2023年3月30日木曜日

覚え書き: 異次元の子育て支援は「特別会計」にして理解を得るしかないのでは?

今日は、文字通りのホンノ一言。


異次元の子育て支援策が最大の政治課題になってきている。先日も、防衛費倍増とは異なり、子育てに関しては消費税率引き上げも理に適っていると投稿した。

とはいえ、消費税率引き上げに対する日本国民の感情的アレルギーは相当なものであり、ヨーロッパのようなVAT(付加価値税≒消費税)の税率20~25%など夢のまた夢であろう。

ただ、子育て支援、ベーシック・サービス、教育支援、人材育成支援の拡大等々、財源拡大は避けて通れない。増税は、日本人が乗り越えなければならない壁であるのは、もう誰も否定できないはずだ。

★

増税がこれほどまでに拒絶されるのは、税によって奪われる購買力が、<財政再建>のため、つまり予算規模一定の下での国債管理、つまりザックリと言えば、国の借金返済に充てられる可能性が高いからだ。

国債は将来世代から借りた現在世代の負債である。借金を未来に先送りしないのは確かに良心的であるが、普通の家計に置き換えて考えてみたまえ。所得が増えないまま「家計健全化」を狙って借金の返済を始めれば生活はきつくなる。当たり前の理屈である。

日本人の収入が増えて行かない状況で、ひとえに財政再建のため増税を受け入れて、甘んじて生活をより貧しくするなど、普通の日本人が賛成するはずはない。

★

それでも子育て支援は強化する必要がある。日本社会の維持のためには解決しなければならない問題がここにある。そのための財源がいる。

国債増発は財政の信頼を考えれば無理だ。臨時的にカネを探しても継続が困難だ。だからだろうか、TVのワイドショーを視ていると、素人の若いコメンテーターが

である以上、高齢者に向けた年金を改革(≒減額)するしか道はないわけですよネ。

などと発言している。Aが必要になったから、Bから抜いて来る、いわゆる<やりくり財政>の提案だ。「いかにしのぐか」を何時も考えている御仁なのだろう。

ヤレヤレ、失われた30年の間、ずっとこんな風にやって来た。しかしネエ……、《年金改革》がいかに困難を極める政策であるのか、発言しているご当人は理解しているのだろうか?

エンプティだと今更責めても意味はない。多くの人はこんな風にやりくりで対応するのである。


いまフランス全土で起きているデモや暴動は、マクロン大統領による《年金改革強行》へ抗議する意志が民主主義の表出という形をとって現れているものだ。そして、今のフランスはひょっとすると明日の日本でもあるのだ。戦費調達に苦慮しているロシアのプーチン大統領ですら、ロシア国内の年金水準をどうすれば減額せずにすむかで悩んでいる。おそらく年金は減額せず、マネーを増発してインフレで解決するだろう。

年金減額は、既に年金を受給している高齢層だけが反発するわけではない。年金受給を控えた60代、50代の現役世代にとっても、人生設計を覆してしまう程の衝撃となるのだ。

大体、

塾とかお稽古ごとにお金がかかるから、お爺ちゃんもお婆ちゃんも御免ね。生活費を減らして助けてくれない?

こんな発想では、政策効果を合計してゼロにしかならないのは、簡単な理屈である。心理的悪化から塾もお稽古ごとも結局は続けられず意図した目的は達成できまい。

《公的年金制度》は、一度始めてしまえば、それが「国民皆年金」であれば、それだけ強く政府の手足を縛り、その呪縛から政府が解放される可能性などないと考えなければならない。

福祉国家は社会主義と同じであって、継続がどれほど苦しくなっても、一度始めれば停止できない。停止するのは体制そのものが倒壊するときである。もしそんな時になれば、あらゆる階層の国民全体が破綻した社会の中で塗炭の苦しみに泣くのである。

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恒常的な財源は税しかない。しかし、消費税率引き上げは、これまた極めて難しい。

であれば、増える税は<財政再建>でただ吸い取られるのではなく、確実に家計部門に還流することが目に視えなければならない。

そのためには、子育て支援に充てられる税は一般財源ではなく特定財源、つまり「子育て財源」とする。消費税と一括徴収されるものの明確に区分けされた《子育て支援特別消費税》という新税を設け、《子育て支援特別会計》を通して支出する。

