2011年5月9日月曜日

Eラーニングは学校を創造的に破壊するのか?

東電による損害賠償枠組みがまとまったら、直後に金融機関への債権放棄要請が官房長官の口から出たり、国家戦略相が電力市場の発送電分離に言及する。かと思えば、今日の新聞には官房長官も発送電分離ありうると追認する記事が出る。その記事の下に目を動かすと<TPPの参加判断先送り>という文字がある。

政治家の一挙手一投足が注目されるのは自然だが、情報を舌先で意図的にリークし、周りが異を唱えにくい空気をつくり、政治を行っていくという手法は、やはり上等のやり方じゃあない。今日はそれだけを言っておきたい。

極論すれば、戦前の官僚内閣なら情報操作、世論誘導が必要手段であった。それは国民の支持が欲しかったからだ。しかし、議院内閣制のもとでの内閣はそもそも国民が政権を支持している理屈だから、あえて意図的な大衆誘導など不必要なはずなのだ。

口先誘導を繰り返しながら、大衆の支持を作っていこうという政治姿勢は、原則なきポピュリズムの典型であって、小生はこれこそ現政権が衆愚政治に堕しつつある兆候だと見るのだが、どうだろう?

以上、表題記事の下書きと公開した日付がずれたので、5月17日現在の新聞に言及しました。

× × ×

実は、本日(今日は5月17日)のブログは表題のとおり、Eラーニングを語ろうと思っていた。ところが本文を編集し、下書きとして保存してあったはずのファイルが、Blogger.comによる先日のメンテナンス作業で一段階前のファイルに置き換えられてしまったようで、本文の肝心の部分が全て消えてしまった。

もう一度、同じ文章を入れなおす気力はないので、骨子だけをここに記しておきたい。大体以下のようなことを書いたのである:

数年前、小生は統計分析を学習するためのEラーニングサイトを立ち上げようと苦心惨憺していた。このブログにもその頃の名残を残してある。ま、記念というか、名残惜しいのですね。

まずは自動採点機能付きのドリルコーナー、サンプリングと標本平均の計算シミュレーション、回帰分析シミュレーションなどができるWEBアプリを作った。それからオンデマンド授業。ただ録画をしてもつまらないので、結構高額な商用製品を買って、パワーポイントと同期をとるスクリプトを自動生成させた。

1年以上をかけてコンテンツを作成して授業現場に投入して、学期最後には授業アンケート調査で学生の評価がデータとして戻ってきた。そのアンケート調査は全授業について行っていたから、満足度を形成する色々な因子を評価分析できたわけである。

その結果、Eラーニングの充実は確かに授業満足度の上昇に寄与していて、特に「分かりやすさ」を高める作用があることがデータから明らかになった。

Eラーニングのコンテンツ作成は、労力とカネと時間を必要とするが、一度作成すれば後はサーバーがやってくれる。サーバーの運転コストは大変安い。その安いサーバーが学生の授業満足度を高め、授業内容の理解を深めてくれるのであれば、学校経営の立場に立てばこれは嬉しい。同じ授業に複数の教員を配置するのと同じ効果をもたらすのだから、Eラーニングは確かに教育現場にとって福音だ。

Eラーニング導入直後の段階ではそんな評価をしたわけだった。

ところが、最初の評価は次第に修正されていった。決して、Eラーニングは低コスト・効率的な教育方法ではなかった、特に学校という組織の下では。

時間の経過とともに発生したのはメンテナンス・コストである。何よりブラウザの進化。そしてセキュリティ管理の厳格化。そしてスクリプト言語の仕様改変とレベルアップ。それらが原因となって、再生できていたコンテンツが再生できなくなる。スクリプトを手作りでなく自動生成させていたことが裏目に出て、デバッグに時間をとる。

障害解決は時間との勝負だ。次の障害と複合しないうちに、できるだけ早く原因を特定して、正常状態に戻す作業を進めることが大事だ。複数の障害が重なってしまうと、解決に要する時間は加速度的に長くなる。これは本来はビジネスなのですな。必要な労働を必要な数だけ投入する。そのコストは製品価格に上乗せして回収すればいいのですから。

学校という組織が企業組織と異なるのは、専門分野ごとに専門家が集まった商店街である点だ。投入した時間をコストとして回収する原理にはなっていないし、ある業務を犠牲にして、別の業務を実行できるように人的資源を投入するということはできない。大体、授業を休講にして、Eラーニングをメンテするなどということは、それが望ましくはあるとしても、ダメなのですね。

当初は低コスト・効率的に思えた新技術だが、予想もしていなかった環境変化が起こる中で想定外のコストが発生し、システムとして決して安価なものではないことが明らかになってくる。

何とこのロジックは、原子力発電のロジックと似ていることよ。というより、世の全てのイノベーションは、こうして採用され、試練を潜り抜け、生き残る価値のある技術は生き残っていくのだろう。そう思ったりもするわけだ。

本当にEラーニングで提供できるサービスがあり、サーバーのほうが教員よりも安価であるのなら、Eラーニング事業を学校の事業の中にインコーポレイトすればよいのである。そうすれば、WEBビジネスの技術革新と同じスピードで学校教育のレベルアップを実現していくことができるのである。

しかし、そのために学校に多く配置しなければならない人材は伝統的な「教師」というカテゴリーではなく、コンテンツを編集、管理するための「エンジニア」という人材であろう。

教育は人から人へ、つまり先生から学生へ直接行われるべきものだと、みんなそう思っていた。しかし、決してそうではない。そんな時代になってきたという事実を、いつ率直に認めるのか?それが非常に大事な問いかけになってきている。そう思うわけである。

確実なことは、これまで教師が担ってきた仕事の相当の部分はコンピューターで置き換えることが可能だ。ということは、それでも学校という場で生きた人間が教師として生徒と対面するからには、教師が果たすべき新しい役割があるはずなのだ。それをこれから議論していかないと、IT革命の浸透の中で学校という組織は必ず解体されていく。そう考えるわけだ。つまり創造的破壊だ。

まず破壊があって、次に創造をしないといけないのだが、最大の問題は中央官庁である文部科学省は学校制度の運営管理だけを考えていること。管理しているつもりが、いまの学校の在り方を続けること自体を目的とする、創造に必要な破壊を停止させることを第一に考える。その可能性も高いことだ。

だとすれば、19世紀以来の「教育は学校で」という常識は完全に陳腐化し、遠からず学校システム全体が時代遅れの恐竜のような存在になるだろう。

0 件のコメント: