2021年4月5日月曜日

前回の補足: 平等が不平等より善いというのは本当にそうですか?

昨日の投稿に次の下りがある: 

 「優勝劣敗」という大原則と強者が弱者をいたわる「慈善の精神」が古典的な資本主義社会を支える理念であった。マルクス・レーニン的な共産主義思想は結果としての平等を実現しない限り、貧困や不平等問題を根本的に解決することはできないという認識に立ったところが違っていた。日本に社会主義思想が輸入される前の明治前半、このソーシャル・ダーウィニズムが近代日本の発展を支えるイデオロギーともなり倫理ともなっていたことは、もう現代日本人のほとんどが忘れ去っているかもしれない。

一言、補足をしておこう。


人間社会を牢獄のような「身分制社会」から解放して、個人個人がもって生まれた生来の才能を開花させ、優れた人が富と力を蓄え指導力を発揮できる「自由な社会」に変えること。これが 「市民社会」の最高の理念だった。

個々の人間の違いがそのまま社会の実相となって反映される自然な状態。これが理想的な状態でなければ、何が理想なのだろう?

近代社会の意義は上の問いかけにある。

以前、旧友に問いかけた疑問がある。その旧友は、現代資本主義社会に深い疑問をもっている。つまり、平等こそ目指すべき価値であるという信念をもっている。

そこで小生がきいたのだが

要するに《完全な平等》が最も善いということなのかい? 毎月の所得は全員が同じであるようにする。財産も完全に平等になるように再分配する。もし不平等が生まれれば、もっている人から持っていない人に移転させる。そういうことかい?

友人はいった。

そうじゃないよ。

そこで小生は

じゃあ、完全な平等が最善だというわけではないとすれば、どの位の不平等が最善なのだ? 

適切な解答などは、この世のどこにもない。誰も分からないのである。「ベーシック・インカム」に賛成か反対かを問う話しであるなら、「アッ、要するにそういうことだったんですか」となるわけで、個別的かつ小さな話しである。

完全な平等を実現するには強大な権力と権力による監視が必然的に伴う。そんな社会に対する嫌悪から「市民革命」があったのではないのか?

そのときはそんな話をしたのだった。

自由と許容できる不平等とを何とか両立させる以外に上手なソーシャル・マネジメントはあるのだろうか?

少なくとも

社会主義・共産主義への道は悲惨と失敗に満ちている苦難の道でしかなかった。

これが事実である。

中国共産党の成功は、共産主義を逸脱して「改革開放」を選んだからである。ソ連共産党は中国共産党よりも遥かに忠実に社会主義の理想を目指したが、最後には非効率と停滞に沈没して消滅した。他の例も数えきれないほどだ。

平等を求めることは本当に善いことなのだろうか?

確かに神の前に人間は平等である。宗教ではそうだ。厚生経済学でも平等は不平等よりも善いという大前提を置く。

しかし、小生はこの疑問に対して、即座に「その通り」と応える気持ちは徐々になくなってきている。昔は迷いなく肯定できたが、色々な分野であまりにも反例に満ちているのが、この社会の実相ではないだろうか。


いま直面している問題は、理念や体制に源があるのではなく、適切な方策によって解決可能である、経済政策その他の政策の組み合わせによって解決できる問題である。こんな風に観ている―逆に、総合的プログラムがなぜ審議されないのだろう、と。それが不思議だ。


2021年4月4日日曜日

ジェンダーフリー: 社会思想の「流行り」の一例なのだろうか

ジェンダーフリー論が盛んである。近代社会の伝統である《機会の平等》ではなく、男女間という一つの切り口における《結果の平等》を求めるところに、いわばポストモダン的な新鮮さ(珍奇さ?)があると思っている。