特別会計にすれば、日本人は10兆円の税を新たに取られるとしても、それは薄く広くあらゆる年齢層の日本人が負担する子育て費用であり、そのカネはすべて子育て世帯に還流することを疑わないはずだ ― 確実に子供のために支出されるためには貯蓄可能なキャッシュではなく、現物支給に近いクーポンなどを活用する方が望ましい。これはちょうど、ガソリン税、自動車重量税などの「道路特定財源」と同じ会計処理になる。

子育て支援が例えば教育、医療など「ベーシック・サービス」に目的が拡大されるとしても、従来の消費税とは区分けされた、特別消費税の税率を引き上げればよい。

このように社会的子育てを視える化できれば、増税に反対する日本人もいるだろうが、少なくとも感情的な反発は(ある程度?)抑えられるのではないか ― 特別会計の所管は「こども家庭庁」であっても職員は(おそらく)厚生労働省から出向になるだろうし、そうなれば財務省は何も得をしないので猛反対するだろうが。

2023年3月28日火曜日

ホンノ一言: データ・ファースト。日本に足らないのはこれだろうか?

《データ・ファースト》の経営が望まれているという。統計でメシを食ってきた小生には嬉しい事だ。言わんとすることは小生も大賛成である。将棋や碁と同じで、<定石>が正しいことは過去のデータをみれば分かる事である。

しかし

データ・ファーストで行きましょう。エビデンスに基づいて経営判断しましょう。

確かにご尤もだが、日本国内に限ると

データに基づけば、ここは慎重に判断するのが一番です。

今はこんな結論になるのは明らかではないだろうか?

利益重視、差別化重視で高めの価格設定を選んでも、競合企業が過剰設備の低稼働率に悩んでいれば、利益重視の戦略の裏をかいて、攻撃的安値戦略で顧客を奪いに来る。そんなことの繰り返しではなかったのだろうか?だから、データを重視すれば、いつでも値下げ競争に応じられる体制をとっておく。こう考えるのではないだろうか。


ただでさえ、日本国内では企業の開業率、廃業率が先進国の中で際立って低い(資料は例えばこれ)。

古いモノが残っていくという安定性は、それだけ伝統を尊重するからでもあるが、いまはそのマイナス面が現れていて、経済界の新陳代謝が滞っているのが日本経済の問題のコアなのである。デフレ・トレンドはその結果の一つだ。新規の成長分野に挑戦せず、創業者利益を目指さず、本業を重んじ、不毛の過当競争を続けてきたと言えば言い過ぎになるだろうか?

過去のデータに拘っていては、創造的破壊を起せないのではないか?

そんな気が何だかするのだが。


同じデータでもまだ相対的に活力のあるアメリカのデータを参照するのならよいが、日本とアメリカでは制度、慣行、規制、経営者気質、国民性など、企業をとりまく環境が余りにも違う。

せめて制度や規制だけ、競争を尊ぶ気質だけでも日米横並びにすればよいが、「コロナ対策」一つとっても、

日本は外国とは違う。

という感情が日本社会で共有されている。


データ・ファーストを強調するのは、足元の日本経済には適合しないのではないか。むしろ、破壊を怖れるな。データよりアニマル・スピリットを持て。必要とされているのは、日本に必要なのは、こちらではないだろうか。

データが足らないのではない。分析スキルが足らないのではない。能力が足らないのではない。足らないのはスピリットだ。

そう感じてしまうのだが。

下に向かって《精神力》を強調するのは無能なトップの証拠である。しかし、目標達成に努力している中で、精神力のあるなしは勝敗を分ける鍵になる。これは誰もが知っている事ではないだろうか。

2023年3月26日日曜日

断想: 2023年の春近し、北の大地から

 一月ほど前はまだ拙宅の周りは雪一色であった。


ところが、この一月の間に、道の両側に降り積もった雪は融けてしまった。近隣の人たちが雪割りに勤しんだことも雪解けを早めた。黄金週間前に桜が開花すると予想されているのも北海道に来てから初めてだ。

今日の午後、近くを散策すると枯れた芝草の間から丸坊主のような緑の  蕗の薹 ( ふきのとう ) があちらこちらで姿をのぞかせていた。春近し、だ。

潮風の 薫りとどきて 蕗の薹


いま、毎日の暮らしに不足や不満、不安はない。足るを知れば幸福が訪れる。しかし若い頃を振り返ると、いかに周囲の期待を裏切り、いかに多くの人を失望させてきたかに愕然とする。いま分かるなら、もっと前に分かっていたかった。その時は我が道を歩いているつもりだったのだ。自分の人生はこうだったのだと思うしかない。悔いはある。その悔いを癒せるのは行動でもカネでもない。要するにもう無理なのだ。小生の場合、引き受けるべき負担がこんな形になってはね返っている。フリーランチはないわけだ。ここに信仰というものの意義があると理解するまでに長い時間がかかった。

