2025年11月30日日曜日

覚書き:マンション管理組合の総会

先日、いま暮らしているマンションの管理組合の役員を頼まれて、やむなく引き受けた。

北海道に移住してきて初めての冬を迎える年末、それまでの官舎暮らしを卒業して初めて分譲マンションを購入したのだが、運悪く籤に当たったのだろうか、理事長を頼まれてしまった。1年余りやっただろうか、初めての雪国暮らし、初めてのマンション暮らしを理由に断るべきだったとずっと後悔してきた。それが割れた窓硝子の取り換えを頼んだことから、引き受け手がおらずに困っていたのだろう、現理事長から役員になってくれと頼みこまれた。西行の『年たけて、またこゆべしと、思いきや』ではないが、これも縁かと思い引き受けることにした。今日は総会があったので出席した。ずっと昔、理事長を退任してからは委任状提出で済ませてきたので、出席するのは久方ぶりである。

最初の総会で司会をした時の情景はまだ眼底に残っている。みな若かった。しかし顔は忘れた。今日見た顔と同じ顔があったのかもしれない。その後、新しく入居した人も今日いたのかもしれない。それは分かるはずもないが、小生にとっては構内で時に挨拶をする程度でそれ以上には知らない人が並んでいた。

マンションの 総会に出る この三十年みとせ
       うつりける世を わが身にぞしる
実に歳月怱々。この12月の上旬、ニセコでリゾート事業を展開する会社が社員寮に買い取ったという1戸に台湾、香港の人が4人引っ越してくるとのこと。これからこんな事が増えてくるだろう、と。願わくば、日本で楽しい生活を送って、北海道には盆踊りはないが祭りにも参加して、母国に戻ってから思い出話を語ってほしいものだ。
この秋は 熊をおそれて 散策を
       ひかえて今日は 雪虫をみず
毎年の年末、清水寺が発表する「今年の漢字」は何になるだろうか?「熊」かもしれず、「米」かもしれず、「難」かもしれず、いずれにしても今年は明るい一年ではなかった。

2025年11月28日金曜日

感想: 福田梯夫『棋道漫歩』を読み始めて

囲碁がらみのひょんな縁から福田悌夫『棋道漫歩』を「日本の古本屋」で買って読み始めたところだ。囲碁がらみとは言え、本書は「漫歩」という名のとおり、広いテーマにわたった随筆集である。

著者はプロの作家ではない。Wikipediaでも紹介されているような地方の素封家、農場主として人生を歩みながら、太平洋戦争直前期に衆議院議員であったせいだろうか、敗戦後には公職追放処分のうきめに遭った人である。多分、戦後の農地解放で甚大な損失を蒙った社会階層、すなわち「斜陽族」に属していた。

生年は明治28年(1895年)だから小生の祖父ともそれほど年齢が離れていない。祖父もそうだったが、大正デモクラシーの空気を吸いながら思春期、青春期を過ごしたからか、その世代に属する人は昔の人とは思えないほどリベラルな社会観をもっていた。確かに戦前という時代を想像させるエリート意識は、小生にもヒシヒシと伝わってきたものだが、当時は大学・専門学校といった高等教育機関への進学率が5%ほど、大学になれば1%位で、100人のうち1人が大学までいくかという時代だった。まして本書の筆者のように東京帝国大学法学部を出ていれば、その稀少価値はいま芸能界にも利用されている現代日本の東京大学の比ではない。

最初の章の題名は『人間のレッテル』である。何だか戦前期文人のエートス(≒気風)がにじみ出ている様だが、読んでみると確かにリベラルである。

著者本人は自らを「ディレッタント(≒好事家、趣味人、物好き)」だとしている。つまり特定のスキルで稼ぐプロフェッショナルではない。地主として農業経営に従事してはいたが、法学部を出たのであれば、土壌成分や作物、品種などの専門知識はなかったろう。農業については、現場に通じた農夫ではなく、あくまでもアマチュアで、それでも現場の専門家を超絶した地方の名士として尊敬もされ、何か地方単位で政治勢力がまとまれば指導者にも推される。縁があって衆議院議員にもなった。そんな人物によるエッセーである。

ただ第1章から傍線を引きたくなった個所もあるわけで以下に引用して覚書としたい。

どれもみな素人の限界近くまでは達したが、結局玄人の埒内には踏み込めなかった。これは主として私がディレッタントであるせいだと思っている。あるいは下手の横好きと云っていいかも知れない。私は「下手の横好き」を高く評価する。

由来、玄人は過去の固陋な世界に執着して、正しい革新を阻む宿命をもっているものだ。未知の世界への推進力となる者は多くは素人であり、玄人の縄張り根性が進歩の敵となる場合が多い。

大戦当時、東条大将は首相となっても現役を去らず、従って陸軍大将の軍服のままで議会へも出席した。演壇から居丈高になって議場を睥睨する総理大臣の軍服姿に、当時議席にいた筆者は早くからまざまざと敗戦の兆しを感じた。

再軍備が行われる時が来たとしても、極めて明瞭なことは、少なくとも総理大臣と軍部大臣だけは、断じて厳格な意味の文民大臣でなくてはならない、と云うことだ。

ロシア=ウクライナ戦争が勃発してから、遠い異国の日本でもTV画面には自衛隊関係者や外交専門家が連日のように登場しては、色々なことを語っていた。

いまも時々あんな調子でやっている。すべて反ロシア的だ。反ロシアという点では、EU(のごく一部?)が急先鋒、米国のトランプ政権が立場をロシア寄りに変更中、日本はいつの間にかト政権より反ロシア的な位置にいる。日本が親ウクライナを選ぶ何か具体的理由があるのだろうか?

日本の反ロシアが露中関係に間接効果を及ぼし日中関係の悪化につながりやすい。アメリカは新政権になって早々に立場を変更した。日本だけは義理を守って、実利を捨てる作戦のようだ。損得を重視し機会主義的に行動してきた日本が妙に頑なだ。不思議である。

いずれにせよ、メディア報道が反ロシアで一貫しているのは

素人の意見はダメ。専門家の意見を聴かないとダメ。

というか、そんな盲目的な信頼が土台にあるのだろうが、上に引用した本の筆者は、筆者一人というより戦地に駆り出されて膨大な犠牲を払ったあと戦後に生き残った同世代全体を代表したいという気分も混じっていたのか

あるスキル、特定の知識でメシを食っている「専門家」は「素人」である主人を必ずだます

そう言いたい様である。

要するに、戦争の専門家である軍人組織が素人である文民や国民を、更には素人である天皇陛下という主人をも下にみて、独善と隠ぺいと保身に陥った末に未曽有の大敗北を喫した。実に傲慢で無能。この一点が核心であると言いたいのであれば、小生も大賛成だ。

本書が出版されたのは昭和36年で著者の福田氏は昭和41年に70歳で亡くなっている。最晩年を迎えた時期に記憶をたどりながら書き綴ったのがこの随筆集なのだろう。その最初に、上のようなことを述べたのは、その年齢に至っても「これだけは言いたい」という事だったのかもしれない。

それにしても、不思議に思うのは、大正デモクラシーという極めてリベラルな社会哲学、政治思想を身に着けた世代が社会の中核となった時、なぜもろくも陸海軍上層部の軍国主義にのまれてしまったのか?