小生が若い頃は「結果の平等」はむしろ「悪平等」と言われていたものだから、結果の平等を世の中で堂々と主張する時代がやってこようとは夢にも思わなかった。ずっと昔、運動会の徒競走ではゴールの手前で先頭を走っていた児童は後続を待ってあげ、みんなで手をつないでゴールインするように指導した担任教師がいたように記憶している ― 走力の違いが視える化されてしまう徒競走をやめればよいのにと小生は思ったものだ。通知表でクラスの全員に評点5を与えて物議をかもした先生もいた ― 単純な成績評価不要論である、な。

***

一つだけ絶対的に言えることは、人間社会の活動は2種類に分類されることだ。

一つは生命の現実、というか社会の物質循環という暮らしそのものを指し、経済学の対象となる。自然の一部として機能しているという人間社会の片側の側面でもある。この側面は自然の物質循環に織り込まれているので、すべて自然科学の法則にしたがう。たとえ人間以外の動物であっても自然を構成している以上、自然法則にしたがい、自然を活用しながら生きているのは人間と同じである。

人間活動のもう一つの側面は、自然の一部として展開されているのではなく、人間が創り出した世界で行われている活動である。自然とは関係のない超越的な信仰や哲学、抽象的概念を使った思想活動はすべてここに分類される。そもそも「神」なる観念をもっているのは人間だけだろう。騎手を乗せて走る馬が人を神だと思いながら走っているなどとは想像ができない。蝉が極楽往生を願っているなどは人間の空想で、それこそ人間独特の妄念というヤツだ。

前者は「形而下」であり、後者は「形而上」と呼ばれる ― 「形而上学」とは言わないでおこう。主旨をまとめるには十分だと思うので。

***

今日はこんな視点から考えてみる:

今日の標題にもしているように、可能性として、ジェンダーフリー思想は20世紀終盤から21世紀初めにかけて影響力が高まった「流行りの思想」の一つとして記憶され、現実には無力のままでやがて忘れられてしまうかもしれない。

思想上の似た例としては、「社会進化論」がある。19世紀後半のビクトリア朝イギリスにおいて一世を風靡した時代の潮流であったにもかかわらず、20世紀になってからは一気に退潮してしまった。

特に有名な主唱者はハーバート・スペンサーで、いわゆる「適者生存」(survival of the fittest)という言葉を造語したのはダーウィンではなく、スペンサーの方である(Wikipedia)。この社会進化論がインド・東洋に進出した欧米列強を正当化する思想的基盤として機能したことはもはや歴史の彼方になったが、リアルタイムで生きていた当時の人間達にとっては抵抗し難い「真理」であったのだ。「優勝劣敗」という大原則と強者が弱者をいたわる「慈善の精神」が古典的な資本主義社会を支える理念であった。マルクス・レーニン的な共産主義思想は結果としての平等を実現しない限り、貧困や不平等問題を根本的に解決することはできないという認識に立ったところが違っていた。日本に社会主義思想が輸入される前の明治前半、このソーシャル・ダーウィニズムが近代日本の発展を支えるイデオロギーともなり倫理ともなっていたことは、もう現代日本人のほとんどが忘れ去っているかもしれない。

思想には「流行現象」があるのだ。そして、時代を動かす潮流となりうるのは社会から求められている思想に限る。その他の思想は一時的には支持されるがやがて忘れられるものだ。

***

思想は、それ自体としては形而下の自然現象とは無縁で、人間社会の物質循環とも関係がない、ヒトが創り出した言葉の世界にすぎないが、だからと言って、現実の社会を変える力を持ちえないというわけではない。

政治がしばしば"Sophisticated Art"(=洗練された技芸)と呼ばれたりするのは、生活に密着する現実の問題を解決したいというのが最終目的であるにも拘わらず、その解決へのアプローチでは高尚な哲学的観念を口先であやつり、多数の人間をその気にさせ、結果として形而下の現実問題を解決しようとするからだ。権力・武力・腕力に訴えて欲しいものを獲るという解決法は自然社会でも観察される形而下の直接的方法で、動物でも考えつく(?)行動である。だからこそ、それ自体は空理空論である信仰、哲学、主義、思想で問題解決に成功すれば、人は称賛するのである。

