2012年2月26日日曜日

日曜日の話し(2/26)

窓の外では海越しの強い風が吹き、雪が舞っているが、一月、二月に比べると随分と日差しが強くなった。少しでも晴れ間が出ると、積もった雪がとける。三月に入ると、坂の多い街の道路には雪がとけて流れ落ちるようになる。そうすると雪の下から蕗が坊主のような芽を出してくる。凝った肩が軽くなるのは今時分である。

先週は雪の絵の話をした。「雪の絵」というと、高校の美術では必ずブリューゲルが登場した。下の絵は大変有名だ。



ブリューゲル、雪の中の狩人、1565年
Source: WebMuseumから

ブリューゲルはブラバント公国の人である。ベルギーにあるブリュッセルやアントワープを含む地域だ。ベルギーといえば大家ルーベンスもそうだが、彼はアントワープの人であり、画家であると同時にフランドル伯国の外交官としても活躍したそうだ。本当にベルギー、オランダ、ルクセンブルグ辺り、伯領、公領 ― さらには侯領もあるのだろうが ― 入り乱れて複雑極まりない。ま、江戸時代の日本も天領、藩領、飛び地が入り乱れて、迷路のようであったというから同じようなものか。

画家の一族でもあった。上のブリューゲルは父の方のブリューゲルだ。調べると、父ブリューゲルは1520年乃至30年に生まれ1569年に亡くなっている ― ルーベンスは1577年から1640年。ブリューゲルが生きた16世紀中葉という時代は、いわゆる<ハプスブルク時代>だ。Paul Kennedy"The Rise and Fall of the Great Powers"では16世紀から17世紀初頭を"The Habsburg Bid for Mastery, 1519 - 1659"と呼んでいる。神聖ローマ帝国の帝位とスペイン世界帝国の王位の双方を得たカール5世以降、ハプスブルク家はスペイン、オーストリア二流に分かれるも、絆は強く、欧州を普遍的なカトリック理念で染め上げようと奮闘する。その果てがドイツ30年戦争であり、その戦争は1648年のウェストファリア条約で終結をみて、ハプスブルグ家の夢は潰える。以後、欧州を普遍的に支配しようとする権力はナポレオン一世まで登場しない。

ブリューゲルの住んだブラバント公国は、12世紀に成立したようだが15世紀以降はハプスブルグ家が公を世襲するようになったという。16世紀後半から17世紀にかけては、ネーデルランド(オランダ)独立戦争で大変であったのだが、ブラバント公国は結局二つに分解して、それぞれオランダ、ベルギーに属するという顛末となる。勉強のためにウィキペディアと地図を下に貼り付けておく。



ブリューゲルはブレダ出身だとも言われているそうな。だとすると、ベルギーというよりオランダの人である。この辺の事情、モーツアルトはザルツブルグ出身だから、オーストリア人ではなくドイツ人だと言うべきであろうと云うのに似ている。

地図の右下にルクセンブルグが見える。現在、ルクセンブルグ大公国には欧州統計局(EUROSTAT)が置かれており、欧州全体の統計作成を統合調整している。欧州は色々な機能が既に統一化されている。財政だけが国家主権として残されてしまったことが、ギリシア問題の背景だ。また同国にはLuxemburg Income Study(LIS)という国際的な所得分布データベースを管理する研究所がある。小生も、既に相当の昔だが、一度ならずお世話になったことがある。麦酒も葡萄酒も美味しく、物価は安く、のんびりと滞在できる都市、というか国であった。ルクセンブルグから鉄道に乗ると、すぐにドイツに入り、最初の町がトリエル(Trier)である。そこには黒の門(Porta Nigra)というローマ時代の遺跡がある。古名をアウグスタ・トレヴェロールムという。この街も大変懐かしい場所である。

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