本ブログで例えば<阿弥陀>、<他力>で検索すると、結構な投稿がかかってくる。ブログとはWebLogの意味だが、なるほどその通りである。

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10年以上前の投稿になるが、こんな事も書いている:

毎月の月参りで亡父母への読経をお願いしている住職が盆供養に来た。帰りにパンフレット『はちす』を置いて行った。読むと大本山の一つである清浄華院の詠歌について説明がある。

雪のうちに 仏のみ名を 唱ふれば

      つもれる罪ぞ やがて消えぬる 

阿弥陀如来の名を唱えて只管に他力信仰を実践すれば、金銭欲、愛欲、名誉欲で汚れきった自分の心が浄化され、清らかになり、幸福に至る道に戻ることができる。

このような文章はそれ以前に何度も読んだりして来たはずだ。だが、要するに分からなかった。ピンと来なかった。宗教と科学との主たる違いはここにある。

データに基づいてロジカルに結論を出す科学は万人が理解しやすいのである。信仰は分かる人には分かるが、分からない人には分からない。仕方がないではないか。

宗教だけではない。哲学もそうである。カントの『純粋理性批判』を読んで、一体どの位の人が「よく分かる」と言うだろう?分からなくて当たり前なのだ。ロジカルに議論しているはずの哲学であっても、内容が分かるのは分かる人だけである。同じ事情は数学にも当てはまる。

多数の人が分からない、だからといって、それには意味がないとは言えないわけだ。多数の人が分からないことで重要なことは無数にある。というか、多数の人が分かる事は、要するに簡単な事柄に限るのである。

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ところが、簡単であり、重要なことでありながら、実現できていないことは多い。

足元では

平和を犠牲にしても、もっと大事なことがある。

そんなことを政治家はよく口にする。しかし、こんな見解を真に理解できる人がどれだけいるだろう。わが身の事と考えて「その通りだ」と理解できる人は多数を占めているのだろうか?

むしろ

戦争よりは平和がよい

小生はこちらの方が自明だと思う。この当たり前のことは誰でも分かるのではないだろうか?そして、この簡単な命題が真ではないのだろうか?

だとすれば、簡単で真理でもあるが実現できていないわけである。実現を妨げている要素があるからだ。

もはや学問上の問題ではない。当たり前の努力が欠けているのである。なぜ欠けているか・・・学者に聞いても答えは出て来ないだろう。


今日は『春近し』という感想から、思わぬ方向へ話が飛んでしまった。連想ゲームも時には面白い。

この辺にしておこう。

2023年3月24日金曜日

ホンノ一言: 他者評価のランキング・ビジネスもいよいよ自壊する兆し?

前稿では「自己本位」とは正反対の「他者本位」の価値観は、内容空っぽで意味がないと考えるのが小生の立場だと述べた。考えているというより、もうこれは経験を通して得た結論だと言ってもよいのだ、な。

他者本位の価値観から生まれてきたビジネスの代表例がマスコミが好んで発表しているいわゆる「〇〇評価」や「▲▲ランキング」、「□□順位」である。

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ところが、この評価ビジネスもどうやら崩壊の兆しを見せてきたようだ。

残念ながら、日本ではない。何ごとも日本に先行するアメリカ発の変化である。

Wall Street Journalに《大学評価ランキング》の実質崩塊状況がとり上げられている。

多くの大学経営者と同様に、ガーケン氏は長年にわたり、米誌USニューズ・アンド・ワールド・リポートにロースクール(法科大学院)のランキングを見直すよう求めてきた。同氏が問題視したのは、イエール大学ロースクールに対する評価ではなかった(同ロースクールは30年以上連続で首位を守ってきた)。彼女は、同誌のランキングが各大学とそれぞれの優先事項に与える、もっと広範な影響を懸念していた。

 ガーケン氏は同日の書簡の中で、「USニューズのランキングには重大な欠陥がある」と指摘した。そしてイエール大学ロースクールは同誌のランキングに協力することを拒絶した。