まさに

人の生くるはパンのみによるにあらず

人間が人間であるのは、信仰|思想を考えうるところにある。 

***

ジェンダーフリー思想があるのは、この次元においてである。

結果として社会における処遇と役割、組織内の処遇と役割、家庭内の処遇と役割において男女は平等であるのが善いのだという思想は、いうまでもなく、ヒトが思いついた思想である。現実に、雌雄異体であるあらゆる種の生物において、男性と女性が世代交代に果たす役割は動物行動学の知見を待つまでもなく明らかに異なっている。この自然界の現象について、ヒトがヒトの視点にたって、これは善い、これは悪いと価値判断してみても、ただ愚かなだけである。

故に、ジェンダーフリー思想は明らかに人間固有の価値判断から由来した形而上的な思想である。

直接的な目的は「結果の平等」である。つまり事後的な違いを無くすという試みである。本気で実現しようとすれば巨大な社会的エネルギーを投入する必要があるだろう。

それだけの社会的エネルギーを求める試みと不平等を解消しようとする《共産主義思想》と、どう違うのか、どこが違うのか、旧式な小生には分からないことが多い。男女間の違いのみをターゲットにしているが、詰まるところ、名前を変えているだけではないかという気もしたりする。部分集合の要素は全てそれを含む全体集合の要素でもあるから、ジェンダーフリー思想に沿った政策提言は、全て共産主義に沿った政策提言にも(結果として)なるのではないか。

●●フリーという名前から感じる印象とは裏腹に、追求している中身は社会計画(=統制?)を志向している。それはそういう思想であるからだろう。

ジェンダーフリー思想は共産主義思想の一部分を構成するように小生には思われるのだが、実際にはそうではないのだろう。そうではないとすれば、どこがそうではないのか?確かに使用している言語は違う。しかし、言語と言うのはトーマス・カーライルがいう様に、究極的目的を飾る衣裳である。目指す最終地点が同じであれば、途中で使う言葉の違いは「カーテンの図柄」の違いでしかない。だから、ジェンダーフリー思想は小生には分からないことが多い。

一つ言えることは、不平等問題が拡大してきた1980年代初頭以降の40年間で、財政の限界と福祉国家理念の限界が意識され、社会主義・共産主義思想の説得力が高まってきた、このような思想上の変動が現実に社会を変える役割を担っていくとすれば、結果としてジェンダーフリー思想が社会を変える影響力を行使した、そんな外観を呈することはありうる。

ま、いまの受け取り方はこんなものなので、メモっておいた次第。


2021年4月1日木曜日

一言メモ: 外需主導の景気回復=日本国内の萎縮、でもあるのだが

 こんな記事がある:

中部経済産業局が31日発表した管内主要工作機械メーカー8社の2月の受注額は、前年同月比19%増の295億7900万円だった。プラスは2カ月ぶり。新型コロナウイルス禍の影響が前年に色濃く出た中国向けが2.6倍と大幅に改善した。

国内向けは10都府県に対する緊急事態宣言の発令などで9%減(81億4000万円)と、27カ月連続で前年実績を下回った。中国や北米向けの回復で海外向けは35%増(214億3900万円)と、全体では回復基調が続いている。

(出所)日本経済新聞、3月31日

製造業に関する限り、中京地域は京浜、阪神を上回る日本最大の工業地帯である。 そこで工作機械メーカーの受注額が前年同期比で約20パーセント増というのは、明るさが本式に見えてきたということだ。

この辺の事情は、3月の日銀「短観」にも表れており、

日銀が発表した短観=企業短期経済観測調査で、大企業製造業の景気判断を示す指数はプラス5ポイントと3期連続で改善し、新型コロナウイルスの感染拡大前の水準まで回復しました。これに対し、飲食や宿泊などの非製造業は、大企業でもマイナス1ポイントにとどまり、業種によって改善のペースに差が出ています。