自由を圧殺するような国家総動員体制をなぜ日本は選択しえたのか?それほどまでの知恵者が軍部にはいたのか?いたのであれば、なぜ必敗の開戦をするような愚を演じたのか?

まあ多分

普通選挙の導入で民主主義が拡大したタイミングで、知的劣位にあってただ楽しい生活を求める、無思想・無理念の大衆に「清潔な」軍部がアピールして、高学歴の文民・知的エリートから政治的ヘゲモニーを奪取した ― 最後にはこのこと自体が日本の「軍事政権」を束縛する状態になってしまったとみているが。

そんな風に要約されるだろうが、しかし直線的に成功したわけではないし、大衆もそれほど阿呆ではなかったはずだ。にもかかわらず、日本の大衆は我とわが身を縛って国に捧げ莫大な犠牲を甘んじて受けた。目が覚めたのは昭和20年8月15日だ。

これまで好著は何作も出版されてきたが、まだ納得可能な答えは出ていないように思う。

【加筆修正:2025-11-29、11-30】

2025年11月26日水曜日

断想:再び『社会が家族の代わりになろう』なんてネエ、という話し

少年時代、父からは将棋を教わった。ただ、その頃の父はそれほど多忙ではなかったのだが、教え方はあまり上手ではなく、駒の動き方を一通り説明したあとの基礎力をどう上げればいいか、当人の頑張り次第だナと、そんな感じだった。だから一生の趣味になるほどのレベルには達せず、中学生になって勉強が忙しくなると、自然に遠ざかってしまった。

芸は身をたすく

今になって思うと、塾の試験で正解できなかった問題を解説してくれるより、将棋を教え続けてくれたほうが余程ありがたかった。

将棋から少し遅れて母方の祖父は碁を教えてくれた。ただ祖父母は遠方にいて、頻繁に行くことが出来ない。なので親の家に戻ると、自然に碁のことは忘れてしまった。碁は将棋ほど覚えることは少ない代わりに、それらしく打てるまで体感すべき事は多い。もし祖父が(一時代前のように)近くで悠々自適の暮らしをしていて、いつ遊びに行っても相手をしてくれていたなら、パズルを解くのが好きであった小生は碁に親しんでいたと思う。これも極めて残念なことである。


最近、時間が少しできてクライツィグの数学テキストやスミルノフを読み返すだけでは飽きるとき、取り組みがいのあるゲームをやりたくなった。

いまはAI搭載の将棋、碁アプリが数多く使われている。そこでGoogle Pixel Tabletに詰将棋をインストールして何年振りかで将棋を再開した。ところが勘がまったく鈍っている。少年期に一定のレベルにまで上がっていれば「鈍ってもタイ」のはずだが、早々にやめたから身についていない。それでも段々と感覚を取り戻してきたのだが、タブレットの画面では駒がいかにも小さい。文字も小さすぎる。駒は動くし、目が相当疲れるのである、ナ(^^;;;)。かといって将棋盤を買いなおすのは億劫だ。片手間でよい。

それで碁をやってみた。こちらは最初から習得したとは言えない幼稚なレベルだ。それでも日本棋院から優秀なアプリが提供されているので、昔に比べると格段に勉強しやすくなっている。

もし小生の少年時代に「Katago」や「KataTrain」、「みんなの碁」、「KGS」などというソフトウェアが利用できていれば、祖父の家から両親のもとに帰ってからも、やり続けることが出来ていたはずだ。

英語や数学、更には大学の専門科目である経済学や統計学は、確かに人生を歩むのに役に立つ。が、少なくともそれと同程度に将棋や碁も我が人生を豊かにしてくれていたはずだった。つくづくそう思うのだ。


現代日本社会でファミリー・ライフといえば「両親+子供」の核家族を指すものと決まってしまった。

今はそんなご時世だ。しかし、かつてはそうではなかったのだ。

父は仕事で忙しく、便利で多種多様な家電製品がなく、食事の宅配サービスもコンビニ弁当もない時代、専業主婦の母もまたそれほど子供の相手はできない。そんなとき、祖父母は格好の話し相手、遊び相手であり、また教師であった。何より都合がよいのは「無料」なのである。そこに若い叔父や叔母が来て、従弟妹たちが集まってくれば、自然にそこはフリースクールになる。参加者もまた楽しいのであり、すべて無料である。

今は子供が何かを習得しようとすれば、家族外の有料サービスを利用する(しかないだろう)。お稽古事、習い事など教育サービスの価格は結構高い。その教育支払いを負担するために共稼ぎを余儀なくされている若い夫婦も多いようだ。

幸い、小生が暮らしている町は地方の小都市なので、カミさんの友人はこのところ孫を引きうけ始めて、自宅がまるで幼稚園や託児所のようになっているらしい。これもまた「無料」だからきっと娘夫婦の助けになっていることだろう。

もちろん祖父や祖母は、対価を受け取って特定のスキルを教えるわけではないから、若夫婦が希望する教育をしてくれるわけではあるまい。

しかし、ものは考えようで、親が望む教育を子が受けることが子にとって楽しいものとは限らない。中国ドラマ『琅琊榜 ろうやぼう』の中の台詞だが

親、子を知らず
子、親を知らず

である。

無報酬で、ただただ自由な祖父母の語りは、子供にとっては最もノビノビできる時間である。


いま東京の中央政府は、解体されつつある《家族》の機能を《社会》で代替しようと(どのくらい真剣なのか不明だが)努力している様だが、軌道に乗るまで何年かかるか小生にはわからない。ひょっとすると、不可能な難問に挑戦しようと大法螺をかましているだけで、かつて東京都で実施されていた「学校群」のように、30年くらいたってから、その時の現役世代が

過ちては改むるに憚ること勿れ

などと下から突き上げて、結局、何の成果も跡形もなく放棄されてしまうかもしれない。いわゆる《社会目標》というのは、その時代に何故そのときの大多数の人々がそんなことに賛成したのか、後になってみると分からない、そんなものが多いことは日本人には周知のことである(はずだ)。(特に民主主義国では)政府も議会も、決して失敗の責任はとらない。というより、とれないのである。

2025年11月22日土曜日

ホンの一言: メディアは黙っていた方がよいのでは・・・という話題

 少し以前の投稿でこんなことを書いている:

世界観、宇宙観が変わってきたことは何度かに分けて投稿してきたが、上のように書いてみると、社会観は相変わらず同じであるとつくづくと思う。社会の在り方は、与えられたものではなく、人が選択して変えていくものであり、その意味では本質的に不確定で、私たちの前に実在するものではないということだ。文字通りに《有為転変》にして《諸行無常》。社会は要するに《空》である。こればかりは、ずっとわかっていたような気がする。

世界観、宇宙観、生命観等々は最近になって考え方が一変したのだが、こと人間のつくる社会観については同じ観方で変わっていないということだ。

そんな風なので今朝のワイドショーは疑問だった。テーマは最近流行の《終活》で、「まったく老いも若きもシュウカツには一生懸命なんだネエ」と思いながら視ていたが、

これまで家庭が担ってきた機能をこれからは社会が果たしていくということですね

MCがこうまとめていたのは、まるで台本通りにしゃべる阿呆な鸚鵡を連想させるものでした。

そもそも「社会」という単語は、明治の文明開化時代、輸入文化が浸透する過程で日本に定着した言葉で、それまで日本で「社会」という言葉は使用されていなかった。「世間」、「浮世」という言葉が普通に使われていた。つまり、「社会」という言葉にはヨーロッパ起源の価値観、イデオロギーが付着していて、人を特定方向に向かわせる、そんな統一志向的ニュアンスが最初から混在していることには注意しなければならない。そして、あらゆるイデオロギーから、本来、人は自由であるはずなのだ。

考えても御覧なせえ。誰でも齢をとる。年寄りと現役と子供たちが生活に困らないために家族はあった。家族で不足する場合は親族が協力した。これが伝統社会的なライフスタイルである。いま「これではいかん。旧すぎる」とキャンセル・カルチャーのターゲットになっているわけだ。

それはそれでよい。

しかし、自分が年老いたあと自ら育てた子供を頼るのは反社会的であると主張するなら、一体どんな夫婦がすすんで子供を育てるだろう?

子供というのはカネはかかるし、面倒はかけられるし、才能がある子供より才能がない子供の方がずっと多いのである。"Child Cost"は経済学の世界でも研究テーマなのだ。 

現代は都市社会、消費文明の時代である。子供は育てず、人生を楽しみ、最後は社会のお世話になろうと行動するほうがずっと合理的ではないか。


老後の終活を社会が支えるなら、その支える側の「未来社会」の柱、つまり未来の現役世代、すなわち子供の誕生、育児、教育、成人もまた社会の責任になるのではないか。当たり前の理屈だ。

親の終活を社会が支える姿をみながら、自分は何もしない現役世代が、自分たちの子供に何かを期待するだろうか?そんなエートス(≒気分)をもつ両親に育てられる子供たちは、自分たちの子供をあえて産み育てようと願うだろうか?カネと手間がかかるだけではないか。経済的には損をするに決まっている。社会ではなく、個人のレベルに降りてくれば、人はこんな風に考えるはずである。


普通の人なら、こんな簡単な理屈、分からないはずはないと思いますがネエ・・・。何だか飛車と角を心配するヘッポコが玉が危なくなっているのに気が付かない、そんな情景が頭に浮かびます。

こんな見当違いが蔓延する主因は、社会をマクロで考えて、ミクロの行動を忘れているからである。Macroの議論をするなら"Micro Foundation"(=ミクロ的基礎付け)が不可欠であるのは、経済学には限らない。

経済政策もマクロ経済政策だけでは良くならない。マクロの議論は「全体としては…」と常に発想する。トップダウンだ。官僚的と言ってもよい。人は同じように行動すると考える。しかし、全体は一人一人の人間、個別の家族/世帯から成り立っているのだ。いくらマクロでこうするべきだと考えても、ミクロのレベルで同じ方向に向かわせる力が働かなければダメだ。

社会で老後を支えよう。家族には頼らないようにしようと考えるなら、老後を支える次世代の育成もまた社会の責任としよう。個々の家族には任せないようにしよう、と。こう思考しなければ、ロジックが通らない。

しかし、こんな提言がメディアに出来ますか?子供を産む・産まないは夫婦の自由であると、誰もが賛同するのではないか?社会のために子供を産んでくださいと連呼しても、それは違うと誰もが言うはずである。出産・育児を社会化する計画は無理なのだ。

本来は出来ないのに、できるかのように仮定したうえ、出来る部分だけを語って「だから出来る」と提案するのは極めて不誠実である。だから日本のメディアは信用されないのだ。

小生自身の「社会観」は、上に引用したとおりであるが、ほぼ同じことは英国のサッチャー元首相も言っている。前に何度か引用したことがあるが、最近の投稿のみ再掲しておこう:

... they are casting their problems on society and who is society? There is no such thing! There are individual men and women and there are families  ...

彼らは社会に問題を押し付けている。社会って何?そんなものは存在しない!男性も女性も個人も存在するし、家族も存在する(しかし)・・・

「家族」が現に機能しているのに、「社会」(=コミューニティ)の方がより重要だから、社会が家族に代わるべきだというなら、まだ良質の提言だ。真の社会主義的正道である。

しかし、現在の日本は、「家族」が機能しなくなっているので、「社会」に頼っているだけだろう。頼れる先を探したら、それは社会しかないと言うなら、実に無責任である。

老後・終活を社会化するなら、出産・育児も社会化しなければ、必ず失敗する。しかし「社会」などという実在はない。実在しないはずの社会が、あるかのように議論をして、ただ財源を調達するために法律をつくって増税するなら、それは《苛斂誅求》という古語に当てはまる。


出産・育児の社会化など、日本のメディア企業は口が裂けても言えないはずだ。であれば、「終活を支える社会」などとソフトなことを言わず、ただ黙っているにこしたことはないのである。

西洋を手本として歩んできた日本社会は追い込まれている。貧すれば鈍す。だから愚論を口にするのだろう。この件については、前に投稿したことがある。これ以上は本稿で記すまでもない。

2025年11月20日木曜日

ホンの一言: 「両刃の剣」の忍耐限度には日中で差があるのでは?

最初から北京政府は高市首相の出現を警戒していたが、当たり前のことだ。日本国内でも同じ警戒心はあったし、今もあるものと推測する。高市首相の支持基盤は最右翼を形成する超保守的な日本人有権者の集団なのである。

ここに来て、中国は日本産海産物の輸入再禁止に踏み切った。とはいえ、これを以て中国政府は高市首相の支持率低下戦略に舵を切ったと即断するのは早計かもしれない。


日本国内の報道では経済政策にまで対日攻撃を拡大するのは中国にとっても《両刃の剣》だと講評する向きが多い。

21世紀に入ってから、国内メディアがそのニュース解説で一体何度この「両刃の剣」という表現を愛用してきたか、もう日常用語になってしまった感覚もある。

しかし、以前の日本人なら

肉を切らせて骨を断つ

こちらの表現をより好んで使っていたような記憶がある   ―   ずいぶん昔になりましたが。

こんな所にも現代日本人がいかにソフト(≒軟弱?)になり、リスク嫌悪の感覚をもつようになったかが見られると思います。多分、そんな退嬰的な感覚が蔓延する根底には、人口の高齢化・少子化と低レベルの移民政策がシンクロして働いている、と。そう観ております。


同じ趣旨の表現は英語にもあるだろうと調べてみると、

Lose a battle to win a war

戦闘に負けて戦争に勝つ

どうやらこれが該当するようだ。

囲碁でいえば「7子を捨てて地合いをとる」と言った戦略感か。将棋で言うと「飛車を捨てて玉を詰める」とでも言える。

実際、中国の国民党政権を相手に始まった日中戦争で中国側が選んだ戦略は、文字通り「肉を切らせて骨を断つ」といったものだった。マア、肉を切られたのは中国で、骨を断ったのはアメリカだったが、それでも第二次世界大戦後を通して中国は"Forgotten Allies"として確かな評価を得ているのである。

中国は領土、人口に恵まれた大国であるからだろう、犠牲を厭わない傾向がある。それに対して、日本は犠牲を嫌がる。損失の拡大を心配する。速戦即決を好む。日本人が機会主義的だとよく言われるが、それも地政学からみれば仕方のないことである。

少なくとも中国は「両刃の剣」の忍耐限度が高いと予想しておくべきだろう。それに対して、日本は忍耐心には(最近は特に?)欠けていると観ている。支持率低下に脆弱なのも日本側である。


もちろんこの「忍耐心」は国民の団結心や絆のことを指すのではない。あくまで勝敗を争う戦略ゲームにおいてである。念のため・・・ただ、マア、こう言い切れるのか、迷うところで、日本が日中戦争を通して中国を叩けばたたくほど、劣勢のはずの中国は想定外にまとまり、世界は中国に同情し、日本は苛立ちを強め、追い詰められ、内部に亀裂が入っていったと理解しているが。

それにしても、高市首相の台湾有事発言。この答弁を引き出した立憲民主党の岡田議員に「余計な質問をする」、「誰が得をしているのか」などなど、批判が寄せられているらしい。呑気だネエ・・・ホントに。小生が思い出したのは、ホワイトハウスでトランプ大統領とゼレンスキー大統領が口論になった事件だ。ゼ大統領はヴァンス副大統領の挑発に乗ったと、今では誰もが思っているが、高市首相も岡田議員の挑発に乗った。(見ようによって?)そうとも観えるわけで、だとすれば「打倒高市」を胸中に抱いている勢力は、極右より左側に位置する広い範囲にそれだけいるわけでありましょう。

2025年11月18日火曜日

断想: 中国に明るい未来はあるのだろうか?

日中関係は(歴史問題をたとえ脇に置くとしても)100年単位でみて、決して蜜月関係にはならないだろう。

そもそも米中関係がどれほど改善されても、米軍基地が日本国内にあり、中国軍基地がまったくないわけであるから、米と中はいわゆる《タカ・ハト・ゲーム》の状況に置かれているのであって、である以上は自ら《ハト戦略》を選択するロジックはない。そんな戦略的状況の下で、日本は米側に属しているのは(ほぼ?)自明であるから、中が日に対してソフトに行動する理屈は(ほぼほぼ?)ない。

高市首相の国会答弁から又々こじれている様だが、日常茶飯事の小競り合いと達観して、覚悟しなければやってはいけない。

ただ、外交には全く素人だが、簡単な理屈くらいならカミさんともよく話している:

カミさん:また台湾のことで高市さん何か言ったの?

小生:中国が戦艦を繰り出して台湾を包囲して、アメリカ海軍との武力衝突があるとするなら、これはもう日本にとっては「存立危機事態」だと、そういったんだよ。中国は台湾のことに口を出すなって激怒しているわけさ。

カミさん:起きてもいないのに、なんでそんな事を言ったの?

小生:高市さんの本音が出ちゃったんだろうネ。日本が「存立危機事態」を宣言すれば、自衛隊は行動を起こすし、そもそもそういうことをしようというのが高市さんだと言うことさ。

小生:ハッキリ言わなくてもイイのに・・・怖い人なんだね、高市さん。

小生:外交や国防に詳しい人はみんなそう言ってる。お手本はサッチャー首相みたいだし、これからもあるんじゃないのかナア・・・

 一介の専業主婦である小生のカミさんすら「いまそれを言う?」という感性はあるようだ。

ただ思うのだが、「台湾は中国の領土と日本が認めている」というのは、(専門家の議論があるようだが)やっぱり一寸違うのだろう。

台湾は日清戦争のあと日本に割譲された。日本が太平洋戦争に降伏するまでは日本の領土であり日本が統治した。ただ領有権を日本に譲渡したのは清王朝だった。その清王朝は辛亥革命で崩壊したのだが、それを継ぐ中国の公式政府は北京の袁世凱から軍閥へと混乱し、やがて孫文・蒋介石と続く国民党が北伐を開始し優位に立つことになった。日本は反・国民党の立場を選び日中戦争への道を歩んだ。日本は第二次世界大戦で無条件降伏し、台湾は中国に返還された。その時の中国政府は蒋介石の国民党政府だった。国際連合の常任理事国に選ばれたのも国民党の「中華民国」である。その後に起きた「国共全面戦争」はとても複雑で本稿で短く要約するのは無理である。結果としては、共産党が軍事的勝利を得て毛沢東が「中華人民共和国」の建国を北京で宣言し、国民党勢力の掃討戦を行う。蒋介石は中華民国首都を重慶から成都へ移し、最終的に台湾・台北に首都を遷都した。その後、中国統一を目標とする北京政府は台湾を制圧しようと前哨戦である金門島上陸作戦を展開したが想定外の猛反撃に遭い敗退した。形の上では、正式な政府である中華民国と、中華民国を軍事的に打倒した中華人民共和国が並立・対立する状況がずっと続くことになった。

アメリカと大陸・中国との国交は1971年の米中接近を経て1979年に正常化し、アメリカは中華民国と断交し、北京政府が中国の唯一の公式政府として認められた。が、アメリカはその後も台湾との外交関係を非公式に続けてきている。日中国交回復も枠組みは同じだ(と理解している)。


台湾が日本の領土でないことは自明である。もちろんアメリカの領土でもない。ではどこの領土か?

