2022年6月30日木曜日

ラッセル『西洋哲学史』の役立ち方

ラッセルの『西洋哲学史』は非常な大部の(大部過ぎる?)著作でありながら、読む人がまだ多いのだろうか、特に英語圏ではまだなお評価が高いようで、特に物理学者・アインシュタインが絶賛しているので有名らしい。

実はこのBertrand Russel"A History of Western Philosophy"がAudio BookとしてAmazonのAudible.comで無料公開されている。耳を馴らしておくためにそれを毎日聴いているのだが、人間の知的活動なるものの全体を雄大なスケールで総括する語りは、音声で聴いてこそ説得力が増すものだ。

時代を問わず、国を問わず、人間が物事を考え、議論するときの土台になる《知識》を問題レベルによって三つに分類している見方は、日本人も教養としてもつ方が良いと思う。

一方の知識基盤に《科学》がある。科学的知識は最も確固とした真理として人は認めざるを得ないという認識だ。これと正反対にあるのは信仰、ないし《神学》であって、その基礎には独善(Dogma)がある。公理と言っても可だ。公理を疑えば神学は成り立たない。その公理が真であることを信じようとする心情は「情熱(=Passion)」である、と。三番目に、科学では回答できず、かといって独善的な信仰によるわけでもなく、あくまでも人間の理性で考え合理的議論を通して結論を導きたい問題がある。それが《哲学》に期待されている知的活動である、と。このラッセルの説明は、非常にバランスがとれていて、感動的な(?)部分だ。


ラッセルは、科学でもなく、哲学でもなく、ドグマ的情熱が人間を支配する心性は古代ギリシア文明が形成される往古から連綿と継承されているものであると議論している。

理性ではなく独善を根拠とするのはディオニュソス神信仰に発するもので、哲学者プラトンのイデア(=理念型)にもつながる知的活動である。知的なアリストテレスが大地を指し、プラトンが天を指すラファエロの名画とラッセルの講義は、見事に整合しているわけである。


Source:Wikipedia


いわゆる「ナショナル・アイデンティティ(National Identity)」は国家の存在価値とでも言える問題意識だが、この概念はまさしく情熱を根拠とするものだろう。

戦後日本の問題は、敗戦時に日本のナショナル・アイデンティティが否定され、そうかといってアメリカのナショナル・アイデンティティを共有しようとする選択もせず、また許されるわけでもなく、ただ理性のみによって戦後日本のアイデンティティを構築しようとしてきた点にあると、小生は思っているのだな。

故に、危機の際には明治維新体制より昭和戦後体制の方が国民にとって暮らしやすい社会であるにもかかわらず、いざ防衛に直面すると三島由紀夫が心配していたように「命を何よりも大事と思う合理的な」人たちばかりで大変脆いのではないかと予想している。知的な意味での弱さは行動面の弱さにも表れるものである。最近は、アメリカとナショナル・アイデンティティを共有しようとする奇妙な標語を駆使しているようだが、いくら価値の共有という分析的概念に落とし込んでみても、アメリカ人がアメリカを守ろうとする情熱は日本人がそのまま共有できるものでもないだろう。話芸に頼った知的マジックには自然と限界があるものだ。

言葉は、所詮、言葉でしかない。

要するに、日本の言論は痩せている。片輪走行である。まるで自動車に対する自転車のようなものだ。どこが痩せているかという問題意識はラッセルの著作を読むと必ず刺激されることだろう。






2022年6月29日水曜日

ホンノ一言: 「コロナ」も「電力不足」も、「国民運動」しか打つ手を思いつかないですか?