 それから3カ月以内に、40校を超えるロースクールがUSニューズとの協力関係を終了し、同誌へのデータ提供をやめる意向を表明した。撤退数は同誌がランク付けするロースクールの約20%に当たり、ランキング上位14校のうち12校を含む。追随する動きはメディカルスクールの間でも相次ぎ、その中には、ランキング1位のハーバード大学メディカルスクールも含まれていた。学部レベルでは、ロードアイランド・スクール・オブ・デザイン(北部の地方大学部門で3位)とコロラド・カレッジ(全米リベラルアーツカレッジ部門の最新ランキングで27位)が先月撤退した。

 USニューズ誌の大学ランキングは、進学を目指す若者たちの間で何世代にもわたり、最も知名度の高い情報源となってきた。一連の撤退で同誌のランキング事業は大混乱に陥っているが、その端緒は何十年も前にさかのぼる。大学の学長・学部長・研究機関の研究者らは、USニューズ社のデータ戦略担当責任者に対して、書簡や電話、会議、ワシントン本社での面会などを通じて定期的に懸念を表明してきたことを明らかにした。彼らは、同誌のランキングが不透明なもので、最も裕福な学校を優遇し、生徒に恩恵をもたらさない慣行を促進してきたと主張。その上で、教育のような複雑なことを一般的なランク付けに単純化しないよう警告した。

Source: WSJ,  2023 年 3 月 22 日 14:41 JST

Author: Melissa Korn

URL: https://jp.wsj.com/articles/the-unraveling-of-the-u-s-news-college-rankings-8a3a1cbd?mod=trending_now_news_4

*

「評価ランキング崩塊」の根本原因は、複雑な実態を消費者(≒ 大衆)に分かりやすく単純化して伝えるという、その《単純化》という方法論に隠れている本質的な欠陥である。

計量経済学でも、マクロデータ分析とミクロデータ分析がある。往年のマクロ計量モデルビルダーとして仕事をした人であれば、一本の行動方程式を推定した時の決定係数が0.95というのは極く当たり前に求められていた数字であり、例えば投資関数でそれが0.75などという値に留まっていれば、「投資関数、弱いんだよね」と話していたに違いない。こんな日常感覚であったはずだ。ところが、個人々々の行動を記録したミクロデータになると、サンプル数が何千あるいは何万のオーダーに増え、モデルによる説明力もせいぜいが0.40とか、低ければ0.25程度にとどまることが普通にある。それでも大標本であるため推定されたパラメーターがしばしば有意となる。パラメーター推定値が理論的要請をみたし、かつ有意であれば分析としては大成功なのである。モデルでは説明されていないノイズが半分以上の割合を占めるとしても、『それだけ個人差が大きいということだよネ』と。ミクロ分析にはそんな感覚がある。

ミクロデータ分析では、個人間の違いをカバーするためモデルに取り込む説明変数が多数に上るのが自然だ。それでも個人間の差異の多くは捕捉しきれずに残る。モデルでは説明できない個人差として残される割合が非常に多い。


この辺の事情は、理論を検証する確証的統計分析でも、データから面白い事実を引き出すための探索的データ分析でも類似している。

つまり、ミクロ分析では、「分析結果」として語られる以外の、分析者の視野から漏れ落ちる部分が、全体の半分以上を占めることが多いのである。

*

今回の《評価ビジネス崩塊》をもたらした背景としては、個々の大学が果たしている《教育活動》は、非常に多数の、それでいて一人一人の学生の人生を相手にしている以上、その成果の現れ方は極めて複雑であるという点がある。

その複雑な教育現場の実態を、統計的に数値化し、大学間の違いを数字の違いに還元して《視える化》してきた。最近流行のKPI(重要業績評価指標)が教育現場にも活用できるかのような流れが形成された。視える化するという統計的技法は、それ自体は便利なものなのである。問題は、分析結果として数値化されたその数字が、本当に教育現場の実態をどの程度正しく伝えているかである。やっていることは個々の大学のミクロ分析なのだ。視覚化された結果が、大学間の違いをほぼ完全に包括しているのだ、と。もしこんな風に受け取るなら、それは間違いですよ、と。見落としている違いが実は半分以上残っているンです、と。これを言っておかなければいけなかったわけだ。

大体、50メートル走のタイムと背筋力、英語・数学の定期試験の点数、それにクラス委員になった回数など、その他幾つかのデータをいくら集計・数値化しても、一人の生徒を評価するなど出来もしない事であって、順位付けには意味はまったくない。こんな簡単なことは誰もが分かっているわけだ。