という今朝のNHKの報道がある。 

飲食、宿泊などは大企業でも今なおマイナス圏内。工作機械メーカーの受注額も国内向けは依然として9パーセント減のマイナス。増えているのは、中国と北米向けで、特に中国向けは急増している。

国内の機械受注全体については内閣府がこんな判断を示している:

内閣府は機械受注の基調判断を「持ち直している」に据え置いた。1月は緊急事態宣言が出たが「機械受注に大きな影響はみられない」(担当者)。受注額の水準は急回復した20年秋をまだ上回っており、基調は崩れていないとみている。

感染が再拡大していた20年末時点の集計では1~3月期は前期比6.0%減の見通しだった。持ち直しの基調を保てるかどうか微妙な局面にさしかかっており、担当者は「感染症の動向には留意が必要だ」と述べた。

(出所)日本経済新聞、3月15日


今後はワクチン接種数の増加から日本経済も回復していくのはほぼ確実だ。が、その回復がどのくらいダイナミックで、活力にあふれているかどうかが鍵であろう。

どうも工作機械の受注が増えたと言っても、その工作機械を活用して生産活動を拡大するのは中国や北米であるようで。それが得意ということなら、得意な産業分野に経営資源を集中するのが経済合理性にはかなっているのだが、こんな風に進んでいくと「お客さん」はほとんど外国人ばかりになり、外国人を相手にビジネスをしている企業だけがカネを稼ぎ、その他の日本人は公的な経営支援と公的な社会保障で何とか食っていく。

こんな状態になりはしませんかネエ・・・と心配になったりもする。

まあ、

日本企業では欧米企業に比べると、株主への配当を低く抑えて、内部留保を潤沢にする特長があります。この傾向は、現在でも続いています。 1988年には100兆円、2004年に200兆円、2012年には300兆円を突破しました。そして、直近の5年間は右肩上がりで増加して、2020年には483兆円という過去最高額を記録しました。

・・・

また新型コロナウイルスの感染拡大によって、潤沢な内部留保が功を奏しました。欧米の大手企業が資金繰りに苦しみ、失業率も拡大するなかでも、日本企業は大きな痛手なく持ちこたえることができています。

URL:https://www.manegy.com/news/detail/2982

こんな見方もあるのは確かだ。

この年度末は企業倒産の第1波がやってくると予想していたが、ほとんど大型倒産が発生することもなく4月を迎えることが出来たのは、政府の政策もあったのだろうが、「巨額の使いもしない資金」を貯め込んでいると批判されていた日本企業の「ケガの功名」でもあったわけだ。

下手に新規事業に打って出てないで良かったよネエ・・・もし攻勢をかけていたら、資金ショートをおこして、大変だった・・・よかった、よかった

その意味では「結果オーライ」である。

ではあるが、日本人の生活はこの先どんどん豊かになっていくという期待が持てるのかと言われれば、そんな将来に向けての布石は打ってないなあ、ということになる。

やっとデジタル庁がこの秋に出来て、3周遅れながらマイナンバーを広げていこうという段階だ。あまり多くを望めないのは仕方がないところだが。「政府が・・・」ではなく、やはり自分たちが望む最大公約数的な方向に沿ってきたら結果としてこうなった、と考えるべき社会状況だろう。勝つことより、負けないことがリスペクトされるところが日本社会にはある。とすれば、下手な事はしない。《戦わずして勝つ》、《無為こそ不敗の戦略》、これこそ日本社会では最も賢明な生き残り戦略なのだ。《減点主義評価システム》の下ではなおさらだ。

・・・とまあ、こんな意見もありうる。

 