多分、これも「想定外」であったのだろう急激な「世界的資源インフレ」に襲われている中、更に6月にしては異常な酷暑と最近年の慢性的電力不足とがあいまって、日本国内の大都市圏は極めて危険な経済状況に立ち至っている。物価問題だけでも対応が難しいのに、経済産業省は国民に「節電」を呼びかけるのに必死である。また再び「国民へのお願い」である。

この現状を招いた「戦犯」を世間は探しているようだが、詰まるところ、二つの陣営に分かれているようだ。

  1. なぜもっと速やかに原発再稼働を進めてこなかったか?ベース電源として原発を活用する意志を持つなら、もっと速いスピードで電源正常化を進めるべきであった。
  2. なぜもっと速やかに再エネ投資を拡大してこなかったか?福一原発事故を繰り返さないためにも原発ゼロを確かなものにしておけば、太陽光発電だけではなく広範にグリーン投資が行われ、送電網の整備も進んだはずであった。
双方の言い分は、将来の不確実性の上に立った議論でもあり、どちらが正しいかの決着はそもそも難しい。どの選択肢を選んでもリスクが伴うとき、それでも意思決定を行わなければならないとすれば、それは《政治》以外にはないわけであるから、究極的には東日本大震災以後の不徹底は<政治の責任>としか言えないだろう。日本は政治主導と言いながらも、本質的には<官僚丸投げ体質>から脱しておらず、政治家はリスクをとろうとしない。この辺りは戦前期・日本の方がはるかに活力がある ― あり過ぎたかもしれないが。やはりここでも
頑張る現場とダメな上
が当てはまるようでもあり、
ダメな上にはダメな下
に最近はなってきたかのかナア、と。そう感じることも増えてきたわけだ。

さて、小生は本ブログに何度も投稿しているように、原子力エネルギーの活用は20世紀の物理学が人類にもたらした巨大なプレゼントであると考えているので、原発重視が基本的立場だ。だから、20世紀の原発技術から現時点ではどの程度の技術革新が見られているのか、日本人もバランスのとれた知識を持つ方がよいと思っている。これは価値観の問題ではなく、理科教育と科学的教養の問題だ。科学オンチ、技術オンチでは困るわけである。

それにつけても、上のような丁々発止の激論をなぜNHKばかりではなく、民放のニュース解説(というよりワイドショー?)でもメインの話題にせず、今は選挙期間中でもあるのに《政策討論会》を各局、各ローカル局が企画し、有権者が視る前で立候補した政治家たちが堂々と論争するという状況にならないのか?そこが全く不思議である、というより今の政治家の臆病には
失意のあまり涙コボルル
である。問題が指摘されているがアメリカの大統領選挙が羨ましくなるというものだ。

少し考えてみるだけで、
  1. 総電力供給量が不足しているのに、《蓄電池にも使える電気自動車(EV)の普及》はその場しのぎの漫才としても、《製造業の国内回帰》など(真面目な話しで)不可能ではないか。製造業拡大など夢のまた夢。むしろ一層の製造業空洞化を心配すべき状況だ。しかし一方で、グローバル経済の時代が曲がり角を迎え《経済安全保障》が重要になってきたという現実がある。こんな脆弱な電力事情で新たなサプライチェーンを日本国内に再構築できるのか?メドはついているのか?
  2. 再エネ投資は、ザックリと言えば、休耕田活用という名目ではあるが基本的には既存農地を削減するか、でなければ森林、海洋など環境資源を開発するという筋合いになる。気象変動(Climate Change)による水害や崩落、食料資源の国際的制約が懸念される中で、エネルギー供給のためとはいえ、自然環境や農業ポテンシャルを毀損していく方針は合理的か?バブル時代の「ゴルフ場開発」が姿をかえて今度は「再エネ開発」にならないなら幸いだ。国が旗を振ればロクなことがないからネエ・・・群集心理ほど怖いものはない。
マア、こんな論点が次々に出てくるわけであり、とてもじゃないがワイドショーで「ちょっと話してみる」というレベルでは収まらない。総合的かつ多角的に議論するべき重要な政策テーマがここにあるわけだ。

ところが、国政選挙が間近いにもかかわらず、真面目な《政策討論会》がサッパリと企画されない、企画されても話題にならず、関心が持たれない。1枚のパネルに重点政策を箇条書きしただけで、あとは選んでくれ、と。

まったく
ボーっと生きてんじゃネエ!!
チコチャンに喝を入れてもらうべきなのは、政治家なのか、日本のマスコミなのか、それとも日本人全体なのか、よく分からない。

よく分からないが、真に重要な問題を正直に議論しようという人がいない、するべき人が逃げている。ビリー・ジョエルではないが欠けているのは"Honesty"だろう。それも仕方がないと国民の多くが諦めている、そんな今の状況が最大の問題だと言えば確かに最大の問題だ。