しかし、これを言うと、ビジネスにはならない。

ならないはずのビジネスをビジネスに出来たのは、大衆(?)が根底で抱いているエリート崇拝(?)の心理であるに違いない。


ビジネスにはならない生煮えの商品を誇大にフレームアップして販売を増やすのもマーケティングの一環だと言われればそうかもしれない。が、社会的には明らかな失敗である。そんな可笑しなビジネスも一度それが企業利益にビルトインされてしまうと、制度化されてしまい、変革が難しいのだ。上に引用した今回の動きは、現場の人間なら普通に感じてきた当たり前の感覚が、実は内容貧弱であったビジネスの継続性を否定してしまった例として記憶されるだろう。

ま、こんな風に観ているところだ。

日本にも、内容空っぽな《数字ビジネス》に意味もなく経済資源を投入している例が非常に多いと感じている。上の記事は日本社会にとっても有益な情報だと思った。



2023年3月21日火曜日

覚え書き: インフレファイターは「攻撃的金利引き上げ」を継続するのだろうか?

 俄かに浮上した《世界的金融不安》で今月21日‐22日開催予定のFOMCで金利が据え置かれるのではないかとの見通しが、これまた「俄かに」囁かれるようになってきたそうだ。

 先週、米国の地銀2行が経営破綻したことをきっかけに、金融不安がより広範囲に及ぶとの懸念が広がったことを受け、米連邦準備制度理事会(FRB)の利上げサイクルは終了したと予想する投資家が増えている。

(中略)

FRBのジェローム・パウエル議長は1週間前(銀行の破綻が相次ぐ前)、0.5ポイントの利上げを示唆していた。このため、投資家は年内に政策金利が5.6%まで上昇する可能性があると予想していた。

 この発言の後、シリコンバレー銀行(SVB)の保有債券の損失が懸念され、米財務省と銀行規制当局は12日、中小銀行の顧客の信頼回復に向けて積極介入を余儀なくされた。

Source: Wall Street Journal, 2023 年 3 月 16 日

URL: https://jp.wsj.com/articles/bank-failures-market-turmoil-fuel-bets-on-a-pause-in-fed-interest-rate-increases-d0652b05

EUの中央銀行ECBは0.5%の利上げを決定して、あくまでもインフレ抑え込みに全力をあげる姿勢だ ― 金融機関の方が耐えられるかどうかは分からないが。

アメリカはどうするのだろう?

ドル供給に不安は生じさせないよう日米英欧加瑞の6中央銀行が今後協調していくことは決まった。

そもそもドルベース・マネーサプライが過剰に減少していることへの不安は、既に昨年夏の終わりにEvans-Pritchardが英紙Telegraphに寄稿していたことでもある。

But, again, be careful. Inflation may fall too fast for comfort. The US money supply figures have swung from boom to bust. Over the last three months M1 money has contracted in absolute terms, and has been falling at a double-digit annual pace in real terms. If this does not lead to recession this winter, it will be a miracle.

The greatest danger is the behaviour of the Fed itself. The institution seems not to have learned any theoretical lesson from what has gone wrong. It clings to its old model. It persists in ridiculing money data. It is therefore in the process of repeating the mistake it made two years ago when it generated today’s inflation, but this time in the opposite deflationary direction through monetary overkill.

Source: The Telegraph,24 August 2022

Author: Ambrose Evans-Pritchard 

URL:  https://www.telegraph.co.uk/business/2022/08/24/us-federal-reserve-actively-wishes-crush-stock-markets-ignore/

本ブログでも昨年10月下旬にこう投稿している。

どちらにしても、来年になってまだ金利を上げるようなら「バカじゃないか」という声が増えそうである。

ホントに『バカじゃないか』という声が増えそうな雲行きになってきた。 




2023年3月18日土曜日

断想: 他人の評価は下らないと思っているのにまだこんな夢をみるか

夢を見た。自分がいま暮らしている町だと思うが、ある煤ぼけた建物の玄関先、にわかな強雨で雨宿りをしていた。そこに世話になったことがある役所の先輩が通りかかり小生を拾ってくれた。家に寄っていけという。車は段々と町の奥へと走り山が迫ってくる。家並みが疎らになってくる。自分はこんな奥にまで来たことはない。やがて古いマンションの前で停まり1階の扉の前で『ここだ』と言われて、入ると奥さんが迎えてくれた。挨拶をして靴を脱ごうとする。ところが長靴をはいていて中々脱げない。脱ぐと横に倒れてしまう。直しながら『すいません、田舎に住んでいると、いつの間にか長靴の生活に慣れてしまって……』と言い訳をする。何だか場違いの様で肩がこる。

