリーダーと競うときがやってくる。その時になって協調の意志を示しても遅いのである。才能あるリーダーは才能ある配下を見分ける。故に、危険だけがある才能不十分な人材は排除されるのである。


自分の鑑識眼に自信があるなら

自分の眼を信じる

これも可である。そうすれば、リスクへの恐怖、リスク回避願望が、自らの心の中で高まることはないのである。自信をもってオールインを敢えてとることが出来るはずだ。

今回の維新の会の選択が、上に述べたどのケースに該当するかは、追々、分かって来るだろう。


2025年10月14日火曜日

覚え書き: 「国民」とか「民意」などと耳にする時の感想

小生が若かった時分にはそれほど耳にしなかった言い方で、最近になって呆れるほど頻繁に耳に入る言葉に《国民》や《民意》がある。


メディア業界に従事する人のボキャブラリーが貧困化していて、何から何まで「民意」、「国民」と言って済ませてしまう傾向があるのかもしれない。あるいは、真の意味で日本社会が非民主化していて、「言論・表現の自由」や「人権の尊重」が色々な理由で損なわれている、そんなリアリティがTV、新聞、SNSの場に反映して、いま「国民」とか「民意」という観念が大事になっているのかもしれない。

要するに、おしゃべりの短期的流行か、流行ではなく実体的原因のあることなのか、いま一つ識別できないでいる。

ただ思うのだが、

国民の意志や民意という意志はそもそも実在しない。民主的社会に「合理的意志」というものは存在しえない。これは既に証明済みの定理である。

これが小生の社会観である。

大体、考えても見なセエ・・・

数名の家族に限定しても

家族の意志というのはありますか?

ないでしょう、そんな「意志」は。お父さんの意志、お母さんの意志、子供の意志、それぞれ別々にある。いや、「子供の意志」と言うのは不可だ。お姉ちゃんの意志、男の子の意志、それぞれが違った意志である。

そもそも

あの家は・・・、男は・・・、女は・・・

という言い方は、ハラスメントに該当する。

ここで集団意思の決定方式に議論を落とし込んで

そんなときは、多数決によるべきですネ

この経路が標準的な手筋なのだと思う。

エッ、多数決!?

経済学者や社会学者は集団意思を決定する方式に何かといえば「多数決」を口にするが、家族ですら多数決で物事を決めてはいけない。そんな当たり前のことは熟知している人が多いはずだが、なぜだか言論や論説になると、当たり前の認識がスッポリと抜け落ちてしまう。

家族ですらそうだ。町全体ならどうか?小生が暮らしている北海道の海辺の小都市ですら「市民の意志」なる意志はありません。まして「北海道民の意志」なる意志があると本気で考えている人は

この人が言っていることが北海道民の意志なンです

と、その存在を指し示すことが出来るのか。現実にはありそうもない情景だろう   ―   まさか道知事という一人の人物を指す人はおりますまい。もしそんな人がいれば、余りの精神的幼さに絶句するくらいだ。

「日本国民の意志」なる意志が実在しないことは、本当は誰もが知っている事実だ。それでも報道業界に従事する人々は「国民」とか「民意」という言葉を使用している。ないものをあるかのように説明するのは、端的にいって「欺瞞」である。


何が言いたいかといえば

経済学者が「市場に任せるべきです」という時の「市場」と、社会学者や政治学者が「国民の意志によるべきです」というときの「国民」は、学問では不可欠の術語だが、実際には実在しない抽象概念だということだ。

これが本日投稿の主旨である。

報道やニュースの現場では抽象概念は口にしない方がよい

これが最近の感想です。(現実世界には存在しない)抽象概念という点では、「国民」や「民意」と口にする時の認識状態は、浄土系仏教の念仏やキリスト教系の懺悔をするときの思い、つまり《宗教感情》と全く異なる所がない。


社会や人間集団においては、集団の《意志》ではなく、問題解決の筋道、筋道が正しいということのロジック。その普遍性。ギリシア風にいえば《ロゴス》の普遍性に信頼を置くことによって、問題は現実に解決されうるのである。

問題解決への筋道が「国民の意志」に適っているかは実は重要ではない。そんな意志はそもそも存在しない。敢えて言えば、《快・不快》の社会的心理状態くらいは確かにある。ではあるが、というより猶更のこと、普遍的なロジックに従って導かれた結論なのか、重要なのはこの一点だけである。