経済理論としては「勘違い」ではあったが、暗殺をも怖れず「金解禁」を断行し経済正常化を実現しようとした昭和初期の首相・浜口雄幸と蔵相・井上準之助の『男子の本懐』がまるで別の国の出来事のように感じる。


2022年6月26日日曜日

ホンノ一言: 滑り台の横からブランコは危険な遊具だと言ってもネエ・・・そんな記事の一例

原発リスクの指摘が世間では盛んである。今日もこんな記事を見つけた:

ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、原子力発電をめぐる議論が活発になっている。米欧のロシア産原油の輸入禁止・削減によって、火力発電の縮小を余儀なくされて電力供給不足が懸念されるため、電力の安定供給の観点から原子力発電の維持・推進を求める声が出ている。その一方で、稼働中の原子力発電所が実際に攻撃されたことで、安全評価で戦争リスクを想定外とはしにくくなっている。

URL:https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD2013U0Q2A620C2000000/

Source: 日本経済新聞、2022年6月26日 2:00

確かに戦争で敵国の標的になれば原発施設は危険だ。

しかし、小生が攻撃側にいれば、(破壊を目的にするとしても)原発を攻撃して(万が一の場合)当該地点周辺を長い期間にわたって居住不可能にするよりも、水力ダムがあればダムの方を破壊して破滅的な水害を起すほうを選択する。破壊と喪失という意味では両者は同じだが、こちらの方が敵国に与える打撃が大規模かつ短期集中的で、かつ一過性であるからだ。精密誘導が可能なら、重要地点にある堤防など治水インフラを破壊しても十分に有効だろう。

戦後のインフラ再利用に暗黙の了解が得られているような限定戦争を想定するなら、過剰な警戒感で経済の最適化を放棄するのは、むしろ有害である。

戦争は合理的に考えれば、双方にとって割の合わない高コストの政治手段で、ハイリスクであるのだが、だからといって何故に戦争時において原発施設がもつ脆弱性と危険をピックアップしフレームアップする議論にしてしまうのか?


昨日までアップしていた第一稿では否定的な感想を述べていた。が、よくよく考えてみると・・・

原発→核燃料→核兵器開発というロジックがあるに違いない。確かに、今次「ウクライナ戦争」でもロシアはウクライナに対して根本的な警戒感をもっていたに違いない。

やはり

核保有国にあらずして、原子力エネルギー活用を進める

こんなエネルギー戦略を選ぶには何らかのコミットメントが要るのかもしれない。《核兵器禁止条約》に参加する位の行動は隣国の疑惑を招かないためには必須の配慮かもしれない。これがロジックかもしれない。

日本政府(?)がここまで原発継続に執着しているのは、単にカーボンゼロを、安定的かつ比較的安価(?)に実現できるというエネルギー戦略上の優位性が唯一の理由なのか、首都の群衆から遠く隔たっている小生にはピンと来ないところがある。


考え直した結果、昨日までの第1稿から主旨がかなり変わってしまった。ここが随時上書き修正可能というブログならではの利点だろう。

但し、もちろん、戦時の攻撃目標の王道が軍需品生産など製造業が集中する工業地帯であることは言うまでもない。

2022年6月23日木曜日

ホンノ一言: 賃金引上げ?・・・「構造改革」は二つの選択肢にしぼられる?

参院選がスタートしてから、日本でも賃金引上げ、そのための生産性向上が議論されるようになった。これだけでも日本社会は<1歩>前進したように感じる。

10年ほど前までは<生産性>という言葉を使うと、『生産性を上げろと言うのは経営者本位の発想だ。もっと働けということだろう。怪しからん。』と。マア、こんな批判が野党やマスコミから津波のように沸き起こってきたものだ。確かに「生産性向上」の圧を感じないまま、一律昇給、一律昇進、定年再就職という人生は

〽 サラリーマンはア~~、気楽な稼業ときたもんだあ~~

と。まこと高度成長以来、日本の「企業戦士?」たちは、とりわけ大企業に勤務する恵まれた一部の戦士たちは、日本的経営の下で安楽に過ごせてきたわけである。確かに従業員本位の社会であった。それが、ずいぶん日本社会も変わってきたと思う。

