その結果のうち、平均値を理解していない大学生が多い、というのが話題になっている。小生の専攻分野でもあり、これは面白いとなった。以下のような内容だ。
(出所)日本経済新聞、2012年2月25日朝刊から引用
新聞を読みながら、かみさんが近くにいたので質問してみた。カミさんだが、女性には珍しく、数学が好きで歴史と国語が苦手であり、最近の趣味は「ナンプレ」、つまり数独なのである。
設問(1)は平均値以下の人が半数いる、以上の人が半数いる。こうは断言できないことはカミさんも正答した。(2)は出来なかった大学生がいたこと自体が不思議な現象。(3)はカミさんも間違えた。身長の分布は概ね左右対称であるし、平均身長が163.5センチであれば、その付近の人が一番多いだろう。そう考えたのだな。解答の鍵は「生徒100人の・・・」というところ。たとえ全体としては平均を中心に左右対称になっていたとしても、100人の分布だと違うだろう。凸凹がある。低い人と高い人がそれぞれ多く、並の人が少ない100人かもしれない。だから(3)もやはり×なのだ、な。
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しかし、どうなのだろう?上のクイズは、「平均値」についての理解度がよくチェックできる良質のクイズだと小生も思うが、これだけで「平均値も理解できない大学生の低学力」とは言えないような気がする。
そもそもデータにはランダムな揺らぎが含まれている。だから、大事なことは、測定結果を丸ごと信じるのではなく、得られたデータは想定内であるかどうかという判断である。データを活用する前に特定の想定を持っていないと<判断>はできない。このような場合、二種類の間違いをおかす可能性があることは、統計学の授業でも大きな聞かせどころになっている。一つは「第1種の判断ミス」と呼ばれる。これは<ヌレギヌ型>というか、想定は正しいのだが、データが想定外に思われる時だ。もう一つは「第2種の判断ミス」。これは<見のがし型>というか、実際には想定が間違っているのに、データは正常のように見える場合だ。本当にこわいのは、無論、後者の場合である。「おかしい!」と思ったところ、何も異常はなかったとしたら、ムダに騒いだ点はとがめられるが、何もなかったこと自体は良いことに違いない。反対に、「測定結果は想定内であります」といえば、その場は丸くおさまるが、実際には想定に誤りがある。大惨事の可能性が見逃されてしまう。これでは手間ひまをかけて測定している意味がないことになる。
怖いのは<第2種の誤り>の方である。想定内と判断する正にその時にこそ、失敗の芽が隠れているのである。
話が横道にそれた。さて大学生の学力だ。
全体としては大学生の学力は低下していないと想定しようか。今回の日本数学会が行ったテスト結果は、確かに不安を抱かせるものであり、この低い正答率は<想定外>の結果なのかもしれない。しかし、20年も昔の大学生に同じ数学テストをしたわけではなかろうと思う ― 寡聞にして聞いたことがない。「学力が十分だったはずの」昔の大学生なら、まずこんな回答はしない。事実、もっとできた。この点が確かめられているのであれば、今回の結果は現在の学生の学力低下を証拠付けるものになる。そうではなく、昔の大学生だって間違える問題なのであれば、今の大学生だって間違えて当然であろう。日本数学会はそこをはっきりとさせて頂きたいのだ、な。
つまり厳しすぎる目で、もっと言えば<先入観>をもって、今回の数学テストの結果を新聞は論評しているかもしれない。ま、結果オーライ(=学力は下がっている)なのだろうが、報道姿勢が問題である余地はある。そう思うのだ。
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小生自身は、統計学という授業を担当しながら、常日頃どんな感想を持っているかといえば、今年度入学の大学生についても、昨年度までに比べて驚きに値するような低い学力を感じることはない。ズバリ、定期試験の出題レベルをこの10年間に下方に修正したかと聞かれれば、修正してはおらず、試験のレベルは10年前と同じである。しかし、20年前と同じレベルかと問われれば、「それは確かに易しい問題にしているような気はしますねえ」と答えざるをえない。しかし、強いて言うなら・・・、その程度のことである。
世の中には「いやいや、最近の大学生は激しく学力が低下しています」、そんな指摘があることも知っている。それは、しかし、教えられていないからではありませんか、と。だとすれば、この原因は二つある。一つは高校までの授業を受ける側の意欲の低下、もう一つは教える側の学力低下である。どちらも高校までの授業が「想定通りに」機能していないことになる。もしも低学力の大学生が二年次以上であれば大学という「学校」に対しても当てはまることだ。いずれにしても、これらは学生当人たちの「学力不足」という言葉で認識する事柄ではなく、学校を含め営利・非営利の教育サービス部門の組織・顧客分析という目線でアプローチするべき問題だ。一口に言えば、教育サービス部門の構造改革が滞っている証拠の1つとして、今回の数学テストの結果を受けとるべきか否か?そんな問題設定になるのではないか。それ故、大学生の学力低下という議論をしても、問題解決には寄与せず、甚だしく不毛である。どうしても、小生、そう思えるのだ。
世の中には「いやいや、最近の大学生は激しく学力が低下しています」、そんな指摘があることも知っている。それは、しかし、教えられていないからではありませんか、と。だとすれば、この原因は二つある。一つは高校までの授業を受ける側の意欲の低下、もう一つは教える側の学力低下である。どちらも高校までの授業が「想定通りに」機能していないことになる。もしも低学力の大学生が二年次以上であれば大学という「学校」に対しても当てはまることだ。いずれにしても、これらは学生当人たちの「学力不足」という言葉で認識する事柄ではなく、学校を含め営利・非営利の教育サービス部門の組織・顧客分析という目線でアプローチするべき問題だ。一口に言えば、教育サービス部門の構造改革が滞っている証拠の1つとして、今回の数学テストの結果を受けとるべきか否か?そんな問題設定になるのではないか。それ故、大学生の学力低下という議論をしても、問題解決には寄与せず、甚だしく不毛である。どうしても、小生、そう思えるのだ。
もう一つ、新聞報道で気になる点。<ゆとり教育>が学力低下をもたらしているとすれば、それは<全ての学力の低下>になっているはずだ。しかし<全ての学力>という概念定義は難しく、これを確認することは容易ではないだろう。まして以前のデータと比較するなどは不可能であろう。<数学力>が低下したからといって、ゆとり教育が原因であるとは結論できない。高校までの数学授業が劣化している可能性もあるし、入試数学の問題の品質が劣化している可能性もある。学力低下の犯人探しは、それほど簡単な議論で決着はしまい。「てっとり速い議論」がもたらす「マイナスの価値」は、政治の世界を歪めるだけではない。良い教育を破壊するパワーをも秘めているのである。
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