部屋に入ると先客が2,3人来ている。夢の中で判然としないが、一人はどうも顔見知りだ。会った事がある。先輩であったかもしれない。部屋が狭くて息苦しい。お互いにくっつくように座る。すると、顔見知りかもしれない人が、何だったか美味い料理か、食材のことだったか、小生に問うてきた。応えると『それは人気のある店か、何番目くらいの店なんだ』などと、そんな質問をする。『何番目って、なんて下らないことをきく先輩だ』と思って不愉快になった。……と、ここで目が覚めた。

小生の不愉快は先輩にも、以心伝心で伝わったに違いない。仕方がない。自分はこんな人間である。とてもじゃないが、可愛がられる後輩にはなれないネエ…。

***

北海道の港町で暮らしていると、何番目とか、一番人気とか、地元で暮らす人間にはもうどうでもよい話である。全て日常生活の反復の中にある。自分が気に入って満足度が高ければ、何か必要な点は他にはない。実にシンプルである。

正に白楽天の漢詩のように

日高ク睡リ足リテ猶起クルニ 慵 ( ものう ) し 
小閣 衾 ( しとね ) ヲ重ネテ寒ヲ 怕 ( おそ ) レズ
遺愛寺ノ鐘ハ枕ヲ 欹 ( そばだ ) テテ聴キ
香炉峰ノ雪ハ簾ヲ 撥 ( かか ) ゲテ看ル
匡廬ハ 便 ( すなわ ) チ是レ名ヲ逃ルルノ地
司馬ハ 仍 ( な ) オ老イヲ送ルノ官ト為ス
心 泰 ( やす ) ク身 寧 ( やす ) キハ是レ帰スル 処 ( ところ )
故郷何ゾ独リ長安ニ在ランヤ

マア、小生も東京で20年余りを過ごした。そこでは何が価値であるかも知っている。自己本位とは正反対の他者本位の価値観もよく理解しているつもりだ。そこから由来するランキングや△△番付、順位付けも馴染みである。関心の高さも知っている。それでなくとも日本人は<偏差値>が大好きだ。

夢の中とは言え、そんなエンプティで空っぽな価値観を思い出したので、目覚めた時はまだ不愉快な気持ちが残像のように心の中に残っていた。

***

評論家と言うよりは文人・江藤淳を初めて知った講演については少し前に投稿したことがある。その埋め合わせと言うわけでは決してないが、江藤淳の著作を読むのを小生は好んできた。

最初にまとまって読んだ本は『夜の紅茶』というエッセー集である。今でも持っているその本の奥付きには1972年4月第2刷とあるから、どうやら上の講演会で江藤という人の存在を知って早速その人の書いた本を買ってきたものと思われる。小生は、その頃、その中にある「ミスター・エトウ・イズ・オン・ヴェケーション」という章が大好きで、

本を読んだり、原稿用紙に向かっていたりはするのだから、私は働いていない、というのではない。そうかといって、働いているのかといえば、そうだともいえない。私はこのごろ、小鳥の声と雑木林をわたる風の音を聴きながら、窓外の緑の木の間の青空に、白い雲が流れて行くのを、ボンヤリ眺めていることのほうが多いからである。

特にこの一節は、至福の時間のようにも思えて、こんな風に生きて行けるなら「最高」だろうなあと思ったことをまだ覚えている。

江藤淳の代表作と問われたら、未完ながら第1部から第5部にまでわたる『漱石とその時代』を挙げる人が多いと思う。何度も繰り返して読むに値する作品だが、第3部の終わり近く、24章「朝日新聞社入社始末」の中に