小生は、世間で共有(?)される心理的な快・不快の感情こそ最も重視するべき政治的要素だ、と。こんな風に指導者層が考え始める時が、民主主義が劣化し、堕落する時である。こう思っております。


・・・なので、「こりゃあ、あかんわ」と感じながら、将来の生活環境を予想しているところだ。

本日投稿で残った論点は、

(唯一か、最適かはさておき)「正しい」、というより最悪ではないベターな解決方法が、現実に選択可能な唯一の決定方法である「多数決」によって選ばれる論理的根拠はあるか?

こんな現実的な疑問だが、これは相当に難しい理論的問題だ(と思う)。宿題にして、おいおい調べることにしよう。既投稿の中では以前のこれと関係があるかもしれない。

以上、覚え書きまで。

【加筆修正:2025-10-15、2025-10-17】

2025年10月11日土曜日

ホンノ一言: 老舗・自民党という政党も終わりが見えてきたか?

自民党という老舗の保守政党も、議員個人単位の政治献金を死守したいばかりに、最終的に消滅していく可能性が出てきた。


(表向きには)今回の自公連立解消の主たる理由が政治献金の透明化への自民党の抵抗であると伝えられている。

公明党の案は国民民主党と共同で(?)まとめたもので、この8月には立憲民主党までが公明・国民民主案を叩き台にしながら、合意に向けて協議を始めようと石破現首相にもちかけたこともあったそうな・・・

ところが現段階においては高市新総裁が公明党の要求を(事実上)「拒否」したと報道されている。マア、少なくとも「連立」をとにかく続けてもらえば、後から「党内的にあれは難しい」と、そんな線を狙っていたのかもしれない。

公明・国民民主の案と言うのは

企業・団体献金を存続させた上で、献金を受け取れるのを、政党の本部と都道府県単位の組織に限定するものだ。国会議員や地方議員らが代表を務める政党支部は受領を認めない。

こんな概要だ。

要するに、議員個人単位の政治献金は認めず、献金は「政党」を単位とする。ここが改革と言えば、確かに「大きな改革」になっていると思う。小生は大賛成である。


ついこの間、本ブログにこんな事を書いて投稿した:

政党を「政治結社」にするわけだ。言葉の定義上、「政党」として当たり前の事柄だと思う。「総合的ヴィジョンと政策」を公開しない政党は、たとえ一定数の得票、国会議員数を確保しても「政党交付金の不交付団体」であることを公示の際に明記させる。

自民党は、「懐の深い党なンです」と、あたかもそれが自民党の長所であるかのように解説する「政治評論家」が多い。しかし、言葉を変えれば、政党としての「政治路線」がない、「理念」がない。実際、現在の自民党の理念と言えば、せいぜいが「反共」と「天皇制維持」、「日米安保体制維持」この三つくらいであろう。有権者にとって最も重要な経済政策はと言えば、実は何の定見もない、というのが「偽らざる真相」であろう。

そう言えば、ずっと前に、戦後日本を支える三本柱は

アメリカ、皇室、自民党

の三つであると投稿したことがある。


その自民党を、ざっと大括りにして形容すると、「政党」というよりは議員個人単位の活動を全国ベースで助け合う「選挙互助会」に似ている。こうした日本的状況は、日本の政党が誕生した歴史的背景に由来するものだ。西欧先進国のようにまず社会的対立構造が先にあって、後から政党が支持基盤ごとに自然発生するという順序ではなく、日本では明治初め、まだ社会経済的な対立構造が成熟する以前に、薩長藩閥政府に対立する自由民権勢力という集団があって、それらの反主流派が政党を結成した。

自由民権運動の中で誕生した当時の「自由党」や「立憲改進党」は、日本経済の中からというより、思想、人縁、地縁によって生まれた人的集まりでしかなかった。西洋社会の政党とは発生の由来が逆であったわけだ。ずっと後になってから、地方豪農層が支持する政党と、都市の新興階層に人気のある政党と、何となく二つに分かれてきたのは、人のつながりを辿ればそう分かれて行ったということで、多分に偶然である。戦前期・日本の「二大政党制」は、支持基盤が社会の中に実在する本物の二大政党制とは言えなかった、というのが小生の戦前観だ。