2021年3月30日火曜日

コロナ1年:日本のジャーナリズムの最もさびしいところ

感染拡大の核になっている営業形態が確認されているのであれば、それをターゲットにして感染抑止のための政策資源を集中投下するのが行政オペレーションとしては効率的である。

コロナ禍での感染防止政策を推し進めるには、戦後日本の民主主義で暗黙の前提とされてきた色々な大前提と矛盾するような行動をとることが求められている、という点こそいま最も悩ましいところなのです・・・というのがいわゆる「良識派」とされる人々の心理だろうと推測している。

かなり以前だが、こんな投稿をしている:

ターゲットの確定は、店舗・区域・自治体など様々なレベルがありうる。

しかしながら、ターゲットをどのように決めるにしても、ターゲットを決めること自体によってその政策は国民に対して<差別的>に働く。その意味で、ターゲットにされる側の基本的人権を侵害することにもなるという理屈はありうる。

しかし、公益拡大のため<差別的>に作用する政策が不適切ということであれば、便益平等の公共サービスの財源にするために累進的な所得税を課することもまた本当はおかしいという理屈になる。

公益のため一部の人たちに我慢を強いるのは人権を侵害する。「だから、みんなで我慢しようヨ」という考え方は、要するに「一蓮托生」のロジックであり、公益を名目として国民に「連帯責任」を求める思想と同じであろう。

小生はこのような考え方には反対する立場に立っている。

この何日か後では、こんなことも言っている:

 小生: 「経済」なんて、どうしてこんな抽象的な言葉でお茶を濁すんだろうね。「みんなの仕事の数」って言えばいいんだよ。

カミさん: 仕事の数って?

小生: 「経済を抑える」というのは、要するに仕事を抑える、客を減らす、注文を抑える、要するに、みんなの仕事の量を減らすってことだよ。仕事から外される人を増やすってことなんだよ。

カミさん: 確かにねえ、でもそうしないとコロナの感染は減らないんじゃない。

小生: 歌舞伎町でもススキノでもそうなんだけどサ、いくら注意しても言うことを聞かないホントに心配な店は、もう最前線の担当者には頭に入ってるんだよ。そんな店をターゲットにして、夜中にマスクをせずに盛り上がっているその最中に、突然踏み込んでサ、『これから緊急衛生検査を始めます。この部屋を出ないでください』ってね、店の経営者には『衛生検査令状です』とか、もしこんな行動がお上に許されればね、これは感染予防には正に一罰百戒ってものになるさ。ススキノが感染拡大の核になるって状態は、絶対確実に止められる。これは間違いないよ。

カミさん:「令状」って、そんなのないでしょ?

小生: そこさ、問題の本質は!できないんだよ、今の法律では。憲法上できないってことはないと思うんだけどね、みんなが助かるんだからさ。踏み込まれた店以外の店は、一生懸命にガイドラインを守ってるんだから、何のお咎めもないんだしね。でも、これが出来ないのさ。

 足元では、『これまでに実行されてこなかったピンポイントの新しい方策を実行しなければ感染拡大は抑えられない、国民は自粛に疲れてきた、こういうことではないでしょうか?』、『検査拡大に舵が切られてはいるんですが、広い地域を対象となると、なかなか追いつかない』、『やはり対象区域をしぼって、ということでしょうか?』・・・、いやまったく、エンドレスで同じテーマについて話し合いを続けているのが現時点の日本社会の実相であろう。

こんなことは遠く北海道の港町で世相をうかがっているだけでも分かるほどの簡単な問題である。

隠れた問題を発見するなどという高度の知性が要るわけではない。

当たり前の対応を的確に実行するだけで大いに前進するはずのことなのだ。

それが出来ないで来た。

出来なかったのは何故か?

担当部局の内部で「理論上、もっとも適切な対応方針」を提案した人が一人もいなかったはずはない。いなかったのか?誰がその提案を抑えたのか?なぜ却下されたのか?

この疑問に踏み込んでほしい、というのが視聴者、読者の最大の希望であると思うのだが、東電福一原発と同じように、問題の本質にストレートに迫って、ストレートに社会に公表するようなメディアは、日本にはどうやら存在していないようである。

日本には、結局、ウッドワードもハルバースタムも生まれないし、生まれたとしても社会が育てないのである。

「事実」で勝負せず、「話芸」で勝負する人物ばかりがメディア業界で目立つのは、日本社会のそんな傾向のためであると思っている。

そのことが最も深刻にさびしいところである。

2021年3月25日木曜日

ホンノ一言: 1万分の1未満の重みしかない現代日本の政治家の言葉

2019年7月の参院選広島選挙区における大規模買収事件で、公選法違反罪に問われた元法相のK.K.議員が、ようやっとと言うべきか、議員辞職願を提出したそうだ。ご本人は

皆さまの信頼を裏切ってしまったこと、万死に値すると考えます。お金で人の心を『買える』と考えた自らの品性の下劣さに恥じ入るばかりです。

と所感を述べているよし。

フ~~ム、「万死に値する」ということですか・・・。

昭和20年8月15日の朝、陸軍大臣の阿南惟幾は

一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル

との遺書をのこし割腹して謝罪した。 

後者は「一死」をもって謝罪するという言葉をその通りに実行した。前者は「万死に値する」と述べながらも、(多分)言葉を実行する意志はないとみる。

軍国主義時代の日本の陸軍大臣の言葉より、民主主義国に変容した現代日本の国会議員の言葉は、その重みにおいて、1万分の1未満の価値しかないという理屈だ。

「政治主導」、というより単に普通選挙で当選した「政治家」主導というべきだが、形容できないほどの「軽さ」にはただ呆れるしかない。実績評価、能力評価なしで誰もが立候補できる普通選挙というのは、誰かが必ず当選するもので、本人がどんな人か分からないままに投票する現状では《クジ引き抽選》とあまり大きく異なるところはないとみる。「支持政党なし」という階層が主たる階層である現代社会において、上のような状況になっているのは理の当然だろう。

2021年3月24日水曜日

ホンノ一言: 反乱とレジームスイッチの前兆は?

 国快で審議される政府提出法案に相次いで(単なる誤字・脱字・誤変換を超える)ミスが多発して大問題となっている。こんな報道もある。

政府が提出した法案に相次いでミスが見つかった問題を受け、野党側は政府が法案の再点検を終えて国会に報告するまでは、衆議院のすべての審議に応じない考えを示しました。

(中略)

これまでに出てきた法案のミスは12府省庁にわたり、合わせて19法案、1つの条約です。

(出所)livedoor NEWS, 2021-03-24 14:30配信

(URL)https://news.livedoor.com/article/detail/19904331/

法案等の条文校正作業は担当課の課長補佐レベルの責任である。そこが機能しなくなりつつあるということは、省庁内部で課長以上の管理職が下の実働部隊の作業をグリップできなくなってきている。そんな状況が中央官庁内で相当広がっているのではないかという憶測が出てくる。


上が下をグリップできなくなるとどうなるか?

戦前の例を思い起こす必要もなく、実働部隊による組織的怠業、抗命、意図的改竄、隠蔽等々という行為が蔓延するということである。

その果てに、組織的な権力奪取を敢行する人間集団が出てくるか否かは、最終的には、カリスマ性のある人物が枢要なポジションにつくかどうかで決まることである。

***

そんな人物が枢要なポジションにつくかどうかは、多分に偶然によることだ。が、もしそんな人物がいま現実に(どこかに)存在するなら、力をつける絶好な世相になっている。

「政治主導」への幻滅、感染防止・医療政策への幻滅。ポストコロナ時代の経済ヴィジョンを語らない政府に対する落胆。政治家の野放図振りへの義憤。幻滅と落胆、義憤のカクテルだ。