小生はある意味に於て大学を好まぬものに候。然しある意味にては隠居の様な教授生活を愛し候。此故に多少躊躇致候。

漱石による書簡の文章が引用されているが、この「隠居の様な生活」というのは、不足や不満から解放され自立している人間の究極的なあり方とも考えられ、小生もこの辺は同じ感覚なので、非常に気に入っている個所である。そして、いま暮らしている町はそんな人生を送るには大いに適した場所である。生きた時代が違っても一人の作家に魅かれる時というのは、自分と同じことを感じながら生きた人がここにいることを発見する時である。現実の世界では自分と同じことを考えている人に巡り合えないと感じているのであれば猶更のことである。友を過ぎ去った過去に見出し、文章を通して会話し、今は過ぎ去った世界を胸中に再現して、リアリティとするわけである。かつて蕪村が100年も昔に生きた芭蕉を「心友」にしたと伝えられているが同じことだ。明治の俳人・正岡子規が蕪村の中に近代的詩人の感性を見出したのも同じである。

***

人の役に立ちたいと願うことが、それ自体、悪いことだとは思わない。

ライバルと競って、自らのスキルを高め、ナンバー・ワンの評価を求めて努力すること自体は、立派である。

何故なら、そこには自由な選択があるからだ。小生は修羅場が嫌いになったが、最後までそれを選ぶ人もいる。

そうではなく、自分の身体をどう使うかを他人の希望に任せたいというのは嫌いだ。まるで自分を使ってくれるご主人様を求める奴隷ではないか。動く手足を自分で持っている他人の手足の代わりになって、自分の手足を使わせたくはない。手下や刺客になるのは真っ平だ。

自分の身体の使い方は自分で決めたいと思う。

だから第1位やベスト10とか、他者評価を知って、それを自分の評価とする人生はおくりたくない。

であるのに、夢の中に出てきた先輩から「どこが一番の店なんだ」などと、実に下らンと思って目が覚めたのは自然なのだが、もう勘弁してほしいと思う。

【加筆】2023-3-19


 


2023年3月13日月曜日

覚え書き: ロシアがもたないだけではない。アメリカももう無理なようで。

 前稿で述べた一言コメントの要旨は

今回の銀行破綻は、(巨額のウクライナ軍事支援という事情もあるが)財政拡大下で強行しようとしているインフレ抑制がひき起こした荒っぽい《クラウディング・アウト》であると考えられる。

ということ。


実は、著名なマクロ経済学者であるGregory Mankiwが自身のブログで次のように投稿している。さわりの部分だけを抜粋しておく:

... monetary and fiscal policymakers are partly to blame for the recent inflation surge.

... some significant amount of monetary tightening is in order.

... The question is, how much monetary tightening is in order?

... The Fed made the mistake of waiting for inflation to appear before starting to tighten. It would be a similar mistake to wait for inflation to return to target before stopping the tightening cycle.

... Wage inflation has increased only about 3 percentage points. By this metric, which can be viewed as a gauge of ongoing inflation pressures, a smaller monetary tightening would be appropriate.

... M2 has grown a mere 3.1 percent.

... So, if I were one of the Fed governors, I would recommend slowly easing their foot off the brake.

... a recession seems a near certainty due, in part, to the Fed's previous miscalculations that led monetary policy to be too easy for too long. There is nothing to be gained from making the recession deeper than necessary. The second mistake would compound, not cancel, the first one.

コロナ対応でバイデン政権が実行した過大な財政とFRBの超金融緩和政策によってインフレが加速する事態を予め予見できなかった。一過性と思われたインフレが案に相違して終息しないと判断して後追い対応の「攻撃的金利引き上げ」に転じた。が、今度はそれがもたらすマイナス効果の影響を過小評価した。景気悪化を必要以上に深刻なものにして得るものはなく「二重の失敗」だと断じている。

小生もこの辺の認識に(ほぼ)賛成する。

★

ロシアがウクライナに仕掛けた軍事作戦にどう対処するかというバイデン政権の基本方針も背景にある(はずだ)。

要は、米軍派兵なき軍事支援と経済制裁だけでは、アメリカ経済(と世界経済)がもたない  ―多分、現在の対応を続ければ、あと1年、もたないに違いない ― 多分、ロシア経済とロシア財政ももたないだろうが。

そもそもが、コロナ禍の後の”Return to Normalcy"(正常状態への復帰)が完了しないまま、無理な財政政策、無理な経済政策を続けているのである。

ロシア軍がウ・ロ国境に集結した時、NATOも集結し、バイデン大統領が米軍増援の用意があると一言声明を出せば、今回の戦争はなかった。

『ウクライナを助ける』ではない。『国連の集団安全保障体制を守る』という大義名分でよかったはずだ。

それをしなかったのは中間選挙を意識したからに違いない。さすがに「アフガン撤退」の見っともない姿の後、再び欧州派兵というわけにはいかなかったのだろう。