もう限界かもしれない

と。リーマン危機では金融のシステミック・リスクが云々されたが、今度は日本的経営体制のシステミック・リスクが論議されようとしている。

どうやら、このキッカケは

韓国にも平均賃金で追い越され、これはイカン、と。

超保守的な戦後左翼、反改革派の野党も日本の凋落にはやっぱり不安感、危機感を感じると見えて、失業率の一時的上昇を覚悟してでも、最低賃金大幅引き上げを主張するようになっている。共産党系の野党など1500円を主張している。引き上げ率50%!韓国の文政権が断行した大幅賃上げなど「目じゃない」、義をみてせざるは勇なきなりというか、盲人、蛇におじず、というか、まあ米大リーグの大谷選手ではないがスゴイ公約が並んでいる。

★

最低賃金引上げといえば、菅内閣時の「成長戦略会議?」であったか委員に任命された英国出身の元金融マンで現在は京都にある ― と思ったが、日光東照宮造営にも関わった江戸発祥の企業であった — 伝統工芸品企業の社長をしているデービッド・アトキンソンが有名である。

今朝辺り、テレ朝の「モーニングショー」のコメンテーターとしてア氏が出演していたから、韓国の文政権が断行した最低賃金大幅引き上げを日本も模倣しようという流れになりつつあるのかもしれない。

アトキンソン氏、相当の自信がある様子だ。

何日か前、悲劇を別の舞台でまったく同じ内容でそのまま再演するなら、観衆は今度はそれを喜劇として鑑賞し、お笑いにするものだという人間心理を述べた。

日本と韓国と労働市場の構造はかなり違うが、まずは政策実験をしてみる勇気があるなら、やってみるのが最善であることは確かだ。歩きながら考えることが大事で、考えていても状況は変わらない。

下手な考え、休むに似たり

この格言は経済政策にも当てはまる。

★

先週末から今週初にかけて東京まで往復した。いや、マア、とにかく暑かったという感想で北海道に戻って機外に出たとき吸った空気にホッとしたものだ。

その帰りの機内で考えていたことをメモしておこう。

この30年間、日本の平均賃金がほぼ横ばいで、こんな先進国は他にはない。いま解決するべき最大の課題は《構造改革》である、と。こんな認識が浸透してきたこと自体は、未来への希望を高めるものだ。が、その「構造改革」とは、具体的には何を指すのか?何を目的とする「改革」なのか?ここが最も重要なポイントだ。

「構造改革」で目指すものとは、分かりやすく言えば

構造改革 → 労働生産性の向上

これに尽きるわけだ。この点は、今朝のアトキンソン氏が<バカでも分かる生産性と賃金の関係>を話していた。

企業と言うのは、要するに100で仕入れたものに、付加価値をつけて、200で売る。これに尽きるわけだ。経営者と従業員が加えた付加価値100が賃金支払いの原資となる。なので、同じ人数で付加価値を100から200に増やす。200で売れていたものを300で売れるものに出来れば、1人当たりの労働生産性は2倍に上がる。その人が支給される賃金原資も2倍に増える理屈である。つまり、生産性を上げずに賃金を上げるのは不可能である ― もちろん、生産性の問題ではない。資本家の報酬を削減して、従業員に分配すればいいのだと主張するマルクス的視点もある。しかし、経営者の報酬を削減しすぎれば、利益率が社会の平均に達せず、経営意欲が失われ、信用もなくし、企業自体が消えて行くだけである。

当たり前の理屈をやっとメディアも率直に語り始めたようである。


この当たり前の理屈を率直にテレビ画面から語らせる状況に至っただけでも、日本メディアの進歩である ― 正しい理解を得るまでかくも長い時間を要したことはメディア業界の酷い勉強不足の表れであったという非難は免れ得ないが。

