「何とやるせないことよなあ」と思いつつ読んでいると、さらに下の記事が芋づる式に目に入ることになった。こうした点、ネット閲覧の便利性は紙媒体のメディアでは到底太刀打ちできない。
(ダイヤモンド・オンライン)
たとえば、こんな下りがある:
就職氷河期で正社員として就職できず、契約社員として会社を転々としてきた女性。終身雇用が崩れ、働き方の変容する一方、競争社会では当たり前に求められる「自己責任」。「自己責任」という言葉に縛られ、厳しい生活でも他人に頼らずに生きてきた結果、40歳を目前に「無縁死は選択肢のひとつ。そう覚悟している」と語っていた。
「親戚付き合いもほとんどないし、深い付き合いの友人もいないから、結婚でもしない限り、無縁死する可能性は高いな」
これは、 コンピューター関連会社の社員、35歳の男性のつぶやきだった。自己責任 ― この言葉は、しかし、無縁死を強要する言葉ではないはずだ。責任を持つべき人がしっかりと責任をもつ。当たり前のことを意味する言葉で、本来はあるはずだ。なぜ自己責任という観念を持つが故に、他人に頼らずに生きなければならない、そういう結論になるのだろう?
小生の友人なら言いそうなことは決まっている。耳に聞こえてきそうだ。
日本の民主主義は未熟なんだよ、というか日本に真の民主主義はねえんだよ!
確かに日本で社会に対して真の発言力をもっているのは<会社>であり<組織>であり<集団>である。既成の組織に正規に帰属できない人は疎外されてしまう。それを差別とは認識せず、自由な契約に基づく帰結だと見なす傾向がある。それはおかしい。不平等な交渉力を濫用した結果であるとみなさない。それが無数にあるイデオロギーの中の特定の一つに基づく価値判断であることを自覚していない。アンフェアに対する怒りが社会的広がりで高まってこない。生きている生の個人が発する声に、社会はまじめに耳を傾けているだろうか?まるでジャーナリストのような言い草だが、こういうしか言いようがない。
「それってあなた個人でなさっている活動なんですか?」
「もちろん個人としてやっていて、誰の指示も受けているわけではないです。」
「そうですか?安心しました。それならお手伝いさせて頂きます。いやね、あなたが何かの組織に属してらして、その組織の意志決定の下で活動していらしてるんだとしたら、信用できないじゃないですか。だって、組織次第で別の人に交代するかもしれないし、組織のトップの意志決定でどうなるかわかりませんから。いやいいんです。あなたが個人として活動しているんなら、あなたを信用すればいいんですよね。お手伝いさせて頂きましょう!」
橋本大阪市長は「船中八策」なる提案を公開した。幕末の志士坂本龍馬の跡を襲っているのだろう。しかし、幕末の志士は個人として志をたて、個人として活動し、支援する人も志士個人を信用して応援した。それは長州藩という組織に属しているかに見えた志士たちにも言えることだ。長州正義派が俗論派を制し、維新を成し遂げるまでの間、彼らは組織内で自らリスクを引き受けて個人として ― 時には弾圧もされながら、それでもなお ― 活動し、藩の国境を越えて他と交わりを結んだのである。それでも彼らを支援する豪商、豪農など富裕層がいた。
もし迷走する今という時代を乗り切るために幕末明治の時代を思い起こすのなら ― というか、他にどの時代を思い出せるだろう、私たち日本人は ― せめて上に書いたような会話がなされるようでなければならない。個人よりもその人が属する会社を知りたがり、その人を信用するにはその人の組織内の地位を知りたがる社会では、幕末から明治にかけて日本で沸騰したようなエネルギーは<絶対に>これからも出てくるはずがないのである。これはロジカルな結論だ。
幸福は個人が追求するものであり、会社や組織や集団が追い求めるものではない。組織は組織の<利益>を求めるものであり、それは個人の<幸福>とは違うものだ。組織が大事であると考える人は、幸福よりも利益を本音では優先している理屈である。日本の政治家が個々の日本人よりも先に団体や会社の言うことに耳を傾けている間は、民主主義であるとは言っても、個人の幸福は真の意味で政治の目的にはなっていない。それがロジックである。
政治家が「幸福」を口にするなら、政治家が誰とどんな話をしているかをみるべきだ。行動がその人の本当の言葉である。無縁死が日本人をより不幸にするのであれば、無縁死が増加しているのであれば、日本の政治において、幸福は決して重要視されておらず、もっと優先されている政治目標があるということになる。これが論理的結論だ。「最大多数の最大幸福」というアングロサクソン流の功利主義思想とは違った政治思想に日本は立っていることになる。
しかし望ましい政治家を選ぶ権利は、実は個人としての日本人がもっている。組織や会社は選挙権をもっていない。無縁社会を招いている一半の責任は、実は個々の日本人自身にもある。そう考えるべきだ。
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