日本の政党が、「政治結社」というより「互助会」のようにみえるのは、経済的利害ではなく、地縁・人縁から助けあう人たちの集合であるためだ、と。こう思って観てきた。


ま、これはともかく、

現代的政党に再編成できないなら、自民党はもう終わりだ

いまこんな風に観ている所であります。そして

野党にも上のトレンドは当てはまる。

今日はこんなところです。


本日投稿で書いたのは、政党の現代化が求められるということだ。選挙制度の現代化とは別の話しである。政党政治と選挙は表裏一体、密接不可分であるわけではない。特に、オープンな選挙が、敵対する複数の外国勢力のターゲットになりやすい時代なら猶更だ。議員の選出は、また別の観点から現代化するべきであろうが、それは政党組織の現代化とは別の問題であると思う。以上、念のため。



2025年10月10日金曜日

ホンノ一言: クリントンの"It's the economy, stupid."、日本にだけは当てはまってないのかも

選挙がある度に日本人が最も関心があるのは「暮らしと物価」であるという事実は誰もがもう知っていることだ。つまり、経済問題こそ仕事をして暮らしを立てている有権者なら最も強い関心をもっている分野なのである(はずだ)。

これはアメリカも同じで、ビル・クリントンが1992年の米大統領選に打って出た時

"It's the economy, stupid"

要は経済なんだヨ! 愚か者が!!

オバマ大統領の

Change! Yes, We can!!

変えよう! ああ、できるとも!!

も有名だが、クリントン候補のこのスローガンは中身があるだけに非常な迫力があった。選挙必勝の戦略は、いつでも「経済政策」なのである。

フランスのマクロン大統領が信頼を失っているのも、インフレなど経済問題が根底にある。ドイツの政情不安がずっと続いているのも、確かに移民政策の失敗もあるが、エネルギー不安、生活不安、要は経済問題である。メルケル首相が16年間の長きにわたって宰相の座にあったのも、独ロ関係を安定させて、ノルドストリームを毅然として建設し、ドイツ経済の繁栄を導いたからである。その当時、一体ドイツ人の誰が、

ロシアと親密な関係を築いて、何か不都合が起きるのではないか・・・

こんな漠然とした不安を訴えていたか?

余程の変人だと言われるだけであったろう。

共産主義を放棄したロシアとの融和に不安を覚えたのはドイツ人ではない。英国と米国である。その果てに、今回のロシア-ウクライナ戦争がある。そして、ドイツはいま混乱しているが、これが米英のそもそもの世界戦略ではなかったかと小生は邪推している。

ことほどさように国を問わず、時代を問わず、最重要なはずの経済問題。日本人はどれほど自分の頭で考えようとしているのだろう。少しでも自分で考えようとしているなら、理にさといメディア業界がほおってはおかないはずだ。ところが、ワイドショーも情報番組も、ニュース番組も、経済分野の報道、解説にはあまり時間を割いていない。

「わかるだけの頭がないんだよネ」と心配なら、「経済戦略臨時調査会」なり、「経済審議会」なりを設置して、一流の専門家を集めて、公開で検討すればよいではないか。これなら中継報道できる。しかし、こんな提案をする政治家、ジャーナリストは一人としていない。

ということは、経済問題にはそもそも(ホンネでは)大した関心をもっていないのである。暮らしのことは、政治家におまかせだ。まかせているはずの政治家が、生活を楽にしてくれないので、腹が立つ。現時点の国民心理は、多分、こんなところではないだろうか?

大体、自民党と公明党の連立協議が不調に終わり、自公連立が崩壊したとして、それがどれほどの意味を持つのだろう?・・・日本人の暮らしには影響しませんよ。

日本経済において解決を要請されている問題は、自公連立とか、野党統一とか、そんな下らない些事とは関係なく、特定の形をとって現実に存在している。

  • 総需要が超過している時に需要を刺激すればインフレが激化する。
  • 労働生産性を上げずに、賃金を上げると、企業経営が不安定化するだけだ。
  • 政策目標の数と同じ数の政策手段は常に確保しておかなければならない。

等々、等々。

  • 医学の水準が低ければ、治る病気も治らない。医学の発達と水準次第。
  • 経済学のレベルが高まれば、経済政策のレベルも高まる。
  • 医師が治そうとしなければ病気は治らないし、政治家が必要な政策を実行しなければ経済問題は解決しない。市場だけではダメである。

ロジックは簡単で何も複雑な迷路に落ち込んでいるわけではない。


現在の経済問題への正しい取り組み方というのは、経済学の知識から大体のところは分かっていて、政治家が腹をくくって実行すればよいだけである   ―   それが中々難しいわけなのでございましょう。

それが出来ないでいる・・・確かにこれは一つの「政治問題」だが、将棋と同じで

もし手を付けなければ、〇〇〇〇となる確率が高い。

こんな予測なら現在の計量経済学の技術でも可能だ。というより、以前は結構そんな数字を政府は出していたし、メディアも数字を報道していた。数字を報道するあまり、数字だけが独り歩きすることが問題であったのだ。

4年、5年という長さの中期予測になれば、あらゆる与件が変化するので、経済予測の精度は大きく落ちる。しかし、1年程度の予測なら大いに参考に出来る程度の政策シミュレーションは今も可能である(はずだ)。

なぜ予測計算をグラフにして報道しないのだろう?政府内にそれが出来るスタッフはいるはずだ。

これが小生には《日本メディアの七不思議》になっております。多分、経済では視聴率がとれない、新聞が売れない、雑誌が売れないという、そんなマーケティングの事情があるのでござんしょう。

どの政党がどこと組むかなど、高級なエンターテインメントとしか思えない。端的に言って、下らない。実在する問題と問題解決の可能性に注意を集中するべきだ。

エッ、それが出来ない。出来るはずのことができない、と。政治家と日本のマスメディア業界は、ホント、似た者同士なんだネエ・・・そう思います。


「物価だ、減税だ、最低賃金だ、エンゲル係数だ」と騒ぐ割には、日本だけは

Stupid! It's the economy....,   except for Japan.

クリントン候補の選挙スローガンも効果が出にくい国、それがどうやら日本であるようで。

2025年10月7日火曜日

ホンノ一言: もう「総裁後見役」を正式に設置してはどうか?

自民党新総裁に高市早苗氏が選出されたというので、少なくともその瞬間には、驚きが日本社会に広がったように観られる。

しかしながら、「初の女性首相」という言い方自体、もう時代からずれているというのは、以前の投稿でも触れたことがある。

もう日本人の誰も、女性首相の実現に驚きゃしませんテ・・・

驚くのはマスメディアのスタジオ出演者くらいでござんしょう。

まあ、そんなところです。

早速、党役員人事が情報番組を賑わせている。麻生元首相が副総裁、その義弟である鈴木氏が幹事長などなど・・・

思うのだが、

もう副総裁じゃなくて《総裁後見役》を正式に設置すればよいのではないか

そう感じます。

何だか、徳川家茂将軍を支えた将軍後見職・一橋慶喜を連想させて、いかにも「頼もしい」ではないか   ―  かたや江戸幕府の将軍後見職は就任当時25歳、現代の総裁後見役は85歳の高齢者であるが、どことなく(経済大国が変じた)「老大国・日本」を象徴しているようで、これまた自然に感ずる。

どちらにしても、幕末の江戸幕府と同様、高市自民党総裁も熱い志はあれど、実行は困難であろう。一強と言われた安倍晋三元首相ですら、最終的目標である憲法改正はかなわなかった。ここ日本では、思うことが実行できる政治家は出現不可能なのである。

それでも「天皇の男系継承維持」、「憲法改正」にかける想いには共感を感じる自分がいる。しばらくは安心である。何か手を打ってほしいものだ。反面、経済政策の方は今からもう不安であります。自爆しなければイイですがねえ・・・というところだ。

日本の政治構造の特徴は、頻繁に《権力の二重構造》が現われる所にある。

平安時代の摂関政治も、その後の院政もそうだ。徳川幕府の将軍-幕閣の関係もそれに近い。明治天皇が成人しても天皇は思う事の半分も通らず実権は元老に握られていた。昭和になっても天皇の主張でなにか通ったことがあったか?東条英機首相ですら意図したことは陸軍内部の反対にあって実行はできなかった。

日本政治は決定権者が決定できない。故に、実質的決定権者が可視化されていないという点に特徴がある。


だから、公式の党総裁選挙といっても、選ばれたトップが何かを決めるわけではない。トップにそんな力を与える国ではない。

アメリカのトランプ大統領をあやつる裏の権力者がいるとは誰も報道しない。フランスのマクロン大統領が頼る裏の最高実力者が誰かいるとは誰も言わない。中国の習近平もロシアのプーチンもそう。海外の執政責任者は、文字通り、定義通りの責任者である。

ここ日本では、そうではない。

日本の政治権力は、多くの場合、二重構造をしている。実権がトップにはない国なのである(と観ております)。

トップが文字通りの「トップ」であると信じているのは、素朴で善意に満ちた「有権者」なる人たちだけであろう。信じているからか、話題にしてはいけないのか

私たちが選んだのはトップではなかったの?

こんな疑問を正面切って問う人はどこにもいない。真の権力者は人目につかない。(知る人は知っているが)静かに権力を行使する。これも「日本風」の一つか。

2025年10月4日土曜日

断想: 夢で見た不思議な四文字熟語

昨年の秋の今頃は寺で相伝を受けるために毎日歩いて通っていた。その最後の日は毎日三百遍の念仏を誓うかと問われ「誓う」と応えるという儀式で終わった。それから、色々と試行錯誤をしてきたが、結局、日常勤行式に従って「香偈」

願我身浄如香炉 (がんがしんじょうにょこうろう) 

願我心如智慧火 (がんがしんにょちえか)

念念焚焼戒定香 (ねんねんぼんじょうかいじょうこう)

供養十方三世仏 (くようじっぽうさんぜぶ)

から始めて、「送仏偈」
請仏随縁還本国 (しょうぶつずいえんげんぽんごく) 
普散香華心送仏 (ふさんこうけしんそうぶつ) 
願仏慈心遙護念 (がんぶつじしんようごねん) 
同生相勧尽須来 (どうしょうそうかんじんしゅらい)
で終わるパターンを、この半年以上は続けてきた。

ところが、最近寝坊をしたことをきっかけに、法然がすすめる「専修念仏」でやってみようとやり方を変えてみた所、これが至極心境にマッチして、いまは月曜は日常勤行式に沿って、それ以外の日は専修念仏で四百遍を称える習慣に変わった。今朝は五百遍の念仏をした   ―   「した」とは言えない程に僅かであるが、「一念十念に足りぬべし」と法然も書簡に書き残している。続けることに意味があるのかもしれないし、三万遍に段々と近付いていくのかもしれない。三万遍となると、15時間ほどはかかる計算だから、起きている時間の大半は念仏をしていることになる。この辺も含めてすべて主体的動機に任されている点が「進んでいる」と小生は感じている。

余計なことは全て阿弥陀仏からみれば「雑業」であると割り切り、念仏こそが浄土三部経に明記されているとおり「本願」であり、大事なことは阿弥陀、というより仏になる前の法蔵の本願を信じ、それに沿う事であると論じた法然は、ある意味で《信》は《宗教的儀式》に勝るとした宗教改革者・ルターと相似形の役割を日本仏教において果たした、と。そう理解してもよい。親鸞は法然が見出した他力本願念仏を精緻化して継承したわけだ。

藤原定家は『明月記』の中で、上司・九条兼実が念仏という新興宗教にのめりこんでいると、非難がましく述べているが、結局、当時の異端が江戸時代には最大の信徒数を抱え、その状態が現代にまで至っている。何か本質的なことが長い時間の中で現れたのだと思う。


専修念仏をしていると心が定まるのは、800年も前に生きた法然や親鸞、鎌倉武士の熊谷次郎直実や宇都宮頼綱、歌人・式子内親王が、なんだか近しく感じられるという事もあるのだが、法然の師・善導も法然よりは550年程も昔に生きた中国僧である。法然が夢の中で師・善導に会う場面は画に描かれている。

同じ道を歩く人が、同じ時代、目に見える場所にいれば、確かに心強くはあるかもしれないが、人というのは無常である。生きた人間同士の人間関係ほど儚いものはない。

師友・知友・心友は時間を超えて成り立ちうるものである。


今朝、夢の中で、ストーリーは忘れたが、
奉事能応
という四文字が紙に書かれていて、それが妙に明瞭に起きた後も記憶に残った。

こんな熟語(?)はこれまでに見たこともないし、考えたこともない。ChatGPTで調べてみても、こんな熟語はないという。

しかし、意味はある。読み下すとすれば
事を奉じて、応え能わん
あるいは
事を奉ずれば、能く応えん
仏教では事理という熟語をよく使うが、「事」は個々の現象や出来事、「理」は普遍的に働く根本法則だ。「奉じる」の「奉」は「奉行」の「奉」でいわば管理する・処理するという意味に近い。

であるから、「奉事能応」という文字は

(色々な)物事を処理して、(期待に)応えましょう

という意味になるだろうし、あるいは第二の読み方をすれば

(小生が)物事に向き合えば、(仏は)応えることが出来るであろう

マ、こんな風にも解釈できるかもしれず、何の前触れもなく、こんな四文字が夢の中に現れて目が覚めるというのは、不思議に感じた。

この点で、本日の投稿は、先日投稿の補足をなすかもしれない。

世界観や、生命観というのは、現代社会では主として科学分野から説明されるものと決まっているが、何度も書いているように、現代科学は《唯物論》という特定の思想を(当然のように)是としている。そう言っても(まず)間違いはない(と最近はみるようになった)。測定可能な対象を考察するというのは、どこかしらで観察可能なモノが実在するという前提に立っている、と。そう思われるのだ、な。

昔、恩師に「効用関数が特定の形をしているかは観察できないと思いますが・・・」と質問したことがある。これに対して「それは分析概念」だよ」と応えられたものである。その時は、ピンと来なかったが、直接的に観察可能でなくとも、観察可能な数値の変動を説明できる抽象概念は実在している(かのように)と理解する。まあ、そんな意味だろうと後になってから(ある程度)分かるようになった。

「効用指標」という形で目には見えないが、数値化はできる因子が、消費者の心の中に実在して、経済行動に影響を与え、これを決定している、と。こういう見方は、効用関数は実在しているという立場と同じである。

自然科学、社会科学を問わず、科学が説明しようする世界は、目には見えなくとも、測定可能で、数値によって表現できる範囲に限られている。つまり、経験されるこの世界以外に、いかなる世界(=色々な要素が存在する空間)も存在しないという大前提にたつのが科学的世界観である。

この世界観は明らかにおかしいよネというのは、最近何度も投稿している通りである。

世界をどう考えるか、人間存在をどう考えるか、生命をどう考えるか等々に関することは、自分自身の経験や思想を科学的思考にぶつけて、両者の衝突の結果として形成される(はずの)ものである。いくら論理を構築しても、つまりは主観である。

鵜のみにしない方がよいのは、何も流言飛語や自己宣伝ばかりではない。客観的真理だと信じられている科学者の言もまた、自分が納得した上で信じるべきものである。

数学と物理学の両面で「大学者」と評価されたワイルは、短編『人間と科学の基礎』の序論に中世の哲学者・クザーヌスの言を引用している:

私たちの知識の中で数学の外に真なものはない

こんな言葉を議論の発端にしている。科学における数学はモデルであって、モデルは真理とは合致しないものである。単に観察した事実は、事実であるかどうかさえ怪しいものである。

なるほど数学的議論そのものに「自我」や「偏見」が混じるはずがない。しかし、モデルには人間の思い込みや価値観が混じる。更に、西田幾多郎ではないが、主客未分の「純粋経験」もまた真理性を有すると言えるだろう。

【加筆修正:2025-10-09】

2025年10月1日水曜日

断想: 「生死を出る」という表現は確かに「科学的」ではないネエ

統計分析を専門としてきたせいか、ずっと観察可能な現象で世界は説明できると考えてきた。典型的な《科学主義者》である。最近流行のエビデンスを何よりも重視する立場にいたともいえる。

科学の特徴は、世界の出来事はつまるところ観察可能である、観察可能ということは、大雑把に言えば、モノとして理解するということだ。つまり《物質的世界観》が根底にある。唯物論的世界観と言っても可であろう。

デカルトは宇宙については機械論で説明しようとしたが、哲学としては物質的存在と精神的存在を区別する二元論的立場をとった。

この点では小生はデカルトに共感する。科学主義では本質的な説明が不可能な対象もありうることに気がつくに至った。その辺のことは何度かに分けて投稿してきた。


例えば、自動車の自動運転技術が更に進化して、ほぼ完璧に公道を走行できるような時代になったとしよう。事情を知らない人が観察すれば、自動車は道路状況を観察しながら、最適な走行について考えながら走っているものと理解するだろう。

それをみた科学主義者は、自動車を1台に手に入れて、徹底的に分析する。

部品と部品との関係性、つながりから、発進、加速、方向転換、停止についてのメカニズムを理解する。エネルギー源と適切な供給についても理解する。それから人工知能の中枢を占める半導体回路を徹底的に分析する。回路における電荷と電荷の運動状態に応じて、自動車が特定の動作をすることまで突き止める。

このようにして、観察可能なエビデンスを徹底的に、かつ合理的に整理して、《真理》に迫ろうとする。


では、この科学主義者はまったく同じ自動車を複製して、その自動車にまったく同じ人工知能を搭載させることが出来るだろうか?

不可能である。

半導体内部のあらゆる状態に応じて、自動車が特定の動作をすることは観察可能だが、なぜ道路状況に応じて、電子回路網がその状態に変化し、なぜ自動車がそのような動作をするのか?この疑問全体に答える《知能システム》の基本設計が分からないからである。

その知能システムは、型式の異なった自動車であっても、転送可能であり、むしろより高度の運動能力を発揮させ得るということなどは、科学データからは補足できない。

つまるところ、

自動運転で走る自動車は、自動車自体が考えているわけではなく、自動車に考えることを可能にさせている《知的実在》が先にある。

こう考えなければ、話しが終わらない。つまり、《第一原因》であるのだが、カントはこの問題は人間の純粋理性が解答できる領域を超えた問題であるとした。

いま阿満利麿『法然の手紙を読む』を読んでいる途中なのだが、

ここでも「生死を出る」という表現が出てくるが、すでにふれたように、現代の私たちには理解が難しい言葉遣いであろう。私たちは、人の一生は生まれて死ぬまでの間であり、その前後には言及しない、というのが常識になっているからだ。

こんな下りがある。法然上人と『新古今和歌集』で著名な歌人・式子内親王との交流に触れている個所である。

現代技術文明の基盤は「科学主義」で、それが「常識」になっているのは仕方のない事だ。しかし、科学が人の知性を制覇する以前の時代においては、科学者が仕事をするときの作業仮説が、科学者ではない普通の人の常識でもあったというわけではなかった。

科学はこの300年から400年の間に、人間の知的営みからおよそ《非科学的想像》を追放してしまった。「非科学的空想」には意味がないというわけだ。

しかし、思うのだが、水と一緒に赤子も捨ててしまったような気がするのだ、な。

人間に観察可能な(=測定可能な)事実が、宇宙の全ての真理を教えるとは限らない。どちらに考えても、それは一つの認識論的立場に過ぎない。

輪廻転生論をどう考えればいいか、科学で結論が出るまでは100年間では足りるまい。物質的身体の世代継承は科学で捕捉可能だが、「識」や「種子」の相続は半導体回路の電荷の分布を分析する作業にも似て、実証的には解明不能だろう。

結局のところ

人間の知性は「人間の知性」自体の所在を外側から確認することが出来ない。ここが人間の造った人工知能とは決定的に違う。

この一点にかかってくる。今はこう考えているわけであります。

結局、本日投稿の主旨は

知性(と生命は?)は自然発生的に物質の中に生まれて成長するものではない。

小生は「ない」と思うが、「あった」と考える人もいるだろう   ―   小生の目には過激派・科学主義者で完璧な唯物論者に見えてしまうが。

こういうことであります。

空海が云ったという《両部不二》、つまり物質界と精神界とは究極的には一つの実在に統合されている・・・確かに、物質と非物質とを二つに区分できるのかどうかさえ、物理学の今後の発展による話題なのだろう。これは忘れないための付け足し。

読書中に思いついたので、メモしておく次第。