理性を失いがちな悪酔い状態。こんな世情になると、どんな事が起こるか?エネルギーが発散されないまま溜まって時間が経過すればするほど、それだけ将来のある時点でより大規模な激震が予想される。危ない兆候がいま観察されているのだと小生は思う。前兆を見過ごすのはコロナだけで勘弁してほしい。一つの統治機構の終わりが意識されていなければ幸いだ。

戦後日本では「戦前日本の失敗の始まり」として周知の「満州事変」だが、当時のリアルタイムの報道では、選挙で選ばれた「民主的な」な政府ではなく、「暴走」しているはずの関東軍の方を大多数の日本人は支持したのである。やはりその当時、第一次大戦後の政党・陸軍主流派による上層部は中堅以下の実働部隊をしっかりとグリップできなくなってきていたのである。「中国危機」と「世界大恐慌」が盤石に見えた大正デモクラシー以降の政党政治を崩壊させる契機となったのだった。憲法も護憲もどうでもよくなり、当時の日本国民は「国民精神総動員」への道を選んだ。

2021年3月21日日曜日

『別の言葉で言い換えてみるとどうなる?』は常に有効な確認法である

 最近の疑問を簡単にメモにしておきたい。

『価値観を共有できるかどうか』が、ここ近年の決まり文句になっている。ところが、その価値観なるものを聞いてみると、人にとっての普遍的価値は「幸福」であるでもなく、「命」にあるでもなく、「福禄寿」でもなく、要するに「人権、民主主義、法の支配」だ、と。

「何だよ、それ」と言いたくもなるのだ、な。

***

『そんなもの、あっしにゃあ、かかわりのない事でござんす』と言いたくなる。

《人権・民主主義・法の支配》の3点セットに対しては、《統治権・徳治主義・賢者の支配》を持ち出すとしても、個人的にはそれほど反発を感じない。前者のセットでは国民は幸福になり、後者を認めてしまえば国民は必然的に不幸になるとも思われない。いい時はいいし、ダメなときはダメ、社会体制に関して最適解などはないと小生は思う。

フランスは旧体制(=アンシャン・レジーム)を打倒して民主的な新体制を確立したが、旧体制から新体制への前と後で、平和になったか、落ち着いた暮らしが出来るようになったか、善い人が増えたか、悪い人が減ったか。小生は体制選択などは単に好き嫌いの話しだろうとさえ思っている。

結局、「民主主義は善い」という大前提を置いてしまうかどうかで以後の議論は決まるのである。困ったら「この公式がありますよね」という不変の真理に訴える感覚だが、実際にはそんなものはない。民主主義が体制の最終形であるかどうかは、歴史的にも反例が多数あり、空間的にも反例が多数あり、その普遍的価値が実証されているとは言えない。

であるにもかかわらず、民主主義は善いという公理をおいて議論を進めることは科学的でない。

こんな空虚な議論につきあうよりは、昔ながらの

惻隠之心 仁之端也 (惻隠の心は仁のはじめなり)

羞悪之心 義之端也 (悪を羞じる心は義のはじめなり)

辞譲之心 礼之端也 (辞を低く譲ろうとする心は礼のはじめなり)

是非之心 智之端也 (是非を知ろうとする心は智のはじめなり)

孟子による徳の四端説の方が余程ピンと来るというものだ。社会で大事な要素は、権利、主義、支配という言葉ではなく「思いやり」であろうという指摘は、現代日本社会の現実を見る限り、いわゆる「共有するべき価値」よりも遥かに有効性がある。

正直、そう考えてしまいますがネエ・・・

***

ここはデカルトの昔に戻って『我思う、故に我あり』。健全な懐疑主義に立脚して、世の中で正統派とされている議論は、全て疑ってかかるのがよい。

価値観を共有できるかどうかが鍵だ、というのは言い換えると「俺たちの側につけ」という恫喝と本質的には同じであるとみる。