さて、生産性向上には二つのアプローチしかない。これを考えながら旅行から戻って来た。

① 「市場競争と適者生存」の徹底 = 市場ディシプリン重視路線

生産性の高い企業と低い企業が同じ商品市場で競争するとき、高コスト体質を改善できない低生産性企業が生き残るのは困難になる。価格競争で勝てず、製品競争でも財務的余力がなければ負けるだろう。もし負け組のゾンビ企業を延命させることなく、市場から早期に退出させれば、負けた企業に属していた有能な人材は勝ち組企業に移籍し、その社の成長に寄与するはずである。他方、能力不足の社員は成長企業に移籍することができず、(おそらく)より低い賃金で再就業するしかない。短期的には弱者に社会的調整コストがしわ寄せされる。が、低生産の停滞企業の縮小と高生産の成長企業の拡大によって、日本全体の生産(=GDP)が増える。同じ就業者数でアウトプットが増えるのは社会全体の生産性が上がるということだ。それによって平均賃金の上昇がもたらされる。


② 労働市場改革 = 労働者個人の権利保護重視路線

有能な人材がより高い報酬機会を求めて自由に企業間を移籍できるように雇用慣行、労働法制を変更するというアプローチである。必然的に勤続年数で賃金が決まる年功賃金ではなく、その人が担当できる職務内容から賃金が決まるジョブ型賃金へと移る話しになる。年功賃金・終身雇用を原則とする日本型雇用の終焉を意味するわけだ。高い報酬を支払える新興企業が停滞している既存企業から有能な人材を奪取しようとするとき、その人材が在職企業内で形成してきた様々な資源をどの程度まで属人的資産としてトランスファー出来るかが非常に重要である。年功型賃金では中途退社・中途入社で個人的に失うものが大きい。これを解決し、勤労者個人を保護する法制が望まれるわけだ。企業の所有に帰する経営資源と社外に転出する社員個人に帰属させるべき社内資源との明確な線引きがポイントとなる。このような労働市場流動化が実現すれば、結果として、有能な人材がヒトを求める成長企業に集中、拡大し、停滞企業は人材が空洞化し、企業規模は縮小する。

帰りの飛行機の中でざっと上の二つの方法を考えていたわけだが、いずれにしても

ヒトを求めている成長分野を拡大させ、ヒトが余っている停滞分野を縮小させる

結局、日本経済の低成長と賃金停滞とは裏腹の関係にある二つの現象であって、その基礎にある経済的ロジックは極めてシンプルなものでしかない。簡単に言えば、

日本経済の停滞は停滞分野が縮小しないことによってもたらされている。

こう言えばそれに尽きるわけだ。

今日の停滞分野は、さすがに「重厚長大」型産業が財界を牛耳る時代ではないが、やはりまだ日本の産業政策には隠然たる影響力をふるっている。その停滞分野につながる企業に切り込み、それを縮小させる道をつける。これが政治的にいま日本がやるべきことなのだが、さて古い保守党である自民党にそれが出来るか?これが現時点の日本の政治的課題なのである。

アメリカやヨーロッパであれば、利害が対立する2勢力があれば、それぞれが異なった政党を支持し、政策的に対立、交替するものだが、不思議なことに日本ではこの対立構造がない。「労働者 vs 資本家」という174年も昔にマルクスとエンゲルスが提唱して今ではカビの生えた「階級闘争路線」を奉じて多くの政党が野党を延々とやり続けている。現代固有の対立構造を観察し、自党の支持基盤をどこに求めるか、政党のくせにそれも考えていないのか、と。まったく非現実的かつ無能な政略で、これが小生には「七不思議」なのだ。

成長分野とは、一口にいえば需要超過分野のことであるから、状態としては人手が足らない分野のことである。いくら経済オンチであっても、今日の日本にあって、どの分野にビジネスチャンスがあって人が足らず、どの分野では販売に苦戦し人が余っているか、この位は分かるだろうと思うのだ。

この辺の話題は既に何回も投稿しているので、<日本病>をキーワードにブログ内検索をかければ 、これまでの議論の流れは分かる。

2022年6月21日火曜日

断想:「政府の責任です」という言い方は評点「可」もしくは「不可」だよネエ

マスコミ、と言っても今日的状況では新聞よりもテレビであるわけで(そして、そのテレビですらマスメディアとしての影響力を失いつつあるのだが)、それが

これは<政府>の責任です

と、こんな言い方が頻繁に、というより余りにも頻繁に聞こえてくるご時世だ。


素朴な疑問がある。

《政府》という言葉にどんな意味を込めて使っているのだろう?

政府って《行政府》のこと?

だとすれば、こういう言い方はおかしいのじゃないか。日本はアメリカと違うのだ。 

こんな風にTV画面の前で声が出てしまう自分がいたりする・・・

いやはや、トシである。

 

政府が即ち「公的権力」という意味ならば、法律的根拠に基づいて「徴税権」や「捜査権」、「拘留権」など公的権限を有している機関がすべて含まれる。拘留権どころか司法権を含めるなら死刑を言い渡して命を奪う権力も日本にはある。しかし、ここまで広義の範囲で使うなら「政府」ではなく「国」という言い方をしているはずだ。

であるから、マスコミ辺りが「政府」と言うときは、先ずは「首相官邸」、これでは余りに狭い場合は「中央官庁」というイメージで、そう言っている印象がある。本当は徴税権や捜査権などをもつ都道府県や市町村も「政府」であるはずだが、なぜだかそれらは「自治体」という言い方をしているのが、やはりメディア・ボキャブラリーであって、この辺の語句の使い方は明らかに大学、学界とは異なっているように感じる。

しかし、マア、テレビのMCや専門家は、漠然と「▲▲省」、「〇〇庁」くらいの意味合いで「政府」と語っているのだと思うし、「政府の責任です」と言うのは「担当大臣の責任」、「担当大臣を任命した総理大臣の責任」ですと、言いたいのはこれだろうというのは分かるのだ。

しかし、こんな原稿では・・・大学で学生が提出するレポートでこの程度のレベルの文章を書けば、評点は<可>もしくは<不可>になると感じるのだ、な。


対米戦争を始めた責任は当然ながら「日本政府」にある。が、これでは実質的な内容は何もない。ゼロに等しい・・・と、気づくところから、勉強は始まるし、報道も同じことなのではないだろうか。

「責任は陸軍にあります」、「いや、海軍にもあります」、そんな思考の流れの末に「いや、いや体制からして天皇に責任があります」・・・あらゆる言い方がある。そのどれもが言い方としては正しい。しかし、どの言い方も単なる<言い方>に過ぎない。だからこそ、現代の日本人は一体日本はなぜアメリカと戦争を始めたか、その責任の帰着をまだ正しく本質に沿って理解していないのであるし、寧ろキチンと究明されていない状況を諦めてもいるわけだ。

先ずは、こう言っておけば間違いない

報道の現場でこんな割り切り方が支配的になっているなら、もうそこには研究という活動はありえないし、報道をしているならロクな報道にはならない。

一体、「間違いない」というのはどういう意味か?「間違いない」というのは「こう言えばそれは間違いだ」という是非の基準があって初めて言えるわけだ。そして是非の判断ができるというのは、前提としている目的や理論がある。故に、「間違いない」という人は、そう考える理由を求められるときに、ちゃんとアカウンタビリティ(accountability)を果たさなければならない。そう思うわけだ。


日本は国会が行政府を指導、管理する体制だ。大統領はいない。議院内閣制である。故に、政府と言う場合には国会を指す意味合いで使うべきだ。現にイギリスの新聞は▲▲議員、〇〇党に視線を向けていて、◇◇省や□□庁がニュースになるのは、何かを発表した時である。日本に置き換えれば、政府の責任というなら、議員である首相、議員である外相と言うべきであるし、つまりは自民党(と公明党)の責任と言わなければならない。

そして自民党の責任というなら、前回投稿でも触れた能力分布を考慮するなら、党の指導的立場にある極々数人の議員の言動に注意を集中するべきなのである。米英のマスメディアは、省庁や組織というより具体的な人物の発言や思想、傾向を頻繁に報道する。

なぜ日本ではそうなっていないのだろう。憶測するに、《記者クラブ制》という制度(?)と省庁という組織が一体になって、日本の政治報道、というより政府報道が展開されているからだろう。

これもメディア産業の「構造問題」の一つを為している。


そもそも、政治は人間関係の中にある。取材も同じだろう。それも「深い人間関係」の上に政治はある。「社内政治」、「学内政治」、全て同じだ。ところが、不思議なことに戦後の、というより現在の(?)日本社会は、日本国憲法のタテマエ的性質をより明瞭に意識しつつあるせいか、政治を人間関係として認識することにネガティブで、ますます社会メカニズムとしての政治というか、なにか実現するべき理想として考える傾向を強めているように見える。少なくとも小生はそんな感覚をもっている。人間関係の中にいれば言葉や態度で自分を表現しあうものだが、そこにはあらゆる要素がある。忖度だけではなく、 揣摩臆測 ( しまおくそく ) もある、 阿諛追従 ( あゆついしょう ) もあって当然だ。 面倒で仕方がない。もっとスッキリできないかと「何トカ政治」の嫌いな小生は願っているが、しかし、非合理で矛盾した人間が衝突する所に政治は必要になるわけだから、あらゆる▲▲政治が非合理的でドロドロしてくるのは当たり前のことだ。この程度の理屈は、成人式も済めば、誰でも分かっているはずなのだが・・・なので、メディアもこんな知的関心に応える政治報道をしてほしい。それが『これは政府の責任です』とはネエ・・・『ボウッと生きてんじゃねえ!』でしかないわナア。

大体、組織のルーティンワークはマネジメントであって政治ではない。ルーティンから出てくる固い情報をメカニックに集めても、清潔かつ透明で不潔感はないが、それは広報であって政治報道とは真逆の活動である。

今日もボヤキになった。同じ内容の事は何度も書いているから、この辺で。

2022年6月17日金曜日

断想: デモクラシーが善いか、悪いか、理屈では分からない

 前に<能力分布>について投稿したが、その中にこんな下りがある:

つまりどんな主題に関するレポートでも

10人のうち3流が6人、2流は3人、1流は1人のみ。

大体こんな経験則になっていると小生はずっと思ってきた。

面白いことに、この分布法則はどれほど細かく専門的分野に分け入っても、どれほどレベルの高いとされる機関の中に視野を限定しても、やはりその中で能力分布があることを観察できる。超トップクラスであるオリンピックにおいても選手の運動能力には大きな違いが視られるのを目の当たりにするが、これも一つの例である。

つまり、視野をどう定めるとしても、その範囲の中で1流の人は極めて少数である。問題によっては、その本質をとらえて正しく推論できる人は、100人に1人という出現率にしかならない。そしてまた、2流グループより、3流グループの方がずっと厚みがある。人数的に多いのだ、な。全体の能力分布は、中位に山がある左右対称型ではなく、平均未満の低位に山があり、ピークから高位の方へ長く右側に裾を引く歪みの大きい分布型をしているのが能力分布の特徴だ。こんな風に思っている。

民主主義的方法で重要事項の意思決定を図るとき、上のような分布が致命的に働くのではないかと思うようになった。

例えば国会議員に支給されるいいわゆる「文書通信費 」であったかな — まあ語句はどうでもよい。語句の正確性など拘るほどの重要性はない理屈だ。「ああ、あれネ」と分かれば十分だ。その使途を公開しようと検討してきたところ、この国会では結論が出ず、先送りになった。

もちろん真剣かつ有能で、仕事の出来る議員もいるわけで、そんな人たちは前向きかつ未来志向で適切な意思決定をしようと考えている(のだと信じている)。しかし、国会議員のレベルも(おそらく)玉石混交なのだろう。有能なヒトは少数で、平均未満の議員が過半数を占めているのだと推測する。低レベルの議員は落選すれば、民間で良い職業機会もなく、現職を続けることのみを希望するのだろう。現職にあって享受できる利益は将来もそのまま受け続けられることを望むだろう。どれほど一流の議員が改革を欲しても、平均未満の階層が反対に回れば、物事は決まらず、結果は《現状維持》になるのである。

デモクラシーとは多数者の支配という意味である。人数で物事を決める民主的決定を覆すには、「勅令」など君主制の下の君主の意志、もしくは三権分立の下で司法権に付与されている権限によるしかない ― 選挙無効、選挙区変更などはその好例だ。

立法府の議員達は日本社会の中では「選良」であり「エリート」である理屈だ。しかし、当選から就任に至るまで、どれほどの能力審査が行われているのか、不勉強にして知らない。おそらく驚くほどの職業的実績のばらつき、資質のばらつき、志のばらつきがあるに違いない(と思っている)。

非民主主義社会が円滑に運営されるには障害が多いと民主主義社会は言うが、民主主義社会が望ましい決定をするのかという点についても、確認するべきことは多い。<三権分立>は機能障害を防止する仕掛けの一例だが、もっと多くの仕掛けを追加するべきだと思うことは多い。

2022年6月15日水曜日

ホンノ一言: どうせ同じ結果になるなら・・・という割り切りが必要なとき?

アメリカの中央銀行当局FRBが世界的インフレに賢明に対応できるかどうかで議論が続いてきたが、どうやら当局自身が政策判断のミスを認め始めてきているようだ。

ウォール・ストリート・ジャーナルには

パウエルFRB議長 OLIVIER DOULIERY/AFP/GETTY IMAGES

バイデン米政権関係者や連邦準備制度理事会(FRB)高官は、インフレへの対応を誤ったと公の場で認めている。 

この失敗の背後には、経済を誤って解釈したことがある。 

URL: https://jp.wsj.com/articles/how-the-fed-and-the-biden-administration-got-inflation-wrong-11655178437

Source:WSJ、2022年6月14日

Author:Nick Timiraos and Jon Hilsenrath

The New York Timesの別記事からはこんな予測の形成されつつあることが伝わってくる。

A second stage to the market’s downturn is likely still to come, Ms. Shah said. Stocks could fall further as evidence of the economic trouble appears in corporate earnings, consumer spending and other data that show that the worst expectations for the economy are being realized. The new wave of selling may not happen until closer to the end of this year.

 URL:https://www.nytimes.com/2022/06/13/business/stocks-bonds-crypto.html

Source:NYT、June 13, June 13, 2022

Author:Mohammed Hadi and Jeanna Smialek

企業利益の減少、消費支出の減退が明らかになるにつれて株価は一層下落していくであろう。こんな予想が形成され始めている。リベラルなクルーグマンやサマーズよりかなりペシミスティックである。期待インフレの高まりはまだ見られないかもしれないが、不況が予測されるようになった。短期金利が長期金利を超える逆イールド現象も見られ始めた。どうも最悪の展開となる確率が高まってきた。

やっぱり、ダメだったか・・・というところだ。

少し以前にこんな投稿をしている。

1992年の大統領選挙で共和党のブッシュ大統領が民主党のクリントン候補に敗れたのは、選挙当時の経済的苦境が大統領の足を引っ張ったからだが、それは何もブッシュ大統領の責任ではなく、ある意味で世界経済の"Boom and Bust"に巻き込まれた点で運命的な敗北だった。同じように、この秋の中間選挙で民主党が負けるとすれば、それも運命的なものだろう。いま何をしても、やって来るのはインフレ加速か、不況かが変わるだけで、同じことなのである。

同じ結果が待っているなら、国民経済がより痛まない方を選ぶべきだろう。

やって来るのは<不況>か、<インフレ加速>か、そのどちらかになりそうだ。どうも<ソフト・ランディング>という理想のシナリオ通りには出来なかった模様である。

どちらに振れても選挙では敗北要因だ。となると、どうせ負けるなら(繰り返しだが)より混乱の少ない方を採るべきだ。対中外交戦略もあるのでどちらを採るか難しいところだ。

インフレを加速させてしまえば1970年代から80年代にかけての苦闘の10年間が思い出される。インフレを叩き過ぎれば、バブル崩壊後の日本のようになるかもしれない。難しい。だから経済運営の名手は『マエストロ』と敬称されるのである。

経済運営のマエストロと協調しながら国際外交戦略を進めるのは政治の名人だけである。

岸田政権は選挙戦略を要領よくやっているような印象だが、バイデン政権は泥沼の中で秋の中間選挙を迎えそうだ。これもその人のめぐり合わせというものか、はたまた自業自得というものなのか。