北京政府と台北政府はなお敵対関係にあって《講和》は成立していない。台北政府にとって台湾は仮の居場所なのであろう。ちょうど首都・開封を追われた「北宋」が南方の臨安(現・杭州)に首都を遷し「南宋」と称した故事と似ていないまでもない。臨安とは「臨時の首都」であるという意味だ。北京政府からみれば台北政府は(軍事的に敗北しているにもかかわらず)台湾を「占有」し、北京政府の統治権を認めようとしない。

故に、台湾を領有するのは北京政府か台北政府かを単純に決めるのは中々難しい。


確かに北京と台湾の関係は「中国の内政問題」であるのだろう。この認識は北京と台北双方に共通の認識のはずで、日本やアメリカ、その他の外国が介入する事柄ではないと、双方とも考えているはずだ。少なくとも日本の領土に関する問題ではなく、アメリカの領土問題でもない。たとえは悪いが、日本にとっての「北方領土問題」を見る視線とロシアが見る視線が正反対の関係にある事情と似ているかもしれない。アメリカが北方四島の領有権に何か意見を言えば、ロシアは『これはロシアと日本の問題だ』と口先介入を非難するであろう。

中国を統治している唯一の公式政府だと自認し、また承認されている北京政府としては、台湾を占有している「台北政府」を解体し、大陸と統合するのは国家目標なのだろう。しかし、日本が返還した台湾を受け取った「中華民国」が台湾に移り、台北政府が台湾領有権を主張するとすれば、日本がその正統性を否定するのは難しい。少なくとも、北京政府が台湾領有権を継承していると主張するのは、旧政府が現に台湾に存在し領有権を主張している以上、無理があると感じる(はずだ)。

「北京(=中国)が台湾領有権を現にもっていると日本が認めたわけではない」という議論にはそれなりの理屈がある。

このように、どこまでも平行線である。

仮に、北京政府がソフト・コミットメントを採って、地方分権的原則に基づく《中華連邦制》を目指すとすればどうなるだろう?

中国は共産党による集権的計画経済では最早ない。共産党の優越的地位さえ認めるなら、それでイイと北京政府が達観してしまえば、あとは高度の自治権を獲得した方が、台湾ばかりではなく、中国国内の各地域にとってもウェルカムであろう。

国を問わず、時代を問わず、領有権の筋道など普通の人にはどうでもよいことだ。毎日が楽しく、暮らしが豊かになれば、その体制が最も好いのである。

政治は宗教とは違うし、理念は信仰と違う。政府は教会ではない。価値観などと小理屈を言わず、人々の暮らしを豊かにする平和な空間を創造してくれるなら、それが客観的な意味合いでも最良の政府であるに違いない。

豊かで広大な社会を造ったうえで、中国発祥の新たな文明を創り出していくのが、北京政府にとっては最適戦略だと思うがいかに?

ただ、創造と破壊を共産党が心底から怖れているなら、こんな方向は無理だろう。


 

2025年11月14日金曜日

断想: 社会体制は「所与」ではなく「選択」の結果ということ

政府に与えられた課題には三本の柱がある。

  1. 統治能力の維持
  2. 財政
  3. 国防
この三つだと思っている。

二番目の財政だが、財政が破綻するとき、つまり財政赤字の膨張が制御不能になるとき、国家が維持できないという点は何度も投稿している。その財政規模はその国の経済に依存するから、財政は従属変数である。故に財政需要を賄うためには、その前提としてマクロ経済を成長させなければならない。市場的要素と計画的要素をどのように混合するかという点は、年金や医療の社会保障のあり方で現代日本が混乱しているのは周知だが、それでも本来は枝葉末節の事柄(の一つ)に過ぎない。

三番目の国防だが、これも従属変数であって、国防の具体的内容はその国の外交に依存する。外交に失敗すれば国防はより困難になる。逆は逆だ。

財政と国防を満足すべきレベルで進めるのが有能な政府であるのは理の当然で、これが最初の《統治組織の能力》になるのだが、統治組織は大きく民主主義的統治と権威主義的統治に二分される。「権威主義的統治」が君主制や独裁制と言われなくなったのは、例えば共産党の一党独裁のようないわゆる「人民独裁」もありうるからだろう。

民主制、君主制と、いずれにしても財政と国防を巧みに行えば、国民は安心して暮らせるというのは、たぶん永遠の真理だと小生は思う。前にも投稿したことがあるが、先験的に、つまりそれ自体として民主主義が善いとか、君主制はよいとか、そのような議論は虚妄である。

つまり民主制と君主制という区別は、世間でよく語られているように善か悪かではなく、目的合理的な《選択》である、と。そして、どう選択するかは、その時代の環境、科学技術、価値観等々、色々な因子が働いて社会的に決まってくる。そう思っているのだナ。

政府の進める財政(金融も)政策、国防方針が、その国の経済状況、安全保障環境や外交環境といった《政治目標》の達成にどのように寄与するか?その時代、その時代で、民主的な統治組織が成功するための十分条件なり必要条件はあるし、立憲君主制的な、あるいは専制的帝政といった統治組織にもやはりそれがうまく行く条件がある。その条件を探求することが、本来は政治学に期待される問題なのであると思う。

残念ながら、経済学における「比較経済体制論」のような専門分野は政治学にはないように見える ― 政治学には門外漢の小生の勉強不足かもしれない。

高校の世界史の授業を思い出すと、歴史上の王朝国家、帝国や王国が破綻する契機として、しばしば戦争での敗北が挙げられる。対外戦争や内戦など軍事上の敗北によって国が消滅するのは、高校生にとっても実にわかりやすいが、それが外交上の失策によってもたらされたことを理解するのは、少々高級な問題意識である。まして、その前に財政事情が悪化していた事に意識を向けることが出来たのは、クラスの中でも少数であった。

そして、このような「統治上の失敗」は、いわゆる権威主義的国家でも、民主主義的国家でも、どちらでも起こりうる失敗なのである。歴史の授業に意義があるとすれば、このことを10代のうちに理解することではないだろうか?実際、現代世界においても不安定な統治状況はその国の社会体制が民主主義か権威主義かという単純な二分論とは関係なく発生している。民主主義か権威主義かによらず腐敗する政府は実際に腐敗している。

カギは、どちらの国家が統治上の失敗を起こしにくいか?この一点につきる。会社が発展していくかどうかは、常に現状を評価しながら社内体制を変革していくことが欠かせないし、プロ・スポーツのチームを編成するときには「どんな体制にすれば勝てるチームになるのか?」。有能なオーナーならこれを考えるはずだ。人間集団には《目的》があるものだ。その目的を社会全体の視点から探してみると、結局は「平和」と「豊かな暮らし」の二点に落ち着くはずである。目的を意識しない社会は漂流している。目的を意識できない政府は無責任であって無能である。これだけは言えるのではないか。

世界観、宇宙観が変わってきたことは何度かに分けて投稿してきたが、上のように書いてみると、社会観は相変わらず同じであるとつくづくと思う。社会の在り方は、与えられたものではなく、人が選択して変えていくものであり、その意味では本質的に不確定で、私たちの前に実在するものではないということだ。文字通りに《有為転変》にして《諸行無常》。社会は要するに《空》である。こればかりは、ずっとわかっていたような気がする。

もちろん上でいう「選択」とは、社会的選択であって集団的選択である。故に、誰一人として自分が選択したという自覚を持つことはない。それでも特定の結果として社会が変わっていく以上、それはその時に生きている人間集団が全体として選んだという理屈にはなるのである ― ほかに議論のしようもあるが、今日は一応ここまでで。

2025年11月12日水曜日

ホンノ一言: 日米の相場観、マネー感の違いなのか?

本日はつまらない感想だけ。

SmartNewsに載っていた東スポ記事のヘッドラインが目を引いた:

大谷翔平 WSオークションで第6、7戦ロッカータグが568万円!最高値は歴史的お宝で1598万円

「ナニナニ?」と思って検索すると、Yahoo Japan!ニュースにも掲載されていた:

MLB公式サイトが行っていたドジャースがブルージェイズを4勝3敗で下して球団初の連覇を達成したワールドシリーズ(WS)の実使用グッズのオークションが9日午後8時(日本時間10日午前10時)に締め切られた。第6戦と第7戦にロジャーズ・センターのクラブハウスで使用された大谷翔平投手(31)のロッカータグは3万6970ドル(約568万円)で落札された。

こんな説明がある。更に、

最高値は第7戦で7回から延長11回まで使用された一塁ベースで10万3930ドル(1598万円)だった。11回一死一、三塁でカークの遊ゴロをさばいたムーキー・ベッツ内野手(33)が二塁を踏んで一塁へ転送して併殺を完成。フレディ・フリーマン内野手(36)が両手を挙げて万歳したシーンはWS連覇を象徴する名場面の一つだ。

ということで、落札金額にも少々驚いたが、実使用グッズのオークションがMLBの公式サイトで開催されていたことにも興味を覚えた。

ちなみに<NPB オークション>で検索すると、「SMBC日本シリーズ2024チャリティーオークション」や「マイナビオールスターゲーム2025チャリティーオークション」などの開催例が挙がってきた。

ふ~~ん、日本のプロ野球でもやっていたんだネエ・・・知らなんだ

見直しました。得られた収益は「緑の募金」、「日本赤十字社」へ寄付して公益に寄与するとのこと   ―   植樹、能登半島被災地支援などだ。

但し、マイナビの方の収益が2600万円弱であるようで、この間のWorld SeriesのGame Sevenの9回裏に山本投手がブルージェイズのバーショ選手をセカンドゴロに打ち取った時のボールに1246万円の値が付けられたそうだから、MLBオークションでは1塁ベースと2ゴロ球の二つだけで、日本のオールスター・オークションの収益総額を超える。

ビジネスの規模が違うと言えばそれまでだが、

相場観、マネー感が日米でこれ程まで違うなら、MLBが実施する試合の放送権を日本がとれないとしても、当然であるナア。

と、そう感じました。

利益重視の民間が自由に行う経済活動や技術開発、商品開発を変化を嫌う日本政府が抑えてきた30年。

今や、司法当局、捜査当局に取り調べを受けたり、目をつけられたりする事が最大のリスクとなった。日本では「やりすぎる人」は排除されるが、「やらない人」は地位を守れるのである。そんな国民性を民主主義の政府が支援し、公権をもって代行している。だから、人々の味方であるメディアも、誰かが逮捕されれば被拘束者ではなく、拘束した側の警察を応援する。検察を励ます。阿呆に見えて仕方ありませぬ。

ついにここに来て

そして日本からはアニマル・スピリットを有する人物が誰もいなくなった

会社や役所で指示に従う人、前例に従う人を除けば、おしゃべりをする人と、駄文を書く人くらいになった、世間で目立つ人は。こう言うと言いすぎか?


2025年11月10日月曜日

断想: ファイル整理をしていると「瓦全」という言葉が見つかって・・・

前稿で書いたPC更新で古いOneNoteファイルを整理していると、偶々、安井息軒の≪瓦全がぜん≫を解説したページを見かけた。

そういえば、現代日本ではこの≪瓦全≫という言葉、学習指導要領ベースの授業内容としても、普通に期待される教養としても、完全に死語になってしまったネエ・・・そんな風に思いつつ「そういえば、この瓦全という言葉、出典は何だったかいナ?」と疑問に思った次第。

それで検索してみると、≪玉砕瓦全≫という四文字熟語の半分であることが分かった。更に調べると、西郷隆盛が作った漢詩に

幾歴辛酸志始堅
丈夫玉碎恥甎全
我家遺事人知否
不爲兒孫買美田
があることが分かった。読み下すと

幾たびか辛酸を歴て 志始めて堅し
丈夫は玉砕するも 甎全を愧ず
吾が家の遺法 人知るや否や
児孫の為に 美田を買わず
になる。

第四句の『美田を買わず』は有名だが、作品全体はこれまで知らなんだ。そうか、この中に「玉砕、瓦全」という句があったのか・・・そう思った次第。しかし、安井息軒と西郷隆盛、互いに同じ漢句を使うというのも変だ。そう思って更に調べてみた。すると

「瓦全」の出典は、中国の正史『北斉書・元景安伝』です。この書の中の「大丈夫寧可玉砕、不能瓦全」(立派な男子というものは、玉のまま砕けるべきであって、瓦のまま生きながらえるものではない)という言葉に由来します。
こんな解説がすぐに出てきた。ここがネット普及の素晴らしいところで、以前の世界とは最も大きく違う、というか進んだところだ。

なるほど、元々の「瓦全」は「玉砕」に対立する言葉であったのか。「大丈夫」たるもの「玉砕」を志すべきであって、「瓦全」を願うなどは恥である、と。ふ~~む、なるほど100年少し遡れば、日本社会にも男子の本懐、男子の覚悟というものがあったンだなあ、と。こんな風にも思いました。

しかし、安井息軒は玉砕ではなく、瓦全の人生を全うした、と。そんな風に自己認識をしていたようである。とすれば、これは自虐の思いを込めて「瓦全」と言っていたのか?

宮崎の安井息軒記念館のホームページにはこんな説明文がある:

明治5年(1872)元旦、息軒は書き初めで「瓦全」と書きました。あまり聞き慣れない言葉ですが、さてその意味はいったい何でしょうか?

「瓦全」とは「玉砕」の対義語です。「何もせず、無駄に保身し、生き長らえること。 失敗を恐れ、あえて挑戦せず平凡な結果に満足すること」という意味です。息軒はいったいどういった心境で、この二文字を選んだのでしょうか?

しかし、説明はここで終わっている。文字通り
The question remains open
である。
 

ただ思うのだが、現代日本社会では「玉砕」は否定され、誰しも「瓦全」の人生が良しとされているのではないだろうか?

こう書くと、女性蔑視であると批判されるかもしれないが、特に母親なら我が息子には長生きしてほしい。いくら有意義な仕事があるからといって死んでほしくない。生きてほしい。人間、死ねばそれきりだ。親に先立って死ぬなどあってはならない、と。母親ならそう願うのではないかなあ、と。カミさんに確認したことはないが、上の愚息に毎晩電話している姿をみると、そう思わざるを得ない。ちなみに、小生は男性であるせいか、自分の命は有意義に使いたいと思っている。息子には「玉砕」は寂しいが、「瓦全」を真っ先に志すような、そんな情けない(?)人生観は持ってほしくない。少なくとも、そんな感情に共感する気持ちがある。『山高きを以て貴っとからず。人生長きを以て貴からず』と、確かに共感する自分がいる。女性はどうなンだろう?… … …、残念ながらわかりません。

上の安井息軒にしても、西郷隆盛にしても、元々の人物・元景安にしても、すべて男性である   ―   元景安はむしろ瓦全の方であったが。善悪の基準である倫理・道徳・モラルは、まず例外なく男性が唱え、男性が書き著してきた古典に基づいていると言ってよい。男性同士が異論をぶつけあって、時には形而上学的な激論を交わしながら、モラルは形成されてきた。そこには男性の感情、男性の感覚が色濃く反映されている(と理解するべきだろう)。だから、いまは善しとされている「男女共同参画社会」においては、特に女性の感覚からみれば、

こんなモラルはおかしい。押し付けないで。
いま流行のキャンセル・カルチャーの根底にはこんな潜在的なドロドロとした社会心理があって、男性と女性を隔てる潜在意識上の溝を構成しつつあるのではないか?ほんと、どうなんでしょうネエ?、と。こんな疑問がないわけではない。

しかし、ラディカルなキャンセリズムにも道理があると肯定してしまうと、結局訪れるのは、"anti-moralism"、"anti-religion"となって、何もかもいま生きている人間が決めていってイイんだ、と。生きている間だけに意味があるンだ、と。何だか、こんな風に唯物論的に社会は進んでいくのじゃあないかと≪懸念≫しているわけであります。完璧な唯物論的世界観に立てば、一切の「価値」なるものは、空なる観念、実質的意味を有さない言葉遊びになる理屈である。どんな世の中になるか、目に見えるようではゴザラヌか。「地獄」は空想であると断ずるタイプの人間が現実の地獄をこの世でしばしば経験するのである。

いや、いや、安井息軒の瓦全から、今日は大げさな話になってしまった。これも覚書きということで。

2025年11月8日土曜日

断想: 「生体認証」、「本人確認」、「パスキー」、「認証コード」の嵐。それより英語が一択です。

ずっとWindows10で愛用していたMicrosoft Surfaceを諦めてHPのLaptopを買った。セットアップを終わって、使い心地を点検している段階だが、ディスプレイの色合いといい、キーボード打鍵感、キーのサイズといい、Surfaceが都会育ちのレトリーバーとすれば、HPはまるで田舎で働いている牛である。確かに、CPUもRAMも一段階上がって、タフで動作は早いが、ただそれだけになる可能性が高い、第一印象としてはというところだ。

ただ思うのだが、電子計算機(電算機)、というかコンピューターというのは、ハードウェアの能力がいくら飛躍的に進歩しても、ちっとも使い勝手が良くならない。

振り返ると、この事実に愕然とするくらいだ。その昔のメインフレームはマンション1戸分ほどの床面積を占めながら、能力はいまのスマホ並み、使いにくさはマニュアル式の自動車のほうが遥かに使いやすい代物であった。オペレーターの資格をもった人々は、恐れ多くも電子計算機を管理・運用できる専門家であったわけで、下々の一般ユーザーは自動開閉扉の内部には侵入できない規則であった。そんな不便な時代が何年続いたろうか・・・。

そのうち、Personal Computerなるものが出てきて様変わりした。その前に、確か≪ワープロ≫なる製品が一世を風靡して、誰もが富士通製"Oasys"の親指シフトをほめちぎるようになった ― あっという間に市場から淘汰されたが。そんな思い出は以前の投稿にも記してある。

小生の愛用機は、メインフレームからPC98機、それからAppleのMacintosh Plus、SE/30へ急速に小型化した。ちょうどその頃は、VaxやSunがIBMを駆逐し始めた時期に当たるのだが、結局、仕事ではWindowsで落ち着いた。一体、何台のPCを使っては廃棄してきたのだろう。いい論文につながった縁起のよいマシンもあったし、鳴かず飛ばずのまま更新された機械もあった。一時、Windows Serverに道草をしたが、今はWindows11 Homeで十分だ。ブラウザとエディタ―の他はとりあえずRstudioとAnacondaを入れておけば、やりたい事はほぼ全てやってくれる。前のSurfaceには多数のソフトがいつの間にか増えていたが、本来は、これで充分なのだ。そうそう、EvernoteとOne Noteには溜めたデータがあるので必要だ。あと不可欠なのは・・・マ、その時になってから決めよう。

それにしても"Pre-Internet Age"の間のパソコン世界というのは、音響カプラーやらモデムやらを繋いで公衆電話回線経由でデータ通信していたわけで、実にのどかなものであった。いまから思うと小さなサイズでしかなかった"Rogue"の圧縮ファイルを無事にダウンロードできるか心配しながら進捗状況を見つめていた夜の何時間かが懐かしい。

その頃のメインフレームを遥かに凌駕するHP Laptopの512GBもある内臓ディスクはまだスカスカである。こんなにいらなかったネエ・・・ずっと前は640MBのMOでもビッグデータと思ったものだが、いつの間にか「容量感覚麻痺」になっていたようだ。

しかし、100GB超の真正ビッグデータを使って初めてわかるような真理なんてあるのだろうか?ハッキリした真理ならスモールサイズのサンプルから推定、検定できるだろうに。1000万人も調べて初めて分かることなど、些細な事実じゃあないのか。意味ないネエ・・・だけど、進化したハードウェアだけがこなせる、ビッグスケールの仕事を創出しないといけないんだよネ、と。そんな風に思うこともしきり。

メインフレームは大空間を占拠した。今の高速PCは拡大したデータ空間を占拠して疲れもせずに動いている。何だかタコが自分の足を食っているようだ・・・

いや、これはまた別の話題であった。



HPのセットアップをしているとき、スマホとの連携を聞いてきた。

そうかあ、スマホと連携できるようになったのか・・・リモートでスマホからPCを操作できるのだネ・・・これは技術革新だ
と思うが、実はもう陳腐な技術なのだろう。

一体、これで助かったと思う人は、現代社会にそれほど多くいるのだろうか?便利なことは便利だが、その便利さが社会をどれほど効率的にしているのか、小生にはわからない。何だか作る側の自己満足だったりして・・・と思わないことはない。

でもマア、試しにやってみるかと。そう思ったが、何か「ネットワークが設定されていない」と。こんな内容のメッセージがスマホ側に表示されて、うまく行かない。何度か試みたが、マア、その過程でいわゆる≪本人確認≫を何度強制されたことか・・・わかりますけどネ。
ほんと、わかりますけどネ。犯罪が進行中じゃないのか?その心配は分かりますけどネ。それにしても、マア、使いにくいネエ・・・ログインするだけで生体認証やらパスキーやら入口が面倒化している。一度最初にやっておけばイイ、そうなの?でも、昨日と同じことをまた聞かれたよ、「お前、本人かってサ、それでいて指紋読んでくれない時もあるし、無理してナニやってるんだヨ。何をしたいんだ?」
正直、こんなやり取りが出来たらナア、と感じます。


ハードの技術革新は、社会の側の悪用可能性と必要な対応で相殺されて、ネットではほとんど技術革新の恩恵がピンと来ない。やることは単純な分析と文章作成だけなのだが・・・。こんな感想もあるようで。

作業日誌の断片をコピペして覚書としよう:

2025-11-07 HP Laptopスタート時: SONY Experiaではうまく行かず、Google Pixel Tabletで本人確認。PC画面のQRコードをExperiaでは読めず、Pixel Tabletで読む。Googleのパスキーを生成。Yahoo Japanにログイン成功! 但し、どこまでがYahoo、どこまでがGoogle上での出来事なのか、詳細にはフォローできず。
2025-11-08: Yahoo Japanにログイン時、再び本人確認。Google TabletでQRコードを読み、次いで生体認証。更に、Yahoo Japanに移行して「パスキーを作るか?」と確認される。作ると回答。また生体認証で本人確認。「これでいいか?クソめ!」とつぶやく。

ログインできること自体が有難い時代である。

多くの人にとって、上手にログインできるように知識を吸収するよりは、まずは英語で意思疎通できるようになる方が、現代世界ではよほど有益だ。その意味で、日本人にとっては英語一択の事情に変わりはない。

【加筆修正:2025-11-09】

 

2025年11月4日火曜日

断想: MLBのワールドシリーズもやっと終局に至って

MLBのワールドシリーズが終わった。毎日、多数者の予想を知りたいので賭けのオッズを見ていたが、事前予想は圧倒的にドジャース優勢と観られていた。それが最終的に紙一重の死闘が展開されたのだから、勝負事はやってみないと分からないものである。ドジャースがホームのLAで1勝2敗と負け越し、王手をかけられた時点では、さすがにこのままブルージェイズが押し切ると観る人が増えたようで、オッズも逆転したのだが、それでもドジャースは敵地で連勝した。今回のシリーズの特徴は事前予想がステージごとに裏切られ続けた点にあった。その意味で

サプライズに満ちたシリーズであった

こんな風に勝手にまとめているところだ。

時には、説明不可能な《天祐》の様なものが作用しているのかと思う事もあった。本当に《天運》というものがあって、天運がドジャースに味方しているなら、ブルージェイズが勝てないのもムベなるかな、である。

古代ギリシア人たちは、戦争の勝敗や国家の衰退は神々の争いが人間世界に映し出された結果であると理解していた。

ホメロスの『イリアス』を読むと、それがよく分かる。人間個人ゝの生涯を貫く道理と道筋は、人間には人間の解釈があるのだが、その背後には神々の対立抗争とそこから派生した因果が縁となってその人の人生を決めていくのだ、と。悲劇『オイディプス』は、あらかじめ定められた運命のとおりに生きるしかなかった人間の無力さを描写している。

人間は神の思いのままに生きるしかない、と言われればその通りであるが、現代科学主義の立場にたって世の中をみれば、人間社会の出来事はすべて人間が決めることが出来る。不幸は、人間社会の指導者の責任である、と。こういう議論になるから、古代から現代にかけて、人間が世界を観る目は180度真逆に転換してしまったと言える。

仏教では、ギリシア人が《運命》と呼んだ人生航路を《業》と言っている。ただ、永遠の過去から続く輪廻転生を通じて生まれる時に定まった《業》が、後天的に100パーセントの確度でその人の人生を決定づけるわけではなく、たまたま起きる出来事が《縁》となって、本来の《業》が現実化する。こんな世界観である。

前期までの実現値と今期のランダム要素とが、互いに絡まり合いながら、今期の値が決まっていくという意味では、統計の$\textrm{VAR}$モデルを連想させるところがある。$\textrm{VAR}$モデルでは、他の全ての変数の前期までの実績が今期の各変数に影響を及ぼすが、今期の他変数の変動からは影響されない。その意味で同時決定的ではない。この同時決定的ではないという所で、仏教の《依他起性》とは異なっているのかもしれない。

いずれにせよ

過去の出来事が現在および将来の値を決める

因果分析と言うのは、過去から将来への時間の流れに沿った議論になるのだが、しかし全ての変数の変動は、ある目的を達成するために目的合理的決定から定められた経路をたどっているだけなのだ、と。こんな正反対の見方も当然あるというのは何度も投稿した通りだ。たとえば、現在から将来への消費から得られる満足を最大化しようと考えるなら、いまこれだけの消費しかしない原因は、過去にあるのではなく、現在から将来にかけての収入、それも予想された収入の低さにある。楽観的に将来をみれば現在の行動は楽観的になり、逆は逆。昨日までがこうであったからと言って、それが今日の行動を決める理屈にはならない、と・・・

・・・マア、色々と議論はできる。

それはともかく、何となく

こんな結果になるのは、前から決まっていたような気がするし、もう一回やっても同じ結果になるような気がする。

こんな思いは、誰でも一度は感じたことがあるのではないだろうか?

人間には知性があるので、単純反復はしない。歴史は単純には繰り返さない。しかし、韻を踏む。形を変えながら、結局は同じ結果になり、状況は必然的に定められたとおりに変わって行く。それが《法》、つまりは《法則》というものだ。それが事前に予想できなかったのは、他でもない《人間の無知》による。

ソクラテスも言ったではないか。

人間は本来何も知らない。しかし自分は自分が無知であることを知っている。

と。

思うのだが、デカルトが発見した《考える我》とソクラテスの《無知な我》とを対立させるとき、小生はソクラテスの(というよりプラトンの)人間観にずっと共感を覚えるようになった。

今回のワールドシリーズでは事前の予想が裏切られ続けた。しかし、終わってみると、何だかドジャースが最後には勝利するべく定まっていたように思える感覚もある。

小生だけでしょうか?こんな感覚を